手束正昭牧師の著書

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『恩寵燦々と』 キリスト新聞社

 人生の秘義にかかわる稀少な自叙伝
 私はこれまでにかなりの数にのぼる「自叙伝」を読んできたが、そのほとんどが「自画自賛」型で「説教調」のものであった。あまりにも自己本位の文章に辟易して、最後まで読み通すことができなかった。本書は、そのような臭味が全く感じられない稀少なものだ。ー元カネボウ特別顧問 大門英樹

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<高砂教会>電話 079−442−4854 メール
 2,000円(税別)

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『朝早く、主に叫べー早天祈祷の意味と力』 地引網出版

 定期的な朝の祈り「早天祈祷」にチャレンジしたクリスチャンも多いのではないだろうか。
 しかし、いつの間にか止めてしまうことが多いのも、この早天祈祷。
 著者は、早天祈祷を長く続ける秘訣を記すと共に、いま求められている「霊的キリスト教」の回復を訴える。(『舟の右側』2014年5月号より)

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『日本宣教の突破口ー醒めよ日本ー』 マルコーシュ・パブリケーション

 ただ、私が本書に託した祈りと願いは、この書物を通して、
 我らの祖国日本にキリストによる精神革命が起こされ、
 衰退しつつあるといわれている故国日本が、
 もう一度、福音を通して真に再生していくことである。
   (著者「あとがき」より)


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続・聖なる旅 ーキリスト教の新たな可能性を探る-
キリスト新聞社刊 ¥2,940(税込み)

霊的・神学的視点をもって洞察した海外旅行記。

毎日新聞記者 鈴江康二・評 

「続・聖なる旅 ―キリスト教の新たな可能性を探る―」(キリスト新聞社)

 明治以来「和魂洋才」を目指した日本において、キリスト教は信仰そのものより西洋化のための知識やツールとして用いられてきた。キリスト教信者は現在でも人口の1%止まりと言われ、戦後急伸した韓国のキリスト教と比べられることが多い。
 著者はプロテスタントの牧師。信者数の伸び悩みは伝道する側の枠組みに問題があり、「根本的な反省が必要」とする。本書は旅行記の体裁をとったキリスト教再生論である。
 中でも、その本領を発揮しているのが、「中国、景教の源流を辿る旅」である。エフェソス公会議(431年)で異端とされたネストリウス派が、「東まわりのキリスト教」として中国に伝えられ「景教」と呼ばれた史実について考えたもの。「パウル・ティリッヒのキリスト論」研究を媒介に、ネストリウス派を調べてきた著者の思索が興味深い。
 西欧・米国経由の「西まわりのキリスト教」ではなく、東洋との接点、とりわけ日本人との親和性を提示しようという試みだ。その際、父・子・聖霊という三位一体の神概念のうちで、聖霊の働きに焦点をあててキリスト教の新たな可能性を探っており、示唆に富んでいる。


      毎日新聞記者 鈴江康二・評   (2012年5月13日(日) 毎日新聞『今週の本棚』より)



毎日新聞記者 鈴江康二・評 

聖霊による可能性の宗教へ
「続・聖なる旅 ―キリスト教の新たな可能性を探る―」(キリスト新聞社)

 著者・手束正昭師は、日本基督教団の中で異彩を放つ高砂教会(兵庫教区)の主任牧師であり、本書は一九八六年に発刊された『キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か』(キリスト新聞社)以来、十二冊目の著作となるが、その論旨は一貫している。
 「はじめに」で著者は、「日本のキリスト教の不振が叫ばれて久しい。日本人の中に救いに対する飢え渇きは十分にたぎっているのに、教会はそれらの魂に有効に届いていない。このままいくなら、我日本キリスト教団は十数年後に教勢が半減するという統計まで示されている。いったい、どこにその原因があるのか。そのためには、これ迄のキリスト教の在り方についての根本的な反省が必要となる」と、問題意識を明らかにしている。
 本著は『聖なる旅―キリスト教の本質を抉る』(キリスト新聞社、一九九六年)の続編であるが、ともに一つ一つの章が完結型の旅行記となっており、読者は興味のあるところから読み進めることができる。その上で全体を読み終えた時、著者・手束師が描くキリスト教のイメージが伝わってくるだろう。
 今回の『続・聖なる旅』では、米国西海岸、中国、ドイツ、ルーマニアという四つの章でキリスト教を論じている。米国西海岸では教会成長の在り方を模索し、ドイツでは聖霊刷新運動の可能性を、ルーマニアではポスト社会主義の福音宣教について分析が加えられている。中でも手束師の本領が発揮されているのが、第二章「中国・景況の源流を辿る旅」である。エフェソス公会議(四三一年)で異端とされたネストリウス派が、「東まわりのキリスト教」として中国に伝えられ「景教」として栄えた史実について考えたもので、関西学院大学神学部時代から打ち込んだ「パウル・ティリッヒのキリスト論」研究を媒介に、ネストリウス派を調べてきた著者の思索が興味深い。
 「ネストリウスの養子論的キリスト論(これは実は新約聖書の、特に福音書のキリスト論であるのだが)は、私達人間とキリストとの関係を『連続の非連続』として捉えることに、そのダイナミックな特徴があると言える。それは、単にキリストを救済者として崇めるだけではなく、同時に私達が倣うべき模範者としてまねぶことを意味する」と述べ、「勿論それは、人間の肉の力ではなし得ない。聖霊の御力によって、聖霊の働きの連続性によって果たし得ることを意味する」と著者は言う。さらに続けて、「それ故に、従来の『十字架の贖いの宗教としてのキリスト教』から、『聖霊による可能性の宗教としてのキリスト教』へと大きな据え直しが要求せられることになる。そして日本のキリスト教会が復興し成長していくためには、このような聖霊・カリスマによるダイナミックなキリスト教への体質改善が不可欠である」と力強く語る。 関西学院大学神学部の助手を辞した後に高砂教会牧師に着任した時、著者の神学的立場はリベラルであり、高砂教会自体は社会派に属していたと聞く。それが一九七五(昭和五〇)年の教会修養会における「聖霊の降臨」という導きを通して、その方向性が決まった。この時期の格闘を通してまとめ上げられたのが、前掲した手束師の『キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か』であった。
 今回の新刊書の中でも著者は、「今日のカリスマ運動を、私は〝キリスト教の第三の波〟と名付けた。第一の波は、勿論ナザレのイエスと初代教会のカリスマによる信仰運動である。第二の波は、マルチン・ルターと宗教改革運動を指している」とし、第三の波が今、「〝カイロス〟の到来として起こっている」と述べる。確かに、世界的に混迷する現代キリスト教にあって、「聖霊の働き」こそが、教会に霊性と力を与え、一致を促す力であることは、誰も疑うことはできないであろう。
 旅行記という形式を通して、副題にある通り、キリスト教の新たな可能性を探ろうとした本書は、キリスト教界のみならず一般読書人に対しても十分に読ませる内容を持っている。


