ホザナ・カフェ

『心に響くコラム集』ホザナ通信より

イエス様のでっかい愛


  4月になり、子供達もそれぞれ進級しましたね。

 新しい学校に飛び込んで行った子、

 新しいクラスの中でドキドキしている子、

 友達作りに苦労している子…。

 考えてみると、 子供達は毎年毎年与えられた新しい環境に送り出されて、

 いつもいつも新しい人間関係を築いていっているんですよね。

 すごいなぁと思います。

 大人達はそこまで激しい人間関係の変化を、

 そう毎年経験するものではありません。

 毎年引越しする人も殆どいないでしょうし、

 毎年職を変えていてはそれこそ困ったことです。

 だから、一から人間関係を築いていくこの年度初めの子供達のしんどさ、

 緊張、ストレスなどを、案外見過ごしてしまったりしているのかもしれないなと

 思ったりもします。

 でも、この大切な時期、子供達の心に寄り添っていけたらな、と思います。

  教会学校では聖書のお話を聞きながら、

 子供達にイエス様のでっかい愛を受け取っていってほしいと願っています。

 でっかい愛をこころに受け取った子は、

 たくましく育っていくからです。

 もちろん身体のことではなく、心のことです。

 たくさんの緊張やストレスがあったとしても、「大丈夫」って思える、

 そんなどっしりとした何かが、

 子供達の内側に確かに築かれていっていることを感じます。


  非日常、非常事態、そういう所に置かれる時、

 その人の本質が表われてきます。

 アルマゲドンという映画が流行った頃、

 よく「明日地球が滅びるとしたら、あなたは今日何をする?」とか、

 「明日死んでしまうとしたら、今日をどんな風に生きたい?」

 といったような質問を耳にしました。

 「おいしいものをいっぱい食べたい!」、

 「愛する人に想いを伝えたい」、

 「何をしたらいいか分からない」等々、

 みなさんいろんな答えをされることと思います。


  そんな時イエス様ならどうでしょう?

 聖書には、イエス様が明日十字架にかけられて死ぬという日、

 ご自身でそのことを悟られた時

 (他の人たちはそのことを知らなかったけれども)、

 何を心に決められたのか、

 また実際に何をなされたのかということが書かれています。

 「世にいる自分の者達を愛して、

 彼らを最後まで愛し通された(新共同訳:この上なく愛し抜かれた)」

 (ヨハネ13:1b)


  明日自分は殺されるという日、

 イエス・キリストがされたことは、

 自分を十字架にかけるそんな世の人々を愛し抜くということでした。

 そして心でそう思っただけではなく、

 実際にひざまずいて弟子達の足を一人ずつ洗ったと書かれています。

 十把一絡げにではなく、

 一人一人、その前に行ってひざまづき、

 マタイにはマタイ一人に対して、アンデレにはアンデレ一人に対して、

 水をかけて足を洗い、

 腰に巻いた手ぬぐいでその足を拭き、

 心からの愛をもって仕えられました。


  明日自分が死ぬという、

 そんな非常事態に置かれた時、やりたいと思うこと、

 やり残したと思うことがたくさんあって当然です。

 でも、その中でイエス様がたった一つ、

 真っ先に選ばれたのが、

 弟子達の足を洗うといううことだったのです。


  子供達が教会学校で学び、

 出会っているのはこのイエス・キリストです。

 目で見たことはないけれども、

 でも子供達はこのイエス様の愛を確かに受け取って育っています。

 そして弟子達の足を洗い終えたイエス様はこんなことを語られました。

 「あなたがたもまた、互いに足を洗い合いなさい」。


  この新しい年度、このイエス様の愛を受けて子供達が成長し、

 一人一人が互いに愛しあい、

 仕え合う者として歩んでいけるようにと願っています。


                      教育主事 小森仁美 

永遠の犠牲者から永遠の勝利者へ


  いよいよ田植えの季節となりました。

 皆様、お元気ですか?

