About The Death -クリスチャンの死生観-

クリスチャンの死生観について、日本キリスト教団高砂教会の手束元老牧師が永眠者記念礼拝で
語ったメッセージを6回シリーズでお届けします。
第1回/第2回第3回第4回第5回第6回

手束牧師の「死」にまつわる説教 第1回
 1.天国の情景―信仰の奥義としての賛美
【聖書テキスト】

その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。
そして、さきにラッパのような声でわたしに
呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上がってきなさい。
そうしたら、これから後に起こるべきことを、見せてあげよう」と言った。
すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。
見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、
緑玉のように見えるにじが現れていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、
二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座に着いていた。
御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、
御座の前で燃えていた。
これらは、神の七つの霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。
御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔を
しており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、
その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。

 昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。

これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、
また、感謝をささげている時、二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、
世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。
 あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。  
(ヨハネの黙示録4章1-11節)

 ヘンデルの「メサイヤ」の中に有名な「ハレルヤ・コーラス」がある。この「ハレルヤ・コーラス」
というのは、元来キリストの復活を歌っている。死んで亡くなられたと思われたイエス・キリストが
復活されて、この地上を統べ治められる主となられた喜びを歌っている。
王の王、主の主となられたイエス・キリストを私達は心から喜び、それ故に主の御名を崇め讃える
というのが、この「ハレルヤ・コーラス」である。
 しかし、それは単にイエス・キリストの復活を喜び祝うということだけではない。
実は私達自身も主に在って復活の恵みと救いに与ることができるということであって、その故に
私達は心から喜び感謝して、「ハレルヤ」と主を賛美していくのである。
死は決して終わりではないと、この「ハレルヤ・コーラス」は私達に語っている。
多くの人々は死をもってすべてが終わると考えるのであるが、そうではない。
死は決して終わりではなく、死の後に新しい人生が開かれてくる。
それは、この世を超えた人生であり、この地上にある人生よりも更に幸いな、また恵みに満ちた、
喜びに満ちた人生なのである。すなわち、死は天国における新しい人生の幕開けの時であり、
エス・キリストの復活は、まさにこの事を私達に約束し、保証するものなのである。

賛美のなか天に凱旋

 1985年7月、義父三島実郎牧師が肝臓ガンの為に亡くなった時、その召天の有り様は大変見事な、

かつ、美しいものであった。召天の間近、「ハレルヤ、ハレルヤ」と叫びながら、
主を賛美しつつ天に召されて行くという、素晴らしい感動的な臨終の光景だった。
よくクリスチャンの死をもって、「天への凱旋」と言う。
すなわち、勝利のマーチ、行進ということであるが、三島実郎牧師もまた、まさにこの「天への凱旋」を
果たしたのである。そして義父は、クリスチャンの死とはいったい何であるかということを、
身をもって私達に教え示してくださった
 (「キリスト新聞」1985年9月28日号「天国の椅子」参照)。

 数年前の春に亡くなった私達の教会員である有本哲郎兄もまた、召天の前にその唇から
「ハレルヤ、ハレルヤ」という叫びが出されたという。
進行性筋ジストロフィーという難病に若い肉体が冒されて、16歳から召天される39歳までの
20年以上もの間、それも夢多き青春時代を闘病生活に明け暮れ、自由のない、希望のない
世界の中で苦悩し煩悶し続けた。しかし、イエス・キリストにお出会いし、み救いに与って、
その召天間近の時に、主はこの兄弟に臨んで下さり、平安を与えて下さった。
そして天国の確信を与え、勝利の喜び、復活の希望を与えて下さって、「ハレルヤ、ハレルヤ」という
賛美の言葉をその唇にもたらして下さったのである。
それは、何と素晴らしい天への凱旋であったことか。
有本哲郎兄の死の模様もまた、私達に感動を与えると共に、クリスチャンの死とは何であるかを
その身をもって教え示して下さるものであった。