      毎日新聞記者 鈴江康二・評         (『本のひろば』2012年4月号より)




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キリスト教の第三の波 -カリスマ運動とは何か-
キリスト新聞社刊 ¥1,835(税込み)

とかく誤解されがちなカリスマ運動についての歴史的背景に焦点を当て、著者の実践体験をふまえつつ、その本質を神学的に位置付けた意欲作。

関西学院大学商学部チャプレン 熊谷一綱・評

問題を投げかける新しい信仰運動
「キリスト教の第三の波 ―カリスマ運動とは何か―」(キリスト新聞社)

 60年代から北米の諸教会の中に現れたカリスマ的更新とかニュー・ペンテコスタリズムと呼ばれる運動が日本の一部教会にも影響していることは聞いていたが、高砂教会(日本基督教団兵庫教区)の手束牧師の活動がそれにつながるものとは知らなかった。彼がいわゆる聖霊派の活動に踏み込んだとか、教会から脱会者がかなり出たとかいう風評を耳にしていただけであった。しかし、このたび出版社から送られてきた著書を読んで、噂として流れていた問題は聞き流してすませるようなものでなく、カリスマ運動といわれるものは、その外にいる人も一応それを知り考える必要のあるものと思うようになった。
本書の基礎は、1977年より83年まで六年間にわたって教会の月報に連載した文章であるが、新しい信仰運動の推進に対して教会の内外に生じた反発や批判に応じたり、教会員に運動の意義を心得てもらうために書いたものだという。従って、弁明の要素もあり、啓蒙の色合いも濃く、当面の必要に迫られて書き続けられたものではあるが、平易な中にも気迫があり、よく考えられた文章である。
歴史的経過、実践的展開、神学的特徴の三章から成る本書によって、われわれは、カリスマ運動と呼ばれるものについての情報を得ることができるだけでなく、著者自身の積極的主張と対することになる。たとえば、この運動成立の諸事情やその先駆者たちを紹介しつつ、「カリスマ支配」というような使い方から連想を働かせやすい人たちに、それとは異なる奉仕概念としてのカリスマの意義が訴えられる。その裏には、キリストの人間性を強調し、その内なる聖霊の働きがイエスをして神の子キリストたらしめたという霊のキリスト論への著者の関心があるのだが、ここで読者は、古代教会におけるキリスト論論争で西方教会から排除されたネストリウスの復権の訴えに接する。これはと首をかしげる人がいたら、ケチをつけるまえに、なぜかを考えてくれと迫られることになる。
著者は、カリスマ運動を、聖書に明証されているのに、伝統的教会によってどうでもよいようにあしらわれていたものに光をあて、信仰的生命を回復する運動であるという。さらに、教理よりも特異な体験を強調する小規模な教派で超自然的賜物として重視されてきた、異言やいやしの意義を伝統的教派の中で再確認する運動と捉える。手を組み頭を下げる祈りより、手を上げて祈ることを勧め、手拍子で賛美する理由を述べ、信仰の修練としての断食の意味を探り、あるいは聖餐式の改革を主張するのは、聖霊を受けることに留まらず、聖霊の力、キリストの生命が豊かに外に溢れ、教会員がキリストと同じ姿に変えられることこそ聖書の目指していたことだという確信を、既成の諸教会への批判を含めて実践化したものである。種種の聖霊刷新運動に共通する単純さや過度の感情表出に向けられる軽視や警戒をこめた批判に対し、著者は、運動の内に向けては、異言を語れない者はまだ救われていないという者の高ぶりを排し、霊的になるというだけではキリスト者か否かの基準を示せないとし、キリストの十字架が表す自己否定の原理の欠落をチェックしながら、信仰とは、罪の赦しをもたらすとともに、模範として神への服従を貫かれた主イエスとの関わりを表すのであれば、罪を赦す者と赦される者との非連続とともに、信者にもそのようになり得べき模範者イエスとの連続性があり、それを可能にする聖霊の力の再確認が必要と説く。聖化の強調にイエスの服従に倣うことから開かれる交わりと新生への待望と、教義化・倫理化に傾斜した教会が生命力の発現を封じているという批判がそれにからんでいる。
聖霊刷新運動はとかく社会や文化の状況には無関心に陥りやすいが、福音は日本的土壌との対決、日本人を深く支配している、いわゆる日本教という民族的霊との戦いなしには土着化しないと考える著者は、教会の中にも浸透しているその影響を積極的に問題視する仕方で時代状況への反応を示している。神学的認識に関する著者の議論は、贖罪の理解についてアウレンに導かれ、神の霊と人間精神との関係をティリッヒに啓発されて考えているのが特徴である。「信仰とは神の霊によって捉えられている状態である」というティリッヒの理解が著者の心を捉え、運動の推進を支える作用を果たしているようである。
書名にある第三の波というのは、カリスマ運動が宗教改革よりも初代教会に溢れた精神の復興を目指している、という著者の確信の表明であるが、この運動に予断しかもてない人の理解度を問い、ファンダメンタリズムとリベラリズムとの間で信仰を問題にする人に向けて、その外にも信仰展開の可能性のあることをあらためて考えさせる問題を投げかけている。