 ホザナ通信5月号の発行がおくれてしまい申し訳ございません。

 今月もご一緒にいい人生を生きる秘訣を共に考えたいと思います。

  ドニー・マクラーキンはこの10年来、

 グラミー賞を受賞するなど、

 一流のゴスペルシンガーとして活躍しています。

 実は、彼には同性愛者だったという経歴があります。

 ドニーがわずか8歳の時に、

 伯父と従兄弟から性的虐待を受けたことによって、

 彼は性的倒錯を起こしてしまったのです。

 幼い彼にとってこれはあまりに重い事態でした。

 9歳の時に彼は真剣にイエス・キリストを救い主として受け入れ、

 助けを求めました。

 かと言って、直ぐさま、

 同性愛が癒やされたわけではありません。

 長い間の格闘とリハビリテーションのによって、

 見事に彼は同性愛を克服し、

 牧師となり、ゴスペルシンガーとしても大活躍をしているのです。

 彼の著書「ドニー・マクラーキンストーリー・暗闇から光へ

 (原著「Eternal Victim,Eternal Victor」)には、

 彼が倒錯した性(そこから発生するセルフイメージの低さなど)と

 どのように戦い克服していったかが記されています。

 その中の一部を紹介したいと思います。



  「かつての私は、

 意志強固な人と一緒にいると、

 いつもひどく気おくれしてしまった。

 有能で堂々としている人と付き合っていると、

 決まって自分の至らなさが拡大されて見えた。

 そして気おくれはいろいろな意味で私の足かせとなった。

 …(中略)…自分の不安を打ち破るために私はあえて、

 そんな居心地の悪い環境に身を置くことにした。

 そこで私は学ぶことができ、

 そして知らなかったことを学ぶことで

 失敗への恐れに「打ち勝つ」ことができた。

 とはいっても、苦手意識のあることをパッと始めようとしたって、

 そうやすやすと運ぶものではない。

 「私は力不足」主義から脱け出そうと思ったら、

 本気でねばり強く取り組まなければならない。

 私の場合、自分が進歩しつつあり、

 自尊心が芽生えつつあることを自覚したのは

 数年も経ってからだった。

 それでも、やるだけの価値があることは間違いない。

 自分に欠けているものは進んで身につけた。

 恐れていたものには立ち向かい、

 苦しくても克服するまで取り組んだ。

 自分にはできないとか、

 身につけることなどできないとか思い込んでいたことは、

 ひたすら努力を重ねて少しずつ習得し、

 自分のために生かした。

 自分にはとうてい理解できないと思われることは、

 読書に読書を重ねて知識を得ようと努めた。

 泣き言を言ったり傷口をなめたりしている暇はない。

 行動を起こす時なんだ。」


 彼のこのような体験談は、

 同性愛に苦しむ人だけでなく、

 “引きこもり”や“ニート”とか呼ばれる若者達にとっても

 励ましとなるのではないでしょうか。

 いいえ、問題のなさそうに見える私達にとっても

 励ましになります。

 誰しも自分よりも優れた人達の中に入っていくことに

 気おくれしてしまうものです。

 場違いなところにいるという劣等感が

 自分を惨めにしてしまいます。

 しかし人間には触れるものに似ていくという

 性質があることを思い出してください。

 いくら居心地が悪くても、

 自分の人生を向上していきたいと願うならば、

 優れた人々、前向き積極的に生きている人達の

 交わりに集うことが大切なのです。

 そこで謙遜になって良いものを吸収していくのです。


  私自身も、素晴らしく活躍している牧師達の

 集いに行くことに気おくれを感じたものです。

 しかし、敢えてその場に自分を置くことによって、

 多くの励ましと成長に役立つ刺戟を得ることができました。


  最後に、もう一度ドニー・マクラーキンの言葉を紹介して終わります。

 「犠牲者と勝利者は共通点が一つある。

 『苦しみ』だ。

 犠牲者も勝利者も、対立や争い、戦いに直面し、

 傷や心の痛みを負い、地獄を経験したという点では同じだ。

 虐待や挫折、破れた夢、

 アイデンティティの戦いなどの経験も共通している。

 犠牲者と勝利者も、味わっている苦しみは同じなのだ。

 そこで犠牲者と勝利者を分けるものは何か。

 それは、その苦しみにどう向き合っていくかである。」


                     教会学校教頭 新谷和茂

小説「ダ・ヴィンチ・コード」って?