 なぜ、クリスチャンはその葬儀に際して、讃美歌を歌うのであろうか。
なぜ、死という、この世的に見るならば悲しむべき事実を前にして、讃美歌を歌うのであろうか。
ある人達はクリスチャンの葬儀の模様を見て、キリスト教というのは葬儀の時にも愉快そうに
歌を歌っている、不謹慎ではないか、と感想を語ったと聞く。何故賛美するのだろうか。
それは、私達クリスチャンにとって死は終わりではなく、新しい天国に向けての旅立ちの時として
迎えるからである。すなわち、私達はこの地上の生から大きく飛躍して、更に喜びの人生に
突き進んでいくということなのである。
だから私達クリスチャンにとっての死は、ハレルヤと歌いつつ向かうべき事柄なのであって、
それは喜ばしく、感謝すべきことなのである。
私達は死に向かい、死に際して、主を賛美しつつ召天していくその準備ができているであろうか。
そのことを自分自身もう一度深く問い直していきたい。

讃美に満ちる天国

 ここで珍しくも黙示録を取り上げている。黙示録の解釈は難しい。従って黙示録から説教されることは
少ない。黙示録の解釈においては、大きく「非歴史的学派」と「歴史的学派」とに分かれる。
「非歴史的学派」は更に三つに流れていく。第一は〝心理学派〟(心理学的に、特に深層心理学的に
解釈する)、第二は〝霊的学派〟(信仰の霊的真理を明らかにし、霊的に勝利する原則を取り出す)、
そして第三は〝教訓学派〟(神が私達に語る教訓を見いだしていく)である。
「非歴史的学派」とは、要するに、黙示録を垂直に解釈していこうとする立場である。
これに対して「歴史的学派」とは、黙示録を水平に解釈して、歴史のある時期に起こることを
予言的に書き記したとする立場である。この「歴史的学派」にも三つの流れがある。
第一は 〝過去派〟(1世紀から3世紀までのローマ帝国時代の教会に起きたことを予言していると
解釈する)、第二は 〝歴史派〟(人類の全歴史を7つに分類して解釈する)、
そして第三は〝未来派〟(歴史の終わりに成就する予言が記されていると解釈する)である。

 黙示録を解釈する場合、自分がどの立場に立つかを確定しないと、その解釈は非常に困難であると
言われている。
最近よくもてはやされている解釈は、「歴史的学派」の〝未来派〟 であるが、私はむしろ
「非歴史的学派」の〝霊的学派〟を採りたい。
カリスマ的信仰の立場からは、この〝霊的学派〟の解釈が最も適切であるように思える。
故に、この箇所もその立場から解釈していく他はない。

 黙示録4章1節から11節においては、天上界、天国の模様が描かれている。
「その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、
緑玉のように見えるにじが現れていた」(3節)と書かれているように、神様の玉座、御座というのは
太陽のように光り輝くものであり、また主なる神はまさにそのように光り輝く太陽のような方であったと
そこには描かれている。
そして続く4節において、「また、御座のまわりには二十四の座があって、
二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」とある。
このところに書かれている「長老」という意味について、様々な解釈がなされているが、
天使の長たる人々、すなわち天使のリーダー的存在の人とする解釈が強い。
更に「御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいた」(6節)とある。
この四つの生き物とはケルビムである。すなわち、聖所を守る天使、護衛兵なのである。
この二十四人の長老と四つの生き物は、そのところで昼も夜も絶え間なく神様を礼拝していたと
記されている。このところから、天国の本質的特徴というものは、この二十四人の長老と
四つの生き物とが捧げていた「礼拝」だというのである。
よく天国の情景をいう時に、美しい音楽と、また人々の幸せ喜びが満ちあふれている所
というイメージを持つのであるが、もちろんそれも間違ってはいない。
しかし、その本質的特徴は神様を礼拝しているところにあるというのである。
礼拝が天国のすべてではないが、天国の中心的情景なのである。