      関西学院大学商学部チャプレン 熊谷一綱・評

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続・キリスト教の第三の波 -カリスマ運動とは何か-
キリスト新聞社刊 ¥1,835(税込み)

カリスマ運動に対する理解と探求を深化させるために、「聖霊の新しい時代」のダイナミズムに触れるための啓蒙書として最適。

東北学院大学教授 森野善右衛門・評

「続・キリスト教の第三の波」
    ―カリスマ運動とは何か―(キリスト新聞社)

前著は1986年に出版されて話題を呼んだが、今回その続編が刊行された。前著に続いて、1983年4月から88年2月までの五年間に、著者が教会の月報に書き綴った文章がもとになって、それに加筆と訂正が加えられて一書にまとめられた。
著者の言わんとするところは明確である。すなわち一世紀のイエスと初代教会の運動をキリスト教の第一の波、16世紀のルターやカルヴァンによる宗教改革の運動を第二の波とすると、20世紀のカリスマ(聖霊の賜物)運動こそは第三の新しい波であり、今日は「聖霊の新しい時代」であり、聖霊がダイナミックな力をもって、人々の間で働き始めた時代である、という主張である(はじめに)。その副題が示すように、著者の理解する「カリスマ運動とは何か」を、その歴史的経過と実践的展開と神学的問題との三つの側面から考察したものである。
 歴史的考察(第一章)では、養子論的キリスト論(霊のキリスト論)と、異端とされたネストリウス派に対する再評価がなされ(15~45頁)、日本と中国におけるカリスマ運動の先駆者としての柘植不知人と活水の群れ、手島郁郎と原始福音、洪秀全と太平天国の足跡が、一定の批判的考察を加えて紹介されている(45~85頁)。
 カリスマ運動の神学的考察の章(150頁以下)では、イエスと初代教会の成立は、広義におけるカリスマ運動であるという前著の主張をさらに掘り下げて、カリスマ運動とは、教会における聖霊の賜物(カリスマ)を回復し、教会を聖霊によって刷新する運動であると定義される。だから著者はカリスマ運動を、一つの教派形成やセクトをつくる運動ではなく、伝統的教派であるか福音派であるかを超えて、聖霊によってキリスト教会を一致に導くというエキュメニカルな目標をめざす運動として理解されることを求める。
 聖書は、生ける現在的キリストとの出会いのリアリティーを証言している書物であるので、聖書の正しい読み、正しい理解のためには、歴史批評的研究によっても、はたまた実存論的解釈によっても十分ではなく、“聖霊のバプテスマ”を受けることによって、信じる主体、聖書を読み解釈する主体の変革が必要なのであり、カリスマ運動は、西欧的キリスト教においては、(特にコンスタンティヌス以後)見失われてしまった霊のキリスト、生命としてのキリストとの出会いの体験を、最重要なこととしてその出発点におくのである。
 さらに著者は、ハルナックの聖書学的研究成果によって、新約聖書において福音書と使徒書をつなぐ位置にある使徒行伝の、特にその第二章のペンテコステ物語の重要な位置に注目し、本来的なキリスト教信仰の目的は〝聖霊の満たし〟にあり、十字架のあがないを通して私たちに与えられた栄えある神の子としての身分の実質化にあり、それは義認から聖化(栄化)へと進む道である、とする(162~168頁)。そこでペンテコステの聖霊降臨を準備し、それへの道を開くヨハネ伝が、「霊的福音書」として、ルカ伝と使徒行伝との間におかれていることの意義にも注目させられるのである。
 聖餐式を主イエスの死を記念することよりも、復活して今も生ける現在のキリストとの出会いの場として設定する福音書記者たちの編集意図に学ぶこととの関連で、著者が高砂教会で試みている聖餐式のやり方は興味深い。(前著128~132頁、エマオでの聖餐式、続237~241頁)。
 ボンヘッファーは「キリスト教の非宗教化」ということで「生命としてのキリスト教」の回復を願っていたのであり、キリスト教は本来的に宗教でも律法でもなく、生命の運動であり、聖霊の運動である、という著者の神学的主張は肯綮にあたる(前書194~195頁)。
 一つ気にかかる点として、聖霊体験の先行が強調されることによって、聖書がシンボル化され、神の言の書物としての聖書の位置と意味が相対的に軽視されているように思われることである(体験の先行、158~162頁)。「わたしがあなたたちに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6・63)と言われているように、生ける神は言葉と霊との結びつきを通して私たちに啓示されるのであり、言葉は聖霊に導かれることによって真に神の生ける力ある言葉として、語られ、受けとめられる、と理解されるべきではなかろうか。
 東方正教会や第三世界のキリスト教からの影響によって、キリスト教理解における「知性」と「霊性」のバランスのとらえ直しの重要性が再考され、WCC第7回大会の主題にも聖霊の問題が掲げられるようになってきている時代において(1991年、キャンベラ)、キリスト論を聖霊論の方向に展開することは、神学的にも実践的にも、今日の世界教会の緊急な課題の一つとなりつつある。この問題に関心のある教職・信徒の方たちに本書を広くおすすめしたい。