  ホザナ通信をお読みのお父さん、お母さん、お元気ですか。

  さて、いきなりですが、皆さんは『ダ・ヴィンチ・コード』の小説や映画、

 それに関連したTV番組をご覧になったでしょうか。

 『ダ・ヴィンチ・コード』の小説は、

 '03年に発売されて以来、全世界で4000万部近く売れ、

 日本でも'04年に発売され1000万部を突破したという、

 異例のベストセラーです。



 また、今年5月20日には、映画も世界に一斉公開され、

 キリスト教関連映画としては記憶に新しい「パッション」よりも、

 いろんな意味でキリスト教関係者を含め、

 それ以外の方々の関心をも寄せた話題ではないでしょうか。

 職場では、今までキリスト教の「キ」の字も

 言われたことがありませんでしたが、

 映画を観られた2人の方から「ダ・ヴィンチ・コードの謎を教えて!

 キリスト教のこと、知ってるんでしょう」と聞かれた時には、

 世間の流行にはみんな乗せられるものなんだなぁと思いました。

 私も、「現代社会とキリスト信仰」という神学校の授業の一環で、

 いち早く小説と解読書や関連本を数冊読んでいましたので 

 世間に一応ついていっているといえるでしょうか(笑)。

 今月は、この話題になっている「ダ・ヴィンチ・コード」から

 「先入観をはずして物事をみてみる」

 という視点でお話したいと思います。


  『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで見ると、

 衝撃的な「事実」が明かされます。

 その事実とは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた

 「最後の晩餐」にはコード(暗号)が隠されており、

 イエスの隣にいるのは、

 愛弟子のヨハネではなくマグダラのマリアであるということでした。


  マグダラのマリアは、イエスの母マリアとは別の女性で、

 イエスの生活を支え、イエスが十字架にかけられた時に立ち会い、

 イエスが葬られた時、墓に真っ先に行き、

 イエスの復活をも、最初に知った女性として

 聖書に書かれているマリアのことです。

 このマリアは後に、

 娼婦であった罪人の女性と同定されてしまいました。

 このマリアとイエスは、実は夫婦で子どももいた。

 そのことが、「最後の晩餐」に象徴されているというのです。


  更に、そのイエスの血脈は、

 中世フランスのメロヴィング朝に引き継がれ、

 隠された聖杯とは、まさしくこの子孫が存在することであり、

 その秘密を千年間、守り続けてきたのが

 シオン修道会という秘密結社の存在です。

 大筋、このような流れをメインテーマとしています。

 その、ネタ元の一つとなっているのが、

 『ピリポの福音書』というキリスト教の正典(聖書)からはずされ、

 異端とされているグノーシス主義

 (キリスト教の形式をとった異質な教え)の書物ですから、

 正統なプロテスタント・キリスト教や

 ローマ・カトリック教会としては、

 こういったことまで「事実」であるかのように

 書かれたことに対しては、たまったもんじゃありません。


  「事実」であるか別として、

 私がこの小説を読んだ感想は、「おもしろい」ということです。

 だって、最後の晩餐のヨハネが

 「女性である」と言われれば、女性に見えてきたから不思議です。

 今まで、何も考えずに見てきたものが、

 ちょっと違う視点からみる、

 先入観をはずしてみると違って見えてくることを、

 この最後の晩餐で実感したのです。


  もう一つの点は、イエスに子どもがいたということです。

 キリスト教の常識からすればとんでもない事になりますが、

 案外、面白い発想だと思うのです。

 先入観を外して異端といわれるグノーシス主義を見てみますと、

 今まで知らなかった初期キリスト教の姿も今回、知ることになりました。

 実に多種多様のイエス観があり、

 当時はそれも含めて確かにキリスト教であったのです。

 単純に「これは、違う」と端から決め付けて物事を見てしまうと、

 見えるはずのものまで見えなくなってしまうことがあるのですね。


  まっ、実際、歴史的な「事実」としましては、

 絵画でのヨハネは、若いという特徴を出すために、

 ダ・ヴィンチ以外の画家もヨハネを女性的に描いていますし、

 グノーシス主義の『ピリポ福音書』をネタにしているのなら、

 人間的なイエス像は逆にあり得ない訳で、

 マグダラのマリアとの結婚もおかしくなってしまうものですから、

 この小説は、あくまでもフィクションとして

 楽しめばいいんじゃないかという結論にいたしましょう。


  いろいろな良し悪し、真実か虚構か、はあると思いますが、

 私としては、この本を通して、

 クリスチャンでない方がけっこうたくさん

 キリスト教に興味を示したことは、

 結果的には良かったのではないかと思いますが、

 皆さんはどうですか?