人の在るべき姿

 それではいったい、この天国の本質的特徴が礼拝にあるという事は何を意味するのであろうか。
それは神を礼拝することこそ、本来私達人間の在るべき在り方であるということである。
すなわち逆に言えば、神を礼拝することを失った人間は、本来在るべき姿にないということになる。

 私達人間は、この地上をいかに天国たらしめんと天国を追い求め、これまでにもこの地上に天国を
来たらそうとする色々な試みがなされてきた。
カール・マルクスの「共産党宣言」というものも、そのひとつである。
これは、共産党主義社会をもってこの地上に天国をもたらすという宣言なのである。
また、トーマス・モアの「ユートピア」もそのことを描いているものである。
他にも多くの試み、思想というものが歴史の中で繰り返されてきた。
言うならば、この地上を天国たらしめたいという願いは、人間の永遠に追い求め続ける
夢だといえる。

 しかし、そのようにして、実際にこの地上に天国は作られたのであろうか。
そのような人間の努力によって天国が建設され得たであろうか。その答えはもちろん否である。
あの天国を目指して作られたはずのソ連の国で、いったい何が起きたか。何と二千万人にも及ぶ
大虐殺が行われていたのである。しかも国中に政治犯を捕縛し、罰するための収容所が林立する
「収容所群島」(ソルジェニーツィン)を招来したのである。
人間が自らの手で、自らの努力で作ろうとする地上の天国は、このように天国どころか逆に地獄と
化してしまうという、現代の生きた実例である。

 それではいったい、天国はどのようにしてもたらされ得るか、そのことを考えてみたい。
「教会は神の国のひな型である」と、かのアウグスティヌスは言っている。なぜこのように言えるのか。
それは、教会とは主なる神を信じ、主なる神を礼拝する場所であるからである。
天国の中心的特徴は礼拝にあるとすでに語ったが、教会の中心的営みもまた礼拝である。
それ故に天国、神の国というものは、教会においてすでに実現しているといえるのである。
真実の神を礼拝することなしに天国はあり得ない。したがって教会において、私達が真実な礼拝を捧げて
いるならば、そこに天国は実現しているのである。

 また、黙示録のこの天上界の礼拝の情景というものは、礼拝とは何かということをも同時に
教えている。礼拝とは何か。それは「賛美」である。
礼拝の本質は神を讃えること、賛美をすることにあるということである。
礼拝に参列することを、「説教を聞きに行く」という言い方をする場合がある。
しかし、それは正しい言い方ではない。もちろんその中で説教もなされるのであるが、
言うならば説教もまた、神を讃える為にあるのである。

礼拝の本質は讃美 

 礼拝は本質的に神を讃える歌、神を崇める歌なのである。
今日のカリスマ運動において、賛美が美しい、素晴らしいということを、私達はよく聞く。
たとえカリスマ運動に反対する牧師や信徒達であっても、その賛美の美しさは認めざるを得ず、
その賛美の中に心を開いてくるのである。
それは、聖霊の働きの中で次々と美しい賛美が導かれ作られて、そして歌われていって、賛美の礼拝
というものが実現していく故である。それは「ハレルヤコーラス」のような高度な賛美ではないかもしれ
ないが、若者達の内に老人達の内に、その美しい賛美が奏でられ、歌われていってその美しい賛美の
礼拝を造り上げていくのである。礼拝の本質は賛美にあるということを、今日のカリスマ運動は私達に
教え、そして実践しているのである。

 礼拝の本質が賛美にあるということはどういうことなのであろうか。
それは、賛美こそが私達の信仰の本質なのだということである。賛美こそ、私達クリスチャンの信仰の、
中心的、奥義的な力なのだということである。従って賛美の美しい教会、そこに主は臨まれる。
賛美の素晴らしい教会、そこに主の恵みは留まる。また私達の人生や生活に賛美があるならば、
そこに主は宿られるのである。