                東北学院大学教授 森野善右衛門・評

 

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キリスト教の第三の波・余禄 -講演と証し集-
キリスト新聞社刊 ¥1,200(税込み)

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命の宗教の回復 キリスト教の第三の波〈説教集〉
キリスト新聞社刊 ¥2,000(税込み)

とかく誤解されがちなカリスマ運動についての歴史的背景に焦点を当て、
著者の実践体験をふまえつつ、その本質を神学的に位置付けた意欲作。

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信仰の表現としての教会建築 
キリスト新聞社刊 ¥2,500(税込み)

日本の教会堂は、いかにも安晋請というものが少なくない。
建築物がその文化や世界観の表れであるならば、
礼拝堂は、すぐれてその信仰の表現。それは、いかにして建てられたか。

クリスチャン新聞「ほんだな」1991年1月27日号 掲載記事

「信仰の表現としての教会建築」(キリスト新聞社)

地方部の因習の強い町に、大きく立派な教会堂が建った。それはなぜ、どのように実現したか。どんな困難に直面しそれを乗り切ったか。そのことは町の人々と教会員にどんな影響を及ぼしたか―を、日本キリスト教団・高砂教会が1988年に新会堂を完成した体験に基づいて、主任牧師の手束正昭師が著したもの。
手束師は、日キ教団にあって、かつて「社会派」であり、今は「カリスマ」路線を行く自らと高砂教会の立場を、神学的、体験的に弁明し教界の議論を呼んだ正・続『キリスト教の第三の波』(キリスト新聞社)の著者でもある。
今回の著作では、その立場、センスによって、会堂建築の発端、教会紛争とその解決、協力者との出会い、住民の反対運動とその収拾、財政や建設における祝福…といった出来事を、興味深くドラマチックに描いている。また、「信仰を表明する」教会建築としての理念に、別に多くのページを用いている。会堂建築にまつわる説教があり、会堂各所の表情を写し出した写真集も参考になる。

(クリスチャン新聞「ほんだな」1991年1月27日号 掲載記事)


相模大野教会牧師 皆川尚一・評

「信仰の表現としての教会建築」
―その大いなる記録(キリスト新聞社)

謡曲の「高砂や この浦舟に帆を上げて」で知られる播州高砂市に、壮麗な教会堂が建てられた。細川幽斉の「謡曲十五徳」の初めに「不行知名所」(行カズシテ名所ヲ知ル)とあるのも肯(うなず)けるが、「百聞ハ一見ニシカズ」という諺(ことわざ)も真理である。来て見れば、人口わずか9万2千の鄙(ひな)びた美しい市の中心部に、本体部分三階建て、塔部分四階建てのグレーがかった藤紫色の美しい教会堂が建っていた。この建物は日本国中のクリスチャンに高砂の名を知らしめるだけでなく、主イエスのみ名を高く上げるものとなるであろう。
その理由は、ただ立派な会堂が建てられたというだけでなく、この度、手束正昭牧師が『信仰の表現としての教会堂建築―その大いなる記録―』という著作を通して、日本の諸教会に新しいビジョンを示したからである。
これまで日本語で刊行されたものには、日本基督教団出版局からの『礼拝と礼拝堂』、『教会と教会堂』(長久清著)、『教会建築』(高橋保行他共著)等の優れた著作があり、諸教会を大いに益して来たと思われる。これらはいずれも教会史の流れに沿って記述され、静的、基本的な教会堂建築の理念を学ぶのに役立つものであった。
しかし本書は、前掲各書とは異なり、一個教会の歴史の中で、カリスマ的信仰を表現する教会堂を建てる目的の下に、牧師と信徒が結集し、献身し、遂に目的を達成するまでの霊的な戦いを、ダイナミックに描いた力作である。特殊性と同時に普遍性を持っているので、わが身につまされてしまう魅力を備えている。
本書の内容は五つの章に分かれている。
第一章は「会堂建築物語」で、1975年7月の修養会に聖霊の火が降り、主のみ言葉(レーマ)とビジョンが与えられて会堂建設へと進む。カリスマ反対、牧師排斥の難関を、レーマによって次々と乗り越え、挫折と奇跡を経験して行く物語は、非常に具体的な言葉の証しであり、多くの牧師・信徒にとって参考となり、大きなチャレンジとなるであろう。
第二章は「会堂建築」―私の理念―で、手束牧師が「建築を通して神の栄光を表現する事こそ、教会堂建築の根本理念だ」と確信し、「シンプルな中にも芸術性が凝らされ、聖なる美しさが演出される」建築を目指した理由を明らかにする。この意図は礼拝堂内部の正面に見事に表現されていると思う。
また、礼拝堂聖別の項は重要である。聖霊による熱い祈りの日夜充満する聖堂には、常にアリアリとした主のご臨在があるからだ。
第三章は「教会堂の表情」(写真集)。
第四章は「会堂建設にまつわる説教」で、読者の心をワクワクさせる活きたみ言葉。
第五章は「設計図・その他の資料」。
高砂教会は建築への道程で、苦難を通して潔められ、聖霊によって解放された愛の共同体となった。千人会堂の幻(ビジョン)に祝福あれと祈る。