                          神学生  藤原みつえ

旭山動物園からのメッセージ


  うだるような暑さが続く毎日、皆様いかがお過ごしですか?

 子供達は夏休みを満喫していることでしょうね。

 大人の私達は、この時ばかりは子供達が羨ましくなりますね。


  さて、私は先日『「旭山動物園」革命―夢を実現した

 復活プロジェクト(旭山動物園園長・小菅正夫著)』という書物を読みました。

 様々なことを教えられる良い本でした。

 今月はその一つを分かち合いたいと思います。


  既にご存じのように、

 今や旭山動物園は

 東京の上野動物園を凌ぐ入園者を獲得する動物園です。

 テレビでも何度も取り上げられ、

 旅行社は「旭山動物園パックツアー」までも企画しています。

 交通の便の悪い北海道の真ん中に位置し、

 しかも珍獣のいない動物園が日本中の人々に注目されています。


 その最も大きな理由は、動物の展示の仕方にあるでしょう。

 動物の展示の仕方には、動物の姿形で分類して、

 おもに檻に入れて展示する「形態展示」(従来の動物園の展示)、

 動物の生息環境を園内に最大限再現して展示する

 「生態展示」(サファリパークの展示)があります。

 しかし旭山動物園が取った展示の仕方は、

 それぞれの動物がもっている特有の能力を発揮できる

 「行動展示」という方法でした。

 当然、それぞれの動物を入れる器には、

 その動物の特性を生かせる構造になっているわけです。

 動物たちがイキイキと活動している。

 それを見た人間も嬉しくなり元気になる。

 これが人々を惹きつけて止まない魅力なのでしょう。


 小菅正夫園長はこの書物の中でこう言っています。

 「人間でも、自分が誰にも負けない能力を発揮できる場を与えられて、

 それを人に評価されれば、そんな嬉しいことはないだろう。

 勉強でも、運動でも、仕事でも、もっとやろう、

 もっと上手くなりたいと思ってますます能力を高めていくだろうし、

 イキイキしてくるはずである。

 動物も同じだと思う。

 外の動物にはない、

 自分だけの持つ能力を発揮できる環境を提供されたいのだ。」

 更に彼は言います。「野生動物と向き合い、

 園長として動物園のスタッフを見ていて思うのは、

 動物も人間も『自分らしさ』を発揮できる環境は

 なにものにも替え難いということである。」


  逆に考えれば、

 旭山動物園の人気の陰には、

 「自分らしさ」が生かされない閉塞感があるのではないでしょうか。

 だから人々はイキイキと活動する動物達を求め、

 彼らを見て、嬉しくなり、元気になるのでしょう。


  「自分らしさ」を充分に発揮できる環境。

 なんて有り難い環境でしょう。

 でも、残念ながら、

 そのような環境は現実社会では余り期待できないでしょう。

 大なり小なり「自分らしさ」を抑圧されるのです。

 社会人になるとはそういうことでしょう。

 私は、今日のフリーターとかニートとか呼ばれる若者達の問題は、

 旭山動物園の動物のように、

 「自分らしさ」を発揮できる環境を棚ぼた式に

 求めすぎていることではないかと思います。

 彼らは、この仕事は自分に合わないからと直ぐに辞めてしまいます。

 ある若者は「自分は何がしたいか分からない」といって

 定職に就こうとしません。

 「自分らしさ」を発揮できる環境を求めすぎてさ迷っているのです。


  旭山動物園の動物達は、

 自分達で自分らしさを発揮する環境を作ったわけではなく、

 人間によって環境を作ってもらって自分らしさを発揮できました。

 ここに人間と動物の決定的な違いがあります。

 人間の素晴らしさは、

 置かれた環境で創意工夫をしながら自分らしさを発揮していけることであり、

 更には自分らしさを発揮できる環境を創り上げていくことなのです。


  世界史で学んだ4大文明の発祥の地は、

 決して良好な土地ではありませんでした。

 大河が氾濫を繰り返す最悪な土地であったのです。

 その自然の猛威に人が立ち向かい戦った結果、

 4大文明が興ったのです。

 神のかたちに創られた私達人間には、

 環境を管理支配する力が与えられているのです。


  私達は、旭山動物園の動物達の姿を見ながら、

 人間に備えられた特有の能力を見つめ直そうではありませんか!

「自分らしさ」を生かすキーワード


  虫の音にも秋の気配を覚える昨今、皆さんいかがお過ごしですか?