 私達の人生は賛美の人生となっているであろうか。それとも賛美のない不平不満の人生であろうか。
私達の人生は神を讃える歌で満ちた人生であろうか。それともつぶやきと否定的な言葉で満ちた人生で
あろうか。つぶやきや不平のある所、そこに悪魔の働きがつけこんでくることを忘れてはならない。
しかし主を心から崇め主を賛美する所、そこには主の恵みが注がれてくるのである。
「イスラエルのさんびの上に座し給う聖なるお方」という詩篇22篇3節の御言葉のように、
主は賛美の中に座し、賛美の中に臨まれる。私達はそのことをしっかりと認識し、賛美の中にあるその
奥義、力に与っていきたいものである。

人間存在の目的と讃美

 それではなぜ、神を賛美していくのか。神を賛美するということの意味は何なのか。
それは神が素晴らしい方であるからか。もちろんそうである。しかし第一の意味は、私達の生存の目的は
自分にはないということである。言い換えるならば、私達の本当の人生は自らの栄光を求めることにある
のでなく、神の栄光を求めることの中にあるということなのである。自分の為の人生、自分の栄光を現す
為の人生ではなくて、主の為、キリストの為の人生こそ、カルヴィンの言う如く(「ジュネーブ教理問答」)、
私達の本当の人生なのだということである。
クリスチャンとはまさに、この様に人生の目的を神の栄光の為に置く者達のことである。
たとえ自らの努力によって達成し得たとしても、自らの知恵と力を用いて果たし得たとしても、私達
クリスチャンは神を賛美し、全ての栄光を神に帰すのである。そして常に自らを主に捧げ切る人生を
歩んで行くのである。

 ここに、ひとつの美しい証しを記したいと思う。私の母校関西学院が創設され、1989年で百周年を
迎えた。ウォルター・ラッセル・ランバス博士によって創設せられて、様々な困難の中を通りつつも
百年もの歩みが導かれてきたのである。その中で神学部は、戦時中軍部の圧力により閉鎖され、
戦後再建が進められていった。
その再建に際して、ある一人の宣教師の多大なる貢献があったことは銘記されるべきであろう。
アメリカの南メソジスト教会から関西学院神学部に派遣されてきたハワード・ウィルキンソン・
アウターブリッジ宣教師がその人である。

 アウターブリッジ宣教師は再開された神学部において多くの授業を受け持った。
それも他の教授達と比較にならないほど多くの授業を受け持ったのである。当然、それらの授業は
専門外のものもあり、また研究に時間がとれない為に、十分に学生達を満足させるものではなかった。
その上、それらの授業は英語でなされた為に、更に学生達の不満は募っていった。
「あいつは何でも屋だ」、「何だあの授業は」と非難する者が多くいた。しかしアウターブリッジ宣教師は
何も反論せず、黙々と授業を続けていったのである。何年か経ち、アウターブリッジ宣教師は
一つの書き物を記した。それは引退の際のものであり、「神学研究」という雑誌の中で残されたもので
あった。それを読んだ者達は大きな感動に包まれ、これまで様々に非難してきたことを恥じ、
また反省したのである。

 それは、アウターブリッジ宣教師の自己犠牲の姿であった。戦後の関西学院神学部再建に当たって、
多くの優れた教授達を招かなければならない。しかしその為には、色々な条件を整える必要があった。
過重な負担のある所へは優れた人材は集まりにくい。また育成していくことが難しい。
悩みに悩んだ末、アウターブリッジ宣教師は自分が犠牲になろうと決心した。
つまり、自分が余り得意でもない学科を受け持つことで、他の教授達の負担を軽くし、条件を良くして、
彼らが研究に十分に打ち込むことができるように整えていったのであった。それは決して、
アウターブリッジ教授の自己顕示欲から出たことではなかったのである。自分が教えたいから、
より多くの学科を受け持ちたかったからでもなかった。アウターブリッジ教授は、三つの神学校で学んだ
素晴らしい神学博士であった。学者として後世に業績を残したいと願うのは当然である。
存分に研究に打ち込みたいと願って当然である。しかし彼はこの神学部再建の為にそれらの夢を
捨てた。それらの夢を犠牲にして、ただ一途に神学部再建という仕事にすべてを注いでいったのである。