                   相模大野教会牧師 皆川尚一・評

( 「キリスト新聞」1991年3月16日号 掲載記事)



同志社女子大学教授 武 邦保・評

「信仰の表現としての教会建築」
―その大いなる記録―(キリスト新聞社)
(一)
本はタイトルでかなり決まる。もちろん内容によるが、タイトルはその顔である。編集者の助言があったとはいえ、うなずける標題ではないか。本書は、それゆえに教会を「霊的共同体」として形成させるための、つまり福音宣教の道程としての教会堂建築は、どれほど困難であるか、しかしまたそれ以上にどれほど主と喜びを共にする恵み(奇跡)であるかを、きわめて具体的・即物的に教えてくれる。霊の下る所に教会は必ず起る。
さて著者は、記される限り、中国上海に生まれ、二歳の時、旧満州にて父親と離別、母親とは死別、日本へ生還。長じて関西学院高等部から大学神学部大学院、そして教団・東梅田教会伝道師、母校の助手、芦屋西教会伝道師、そして現・高砂教会牧師である。
五年前に、キリスト新聞社より『キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か』を出版したが、それは高砂へ着任(1973年)以後三年目にして、その教会修養会席上、信徒と共に「聖霊体験」に出会ったことによる。夫人の父・三島実郎牧師(故人)の導きもあってカリスマ運動を関西に展開。そして組織的な人間の霊性活性化の場を精神的にも、物理的にも建て直そうとした。特別にみ言を聞き、祈りの場はそれらしく最も合理的に、美的に設営したい。著者はそこでいたずらに神と人との精神的断絶を叫ぶ神学者のようにではなく、パウル・ティリッヒに従って、その連続面を強調する。そこから信仰による霊的再生力(カリスマ)の人への実効は認められ、救済の前の創造の業を見直すゆとりも現れる。ここに神の啓示の空間的象徴があるという。そしてこの空間を「新会堂」に求めた。
本書を読んで、会堂建築(大修理)に逡巡している教会員は振るい立ち、信仰の表現として何事かを決断しやすくなるだろう。「神様の臨在を覚える場所」は―特に教会堂の中でこそ必要だ、という確信。会堂建築の美と力にも信仰のダイナミズム(動態)は触発されるであろう。唯、美のゆえにではなく。
(二)
著者にとって、日本のプロテスタント教会は、神の被造物(自然や人間)を通して表される美しさなど評価しないように文化的に禁欲している。そこでは美学よりも律法主義のイメージでさ迷う人人には「堅い、暗い、つまらない」と映っても良いとする。ティリッヒも教会は媒介すべき「聖なるもの」の特性を積極的に表現せよ、とする。ミサ典礼の改装秩序ではなく、聖なる恵みの共有である。
会堂建築を経験するとよく分る。著者は日本の教会人のもつ殻とぶつかっている。高砂で実際に味わった悲喜こもごもの聖体験を詳細に報道する。しかもそれは会堂建築のノウハウであり、証しである。彼の出会った苦難は、まず信仰を精神主義で捉える人々から来た。すぐ彼らはロゴス(真理)化するが、ふさわしい神の言葉は普遍化できないもの。その時の神の口から出る一つ一つの言葉(レーマ)こそが実効をあげたとする。祈りでこれを聞け。そして聞こえたら、全員でこれを共有せよ。そこでもはや人の思いは克服される。 けども、この司牧に手束牧師は二度までも挫折、敗退した。十三年前のクリスマスも近い夕べの讃美礼拝でひたりの姉妹は「復活」を立証した。この預言から前進の導きは開始。
カリスマ運動も日刊紙が時を合わせたように取り上げ、その宣教師もやってくる。某師は会員一致の祈りには一~二日の断食が必要と。飽食と自己満足ではなく、神の特異な指導性の到来をゆだね経済の微妙なバランス。練達は希望に変わった。
地域と縁者から関係業者が選ばれ、協力が起り、工事の進行と牧師・信徒の信仰が連動しはじめる。思えば十三年前(1978年)、預言書の言葉によって涙の祈りをして以来、九年目にして与えられた土地に起工式、一年後(1988年11月)。献堂式と落成式を挙げた。預言通り、主は望んで、一時は減少してゆく祈りの手を顧みて、神の民のために果実は結ばれた。
会堂建築は主の喜びであり、神の小羊の群れの拡大に通ずる、と著者の牧師は確信する。
本書の全体五つの章の内、一、二章は以上の立証的報道。三章は写真集、四章は建築のための説教集、終章は設計図、資料篇。さながら教会建築の神学大全である。

同志社女子大学教授 武 邦保・評 

(「本の広場」1991年3月号 掲載記事)


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聖なる旅 -キリスト教の本質を抉る-
キリスト新聞社刊 ¥2,500(税込み)

「霊的・カリスマ的な信仰こそ、キリスト教の本質をなすもの」との視点に立つ著者の単なる歴史的・文学的洞察ではなく、霊的・神学的視点をもって綴った旅行記としてユニークな一冊!