 夏休みも終わり、お母さん達はホッとしてるかも知れませんね。

 さて、少々遅れましたがホザナ通信8月号をお届けいたします。


  先月「〈旭山動物園〉革命―夢を実現した

 復活プロジェクト(小菅正夫著)」から分かち合いましたが、

 今月もこの書物から考えさせられたことを分かち合いたいと思います。


  旭山動物園の最大の特徴は、

 動物達が独自の能力を発揮出来るように工夫された

 「行動展示」にあります。

 先月にも引用いたしましたが、

 小菅氏はこう記しています。

 「人間でも、自分が誰にも負けない能力を発揮出来る場を与えられて、

 それを人に評価されれば、そんな嬉しいことはないだろう。

 勉強でも、運動でも、仕事でも、もっとやろう、

 もっと上手くなりたいと思って益々能力を高めていくだろうし、

 イキイキしてくるはずである。

 動物も同じだと思う。

 外の動物にはない、

 自分だけの能力を発揮出来る環境を提供されたいのだ」。

 更に彼は言います。

 「野生動物と向き合い、園長として動物園のスタッフを見ていて思うのは、

 動物も人間も、『自分らしさ』を発揮出来る

 環境はなにものにも替えがたいということである」。


  確かに“自分の能力が発揮出来る”、

 “自分らしさが発揮出来る”ことは喜びと生き甲斐をもたらします。

 そしてそのような環境を整備することは大変重要なことです。

 しかしここで動物と人間の違いが顕著になるでしょう。


 動物の場合、特別に設計された檻に1匹だけ入れておかれても、

 彼らの能力を発揮するのに差ほど影響はないでしょう。


  しかし、人間の場合はそうはいきません。

 人間の自分らしさは、自分ひとりでは発揮できないからです。

 違った個性をもった人々との関係の中で、

 自分らしさが発揮されるものなのです。

 誰ひとりいない無人島で、

 自分の能力を十分に発揮できたとしましょう。

 それは喜びでしょうか。

 いいえ、何の満足も喜びもありません。

 ただ「空しい」の一言に尽きるでしょう。

 人間には、認め認められる、褒める褒められる、

 助ける助けられる、という関係が必要なのです。

 つまり人は互いに役立ち合うことによって、

 初めて自分らしさを輝かすことが出来るのです。

 ですから人が自分らしさを発揮する環境を整備するとは、

 人間関係を整備することに尽きます。


  文豪・夏目漱石は「草枕」の出だしでこう言っています。

 『山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。

 情(じょう)に棹(さお)させば流される。

 意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。

 とかくに人の世は住みにくい。』


  さすが文豪、うまく言ったものです。

 人の世、つまり人間関係の世は、確かに住みにくい。

 この住みにくい世で、如何に互いに役立ち合いながら、

 自分らしさを輝かせていけるのでしょうか。

 これは人間社会の永遠のテーマでしょう。


  この人間社会の永遠のテーマに対して

 永遠のベストセラー聖書は何と言っているのでしょうか。

 聖書は「愛」「感謝」「赦し」、

 この3つが人間関係の中で自分らしさを発揮する

 キーワードであると言っています。

 他の人でなく、先ず私達が愛と感謝と赦しを発信していくなら、

 人間関係が良循環となり、自分らしさが輝きだすことでしょう。


  “そんなこと分かてる。