 まさにその生き方は、自分自身を捨て、ただひとえに主の栄光のみを求めていった生き方であった。
自分自身に焦点を合わせる生き方ではなく、主の栄光に焦点を合わせる生き方、
このアウターブリッジ教授の生き方こそが、私達クリスチャンの歩むべき姿なのである。

つぶやきから讃美へ

 私達が神を賛美する第二の意味、それはあらゆる事柄に対する神の御計画を受け入れるという
ことである。
「あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」(11節)という
御言葉は、天上における賛美の言葉である。
リビングバイブルは「全ての物をお望み通りに造り、存在させておられるのです」と訳している。
この御言葉の意味するところ、それは主御自身の計画と愛の御旨をもって、あらゆる事柄を神は
導かれているということである。私達人間にとっては理不尽に見える、不合理に見える、
不条理に見える事柄に対しても、そのすべての物をお望み通りに造り、存在させておられるということ、
すなわち、すべてのことは神の許しの下に起こされた計画だということである。
たとえそれが人間の目には悪しきことに見えようとも、それは私達人間には計り難い神の知恵によって
起こされた良き事柄なのである。私達はそのことを信じ、受け入れなくてはならない。
それ故、私達はありとあらゆる状況の中で主をほめ讃えていかなければならないのである。

 ある一人の牧師がいた。大変素晴らしい牧師であったが、ただ一つ自分に足りない所があると
神の前で祈り続けていた。それは忍耐ということであった。自分自身には忍耐が欠如している、
どうぞ忍耐を与えて下さいと絶えず祈っていた。その教会に一人の事務員が送られてきた。
それはある有力な牧師からの紹介であったので、さぞかし立派な事務員であろうと期待して迎えた
のであった。ところがその期待に反して、彼は気が強く反抗的であり、その上働きも満足できるほどの
ものではなかった。教会内に絶えずトラブルが起きるようになり、牧会にも影響が出始めた。
何度も彼を辞めさせようと思いつつ、しかしそれも出来ずに牧師は苦しんだ。
その苦しみもがく中で牧師は初めて気付いた。神が今、祈りに答えて自分に忍耐を育てようとして
おられるということを。それを知った時、神への賛美があふれてきた。
賛美の祈りを心から捧げることができたのであった。
そしてその時から事態は徐々に変わり始めた。これまであれほど反抗していたその事務員の心が
開かれ、解かれていった。そしてやがて牧師を深く尊敬し、忠実な働き人に変わっていった
というのである。

 神の計画というものは、すべてこのようなものである。人間の愚かな頭で、愚かな知恵で思いめぐらし、
推し量り、ある時は憤り、ある時は怒りに身を焦がす、これが人間の姿である。
自分だけがひどい目に遭っているかのように、被害者意識や自己憐憫に落ち込み、ブツブツ不平を
言う、これが私達人間なのである。しかし、たとえそうであっても神の計画を受け入れ、
どのような事柄に対しても主を賛美していかなければならない。
「なぜ」、「どうして」と叫びたくなる時であっても、神の大いなる計画の中に進められている事であると
信じ、主を賛美していく時、そこに大きな神の力が解放されていくのである。
そこに素晴らしい神の御業が起こされていくのである。神はあらゆる事柄に対して、良き計画と
良き御旨を持っておられる。その扉を開く鍵は「賛美の力」である。
だからこそ、私達は主を心から崇め、賛美し、礼拝を捧げる人生を送り続けていきたいと思う。

キリスト新聞社刊「命の宗教の回復」より転載

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