第一章 イスラエル・聖書の旅
第二章 北アメリカ東海岸教会成長の旅
第三章 西ヨーロッパ信仰の旅
第四章 中国・追想の旅

大和カルバリチャーチ牧師 大川従道・評

「聖なる旅」
―キリスト教の本質を抉る―(キリスト新聞社)

 ハレルヤ!
「キリスト教の本質を抉る」なんて恐ろしいこと私にはできない。書評をもってこの本を「抉る」ことも私にはできない。
しかし、依頼されたので、恐る恐る読んでみると、中身は誠に重厚で、ご一緒に「聖なる旅」をさせていただいてしまうようである。「ロバは、旅をしてもロバである」といわれるが、この紙上旅行は、何かすばらしい恵みの世界を歩ませてくれる。
第一章は、イスラエル、聖書の旅。
牧会十周年を記念して、高砂教会が送り出して下さったという。すべての教会がこのようにしてあげられたらよいのにと思った。
旅行は「行」だともいわれる。牧師夫妻を送り出したら、牧師も「行者」となって、たくさんの経験をして、大きく牧会者として成長されるであろう。
イスラエル旅行ばやりであるが、旅を前に読まれることをお勧めする。
第二章は、アメリカの東海岸・教会成長の旅。
評者はアメリカの教会成長の研究をしてきたつもりであったが、教えられるところ大であった。
この章は50頁余りのものであるが、他の章がなくても、この本を買い求めて惜しくない。牧師だけでなく、教会成長に興味のある方は、是非お読みになられるとよい。
私は何度も読んで、教会の祈祷会で紹介した。お手本にしたい教会、考えさせられる教会、行ってみたい教会の学習である。
アトランタの牧師は、十分に説教の準備をした後、奥さんの前で三度以上に渡って、説教のリハーサルをする。日曜は原稿なしで教壇に立つという。考えられないプロ根性
マウントパラン教会は、人里離れた森の中にあるが、おびただしい人々が集まってくる。その秘訣が書いてある。
そのほか祈りを通して成長している教会。一度来たら必ずもう一度来たくなるような愛と思いやりの雰囲気を持っている教会。匿名への情熱を持っている副牧師の話等々。
実はアメリカだけでなく、日本の牧師は他の国の教会からもっと謙遜に学ばなければいけないと思っている。教会の成長を妨げているのは、牧師の怠慢などといわれないように注意したい。
第三章も、第四章も、豊かな旅行記である。
こんなにすばらしい観察力を持っている牧師はまれである。ある時は牧会の目を持って優しい。ある時は神学者の目を持って厳しい。
何よりも、夫婦が力を合わせて戦い続けてきた牧会の旅日誌でもある。あとがきの夫人に対する敬愛の表現はあたたかい。
私とは観察の視点や論評の姿勢は異なるが、恵みの余滴があふれていることは確かである。

大和カルバリチャーチ牧師 大川従道・評



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広場の中の教会 ジョージ・ケアリー著  手束正昭監修
キリスト新聞社刊 ¥2,500(税込み)

「教会というものはそれ自体のためにあるのではなく、その周りにある世界のために存在しているのである。」イギリス北東部の街ダラム一等地に位置しながら、老朽化した会堂で形式的な礼拝を続けていた聖ニコラス教会。聖霊を体験した牧師の就任を機に、礼拝の改革が始まった。様々な困難を熱い祈りによって乗り越えた人々は、さらに地域に開かれた教会となるために、新会堂建設に向けて、信仰の挑戦をしていく現在、聖公会の最高指導者である著者の生き生きとした教会の証し。

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ヨシュアの如く生きん -ヨシュア記説教集1-
マルコーシュ・パブリケーション刊 ¥1,785(税込み)

高砂教会において、」聖日礼拝に行われたヨシュア記の連続説教集。
「文学としての説教集」を主眼におき、推敲が重ねられた珠玉の「読む」メッセージである。
「ヨシュアの如く生きん」という著者の姿勢とメッセージに、日本のリバイバルを真に認める姿を見る。

キリストの福音大分教会牧師 釘宮義人・評

「ヨシュアの如く生きん」(マルコーシュ・パブリケーション)  

 題名からも想像できるように、旧約聖書のヨシュア記の連続説教で二巻・三巻と続けて完結する予定という。これまでも著者は『キリスト教の第三の波』、『信仰の表現としての教会建築』などの好著を次々と出版してきた。しかし今回の説教集は、これまでにまさって素晴らしいと思った。
 「ヨシュア戦記」というコンピューターゲームがあったらどうだろう。ヨシュア記を脚本にして、そこに現代の日本の風土や、我々日本の教会、牧師、信徒の画像をはめこみ、日本の勝利的福音化シュミレーションを試みてみたらどうだろう。実は、手束牧師はそれをこの説教集の上でやっていると私には思えた。
 また、こうも言える。師がヨシュアをモデルとして、ご自身の教会を建て上げてきた記録がこの説教集だと言ってもいいかも知れない。この著書に一貫する主題は、「聖霊による祝福の原則」と言えようか。言い換えれば、師の好きな言葉で言えば「勘所」である。教会成長の勘所、信仰成長の勘所を具体的に語る。しかし堅苦しい文章ではない。楽しいのである。中国の故事や徳川家康などの小説をしばしば引用する。日本人の心情にぴったりで、読者によく分かると思う。それだけでなく、難しい聖書箇所を巧みに聖霊の本筋をとおして説明してくれる。
 例えば、割礼のこと。これは淑女方の前では話しにくくて困る題材の一つであるが、この件についての師の説明は凄い。滅多に聞けない解説である。また、ヨシュア記では必ず出てくる、敵を皆殺しにする「聖絶」という凄惨(せいさん)な記事。どうして愛なる神様がこんなことをイスラエルに命じるのか。不思議である。また、なぜ神様がアベルの捧げ物を喜ばれ、カインの捧げ物を斥けられたのか。誰もが不思議に思う。この神のなさることの不条理さ、これに光をあてる師の筆致は鋭い。
 師が会堂建築でご苦労なさった話は知っていた。しかし、それがいかに困難で挫折が多かったか、初めて知った。そうして難関を乗り越えることが出来た理由として師の生来の能力、気質、鍛錬、頭脳、胆力、そうしたことを挙げても私たちの参考にならない。そのようなことではなく、たとえば師の日毎にイエス様の血潮の注ぎを頂いて、その日の「勝利」を先取りしたという個人的秘話や、また困難な事態の前で、祈って確実にレーマ(神からの特別な言葉)を頂いて、一片の疑惑を抱かず不動の姿勢を貫いたという体験も語っている。だから、「先生はどんな時にも明るい」と信徒の皆さんは安心し、また尊敬してくれる。そういう牧会の秘訣をそっと教えてくれる。そういう説教集でもある。
 私はこの本を読みつつ祈った。「主よ、日本列島にヨシュアの戦いを再現したまえ。圧倒的リバイバルをこの国に起こし、凱旋的勝利を日本の教会に与えたまえ」と。      