 分かっちゃいるけど出来ないんだ…”とつぶやいた方がいるでしょうね。

 そうです。それが私達の弱さです。

 でも聖書は、単に教訓を垂れるだけでなく、

 その教訓を実行する力を与えてくださるキリストを紹介しているのです。

 私達が、聖書を通してキリストに出会っていく時に、

 心が新しくされ続けて、私達の生き方が変えられていくのです。

 「自分らしさ」というオンリーワンの宝をキリストと共に輝かせましょう。

この宝を土の器の中に


  運動会で一生懸命がんばる子ども達の姿、輝いていましたね。

 デジカメやビデオカメラを手に、

 親御さん達もすっかり大興奮だったことと思います。

 私も運動会のことを思い出す時がありますが、

 誰か一人は徒競走やリレーの中でこける子がいたものです。

 「うわぁ、痛そう…」、「大丈夫かな?」と心配しつつ、

 「でも最後まで頑張れ!」とみんなで声援を送ったものです。

 そしてその子が自分で立ち上がって、

 あきらめずに走り、ゴールした時には、

 まるで自分のことのように嬉しかったことを覚えています。        

  私達の歩む人生、また子ども達が歩む人生、

 何事もなく順調に行ってくれたらいいなぁと思います。

 でも、その中で周りから苦しめられることがない人や

 途方に暮れることがない人、

 倒されることがない人は一人もいないのではないでしょうか。

 皆それぞれに困難にぶち当たる。

 つまずき倒れることがある。

 それが私達の現実です。

 だとするならば大切なのは、

 その後どうなっていくか、ではないでしょうか。

  「大切な子ども達だから幸せであってほしい」、

 親であれば誰もが願うことです。

 だからこの子達が苦しむこと、つまずくこと、

 困ってしまうことから守ってあげたい、

 そう思うかも知れません。

 実際、赤ちゃんや幼少期、

 子供達は両親からの多くの守りを必要とします。

 けれども考えてみて下さい。

 私達は幼稚園の送り迎えはできても、

 毎日一緒に園の中で過ごすことはできません。

 宿題を見てあげることはできても、

 テストの時そばにいて、答えを教えてやることはできません。

 応援することはできても、運動会で代わりに走ってやることはできません。

 学校の人間関係で悩む時、話しを聞いてあげることはできても、

 やっぱりまた送り出さなくてはいけない存在です。

 病気で苦しむ子を見ながら、

 「代われるものなら代わってやりたい」とどんなに思っても、

 そうすることはできないのです。  

 私たちの愛する子が、

 その子自身がその問題を乗り越えて行かなくてはいけないのです。

  では心がくじけそうになる時、痛みを覚える時、

 そんな“タイセツナトキ”何が子ども達を支え、

 あきらめないねばり強さを与えるのでしょうか?  

 何が彼らに希望を与え、次に進む勇気を与えるのでしょうか?

  四方から苦しめられることがあっても窮しない。

 途方に暮れても行き詰まらない。

 迫害にあっても見捨てられない。

 倒されても滅びない。

 これが、イエス・キリストという宝を心に持っている人だと

 聖書は言っています(Ⅱコリント4:8-9)。

 つまりこの宝があれば「大丈夫だ」と。

  「大丈夫」この三文字がいつもある、

 これは本当に大きなことだと思いませんか?

 「でも大丈夫」と言えたら、

 その前に何が来るかは関係なくなるんですから。

 「○○があっても大丈夫」。「△△になっても大丈夫」。

 人から見てどうかではなく、

 自分を取り巻く状況がどうかではなく、私の心の中は大丈夫です!