キリストの福音大分教会牧師 釘宮義人・評


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輝かしい季節の始まり -ヨシュア記説教集2-
マルコーシュ・パブリケーション刊 ¥1,785(税込み)

『ヨシュアのごとく生きん』に続く、ヨシュア記講解説教の第二弾。
豊かな聖霊の流れを汲みつつ、確かな神学的メッセージ集。

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あなたはやり直すことができる -ヨシュア記説教集3-
マルコーシュ・パブリケーション刊 ¥1,785(税込み)

説教は、御言葉を通して人々に感動を与えるものでなくてはならない。
それは、決して人間的情的な感動に終わるものではなく、聖霊の持ち来たらせる感動によって、
キリストにある感動に人々を巻き込んでいくことである。
この信念のもと、さらに「語り―聞く」説教と「書き―読む」説教との違いを知り、
「書き―読む」説教としての強烈な意識をもって文章的精察を加え、
読者に強い感動を与えているヨシュア記連続説教集の完結篇
。第一巻『ヨシュアの如く生きん』(第1章~第12章)、
第二巻『輝かしい季節の始まり』(第13章~第19章)と合わせ是非お求めください。

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教会成長の 勘所
マルコーシュ・パブリケーション刊 ¥2,520(税込み)

推薦の辞 ――まさに教会成長の勘所――

全日本リバイバルミッション代表
日本教会成長研修所全国講師   有賀 喜一

 この度、創設102年の歴史を持つ高砂教会の14代の牧師・手束正昭牧師によって、「教会成長の勘所」が出版された。原稿を一読、再読させて頂いて、実感したのは、「まさに教会成長の勘所だ!」の一言である。手束牧師は1995年から2年間の日本教会成長研修所による研修で、全体的教会成長の8原則を学ばれ、大胆なパラダイム・シフト、構造的改革の断行、そして霊的戦いの適用により、見事な変革を成し遂げられたのである。今までの建て前ではなく、本音で迫っていること。日本のイメージでしっかり把握していること。大きい祭典としての礼拝と小さなセルの共生的活動、そして力強い悪霊追放と執り成しの祈りの実践などである。これらがすべて聖書的理解と精査、神学的検討、そして、福音的実践の各領域でバランスが取られているのには、まさに脱帽である。ウォーレン博士の「健康な教会のカギ」やシュワルツ博士の「自然に成長する教会」の後に、この「教会成長の勘所」を精読、実行されるなら日本の教会の成長に貢献すること甚大であると確信して推薦する次第である。

学校法人青山学院長 山北宣久・評

「教会成長の勘所」(マルコーシュ・パブリケーション)     

 『教会成長の勘所』は、驚異的な教会成長を遂げている手束正昭牧師が、月刊誌『ハーザー』に約四年間にわたって連載したものを一冊にまとめたものである。
 高砂教会牧師就任三十年という大きな節目にあたって発表された実践レポートたる本書は、まさに「勘所」を鋭く衝く。
 教会成長は、①教会役員、②牧師夫人、③牧師(徳川家康に比して語られている)④セル・グループ(核となる小グループ)、⑤悪霊追放、この五つの課題との取り組みなくしてはなしえないとする著者は、各々を「論」として問題点をえぐっていく。
 韓国教会の成長からインパクトを受けた著者であるが、その形態をそのまま日本に持ち込むのではなく、冷静に、しかし激しい気迫と深い霊性をもって日本化し、独自色を出し、アイデンティティーの確立をもって教会成長へと結びつけていった。
 聖霊刷新の是非を巡って教会が分裂し、九十名の教会員が半減してしまった痛みからの再生という体験から、この教会成長の歩みは並々ならぬ苦闘と証しに満ちたものとなったが、それゆえに本書は、迫力をもって読む者に挑んでくる。
 悪霊追放論(エクソシズム論)は著者の独自の視点だが、牧師夫人論を扱うのも貴重なレポートである。
 一つひとつが具体的であり、経験に裏打ちされているだけに説得力は十二分だ。批判もあろう。攻撃もあるかもしれぬ。でも、「それでは、あなたの教会成長は?」との問いを与えられ、自分なりに答えていかねばならぬ促しを迫られる。教会成長を願っていない人はいないはずであるから。
 日本の教会の霊的な刷新と復興、各自の信仰の建て上げのために、刺激を少しでも与えられればとの著者の願いは、ひしひしと伝わってくる。

学校法人青山学院長 山北宣久・評


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聖霊の新しい時代の到来 
マルコーシュ・パブリケーション刊 ¥1,995(税込み)

日本におけるキリスト教関係図書として、
多くのクリスマス(降誕祭)の説教集が世に出されている。
イースター(復活祭)の説教集も、それ程多くはないが幾つか出されている。
しかし、ペンテコステ(聖霊降臨祭)となると、ほとんど皆無と言ってよい。
考えてみれば、これは不思議なことである。
何故ならば、クリスマス、イースターと並んで
ペンテコステは、キリスト教の三大祭の一つであるからである。
しかもその意義の深さという点では、ペンテコステは決して
クリスマスやイースターに劣るものではない。
私の考えによれば、ペンテコステの意義の大きさは、
クリスマス、イースター以上のものである。 (「はじめに」より)

キリストの福音大分教会牧師 釘宮義人・評 

「聖霊の新しい時代の到来」(マルコーシュ・パブリケーション)

 本書の著者・手束牧師も言っているが、日本におけるキリスト教関係図書として、多くのクリスマスの説教集が出され、イースターの説教集も幾つか出されているが、しかるにペンテコステ説教集となると、その意義深さにかかわらず、ほとんど皆無と言ってよい。その皆無と言ってよいペンテコステ説教の、この二十年分を集めてまとめたものが本書である。
 何故日本においてペンテコステの説教集がないのであろうか。著者は言う。「思うに、それは今日の日本の教会あるいはクリスチャン達の聖霊軽視の風潮もしくは聖霊体験の乏しさに由来するようだ」と。
 ヨハネが「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」と言うように、著者も「自分の目と体を通して聖霊を体験して以来、云々」と述べている。
 ジョン・ウェスレーは、その説教の中で「人間の罪が、ある瞬間、聖霊の超自然的な働きの中で根絶され得る」と断言したが、著者は「そんなことは言葉としては分かるが、自らの現実として理解しがたいことではなかろうか」と言う。しかし自身が聖霊の満たしを受けたとき、まさに天から巨大なエネルギーが注がれる思いがし、その現実を体験できたと告白している。
 ところでこのペンテコステ的体験は、信仰が成熟し完成の段階に達した人がいただけるというのではなく、それは全く無償の賜物なのであると言っている。ただ信じるだけでよい、主イエスの救いが信仰のみで受け取られるように、聖霊もまた信仰によってのみ受け取られるのである。「私たちの神さまは要求論的な方である。ただ求めなさい」と著者は奨励する。聖霊体験を求める方々にぜひ読んでほしい一冊。たしかにルカ11章13節にあるように、天の父は求めてくる者に無償で聖霊の贈り物を与えられるのであるから。

     キリストの福音大分教会牧師 釘宮義人・評

前 関西学院理事長 兼 学院長 山内一郎・評 

「聖霊の新しい時代の到来」
―聖霊論的プロテスタント原理の提唱―(マルコーシュパブリケーション)

 本書は、我が国の聖書的カリスマ運動の指導者、日本キリスト教団聖霊刷新協議会の代表として活躍する手束正昭牧師の「命の宗教の回復」「ヨシュア記連続説教集」(1~3)に続く、珍しい説教集である。1985年から二十年間、高砂教会のペンテコステ礼拝で語った説教のみ二十篇を収録した「聖霊降臨祭」説教集というのは他に類を見ない。
 聖霊という「人格」はドグマとして神学的に説明され、思考の対象となることを超えて、結局はその内的働きが体験され、直接リアルに掴まれた事実が証言される例はない。ただし、著者の場合は、「体験」があくまでも聖書テキストの「解釈」と結びつくかぎり、その根本動機と目論見は、歴的な主観主義にずり落ちない「聖霊論的プロテスタント原理」の提唱にあると言えよう。その内容を著者自身が「あとがき」で(一)ペンテコステの意味、(二)キリスト教と社会主義、(三)カリスマ運動の原点としての「聖霊のバプテスマ」の三点に収斂させている。
(一)五旬節の日にいかなる外的、物理的現象が起こったかは容易に決し難い。が、一つのことははっきりしている。「一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに他の国々の言葉で話し出した」。この「他国の言葉」とは、一部「異言」を含意し、かつ近代語でいう「方言」を指す。人々が、あらゆる言語の障壁を超えて、自由に福音を語り始めた。み言葉の宣教者、世界(エキュメニカル)教会の誕生である。
(二)最初のペンテコステの後、初代教会は彼らの所有物を全て共有にし、原始共産社会を形成した。それは今日の社会主義とは根本的に異なり、人間の強権によるコントロールではなく、聖霊の充満による自由意志の発動と隣人愛ゆえの傲慢(罪)からの解放、新しい秩序の創出であり、キリスト教が「聖霊による可能性の宗教」と呼ばれる所以である。
(三)では、そのような自由な主体、「新しい存在」(ティリッヒ)への変身はどのようにして起るのか。その鍵は「聖霊のバプテスマ」にある。聖霊は祈り求める者には誰にでも与えられる。この関連で、イエスの離去ゆえにみ父が現に今、私たちに遣わして下さる「助け主、真理の霊」(パラグレートス)の働きを、著者が「偉大なるパートナー」(説教集3)と言表する意味は甚だ重要と思われる。
読み進むなかで、筆者は本書を貫流するメッセージの基調と18世紀英国の宗教改革者ジョン・ウェスレーが高揚した「聖霊による聖化の神学」の間に深く響き合う共鳴現象を感知した。しかしその内容にここで立ち入ることはなし得ない。混迷の度を増す今の時代、日本人の救霊のために本書が一人でも多くの、とりわけ牧師、伝道者に読まれることを希ってやまない。

前 関西学院理事長 兼 学院長 山内一郎・評 

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