 と言える本当の強さがここにあります。

  聖書は私達を「土の器」と表現しています。

 金の器でなく銀の器でなく、土の器だと。

 それは欠けもすればヒビもいく、もろく壊れやすいものです。

 でも器にとって大事なのは、その見た目ではなく、

 中に何を持っているかです。パウロという人は言いました、

 「私達はこの宝(イエス・キリスト)を土の器の中に持っている」

 (Ⅱコリント4:7)。

 だから、四方から苦しめられることがあっても窮しない。

 途方に暮れることがあっても行き詰まらない。

 迫害にあっても見捨てられない。

 倒されても滅びないのだと。

  子ども達にとって困難の多い時代です。いつの時代でもそうですが、

 今は特に心にとって困難の多い時代です。

 そんな今、親としてできる最高のことは、

 子供達の心の中にこの宝を持たせてあげることではないでしょうか。

 決して器の外見を着飾ることではありません。

 器を無理に大きくさせることではありません。

 金メッキを塗りたくることではなく、土の器の中に、

 その器そのものを輝かせ、

 生きる力を与えていく「イエス・キリスト」という宝物を持つように導いていく、

 これこそ私達にできる最善なのではないかと思わされています。

水からのメッセージ


  朝夕はめっきり冷え込むようになりました。

 ホザナ通信を読んで下さっている皆さん、 お変わりございませんか。

 遅くなりましたが、10月号をお届けいたします。    

  「水は答を知っている―その結晶に込められたメッセージ」 

 (江本勝著)を読みました。

 水は私達の生活に欠かすことのできない物質です。

 しかも水というのは実に不思議な物質です。

 大概の物質は液体から固体になれば、

 比重が重くなって水に沈むのですが、

 水は氷になると比重が軽くなって水に浮きます。

 寒い冬、湖や海の表面が氷となって水に浮きますが、

 このことによって氷の下の水温は4℃に保たれ、

 水生生物が生きやすい環境を作ります。

 また水が気体になれば空気中に拡散し、

 それが雲となり雨となって、空気を浄化し、

 大地を潤すという循環をおこないます。

 また水には他の物質を溶かし、運ぶという特殊な性質があります。

 この性質のおかげで、洗濯ができたり、栄養満点のスープが作れたり、

 ミネラルウォーターを飲むことができます。

 逆に有毒物質も水に溶け込みます。

 この最もありふれた水は、現代科学をもってしても

 まだ解明できていないことが多いと言われています。

  波動の研究家である江本氏は、この水に興味を持ち、

 水を氷結させ、その結晶写真を撮ることに成功したのです。

 彼は、水道水、湧き水、地下水など状態の違いによっても、

 また聞かせる音楽の種類によっても、

 その結晶の一つひとつが様々な形態を見せることを発見しました。

 さらに驚くべきことには、ガラス瓶に水を入れ、

 言葉を書いた紙を水に向けて貼り付け、

 水に言葉を見せると、異なった水の結晶があらわれるのです。

 「ありがとう」という言葉を見せた水と「ばかやろう」という

 言葉を見せた水では全く違った結晶を示します。

 「ありがとう」という言葉を見せた水は、

 雪印牛乳のような六角形のきれいな形の結晶であるのに対し、

 「ばかやろう」の文字を見せられた水は、

 結晶がゆがんだり、バラバラに砕けているのです。

  様々な言葉で実験した結果、水が最もきれいな結晶となるのは

 「愛と感謝」だということが判明しました。

 江本氏はこう言っています。

  「水が凍るとき、水の分子は整然と連なって結晶格子をつくります。

 これが六角形の構造となって安定し成長すると

 水の結晶となって目に見えるわけですが、

 自然とは違う情報がそこにもたらされると、

 きれいな六角形が形成されないのです。

 『ありがとう』『愛』『感謝』という言葉は、

 大自然の掟、生命現象の根本原理なのです。

 だから水は自然そのままの六角形の形をきれいに作ってくれます。

 それに対して『ばかやろう』という言葉は自然の中にはなく、

 人間が作り出した不自然な言葉なのでしょう。」

 更に、興味深いことは、ガラス瓶に入れた水に

 全く関心を示さなかった場合の実験です。

 無関心にされた水の結晶は、

 否定的な言葉を見せた水の結晶よりもひどい状態であったのです。

  人間の身体の70%が水であることと考え合わせると、

 如何に言葉の力が私達に大きな影響を与えているかが分かります。

  江本氏はクリスチャンではありませんがこう言っています。

 「水のことを理解すればするほど、

 神なるものの存在を否定することができなくなってくる」。

 更に「きっと神様は楽しんでいるに違いありません。

 神様は人間にも自分と同じ能力、すなわち創造力を与え、

 その力を使うのはあなた達の自由なのだと、

 優しい目で見守ってくれているに違いないのです」。

  水は人間が幸せに生きていくための秘訣「愛と感謝」を知っているのです。

 そして、この水からのメッセージは聖書のメッセージに合致しています。

 神様は水を通して私達に「愛と感謝」という幸せを

 創造する力を教えてくださっているのです。

  いじめによる自殺の報道が日々流されている昨今、

 私達は水からのメッセージを真剣に受けとめていきたいものです。

アドベンド〜待つ喜び〜



  きれいなイルミネーションを目にする季節になりました。

 今年もクリスマスが近づいて来たんですね。 
                                      
 ところで、みなさんは世界中の教会で         

 クリスマスの前に持たれる

 大切な期間があるのをご存じですか?

 それは「アドベント」という期間です。

 クリスマス前の4週間、

 みんながクリスマス(イエス様の降誕)を待ち望む期間のことです。

 私は子どもの頃、このアドベントに疑問を持っていました。

 「どうしてイエス様のご降誕を待ち望むの?

 もうイエス様はお生まれになったのに」って。

 「なんで毎年もう一回待つところから始めるんやろう?

 いきなりクリスマスからお祝いしたらいいことなんとちがうん?」。

 けれど大きくなって、

 このアドベントの大切さを感じるようになりました。

  最近は時の流れが速くて、

 人々は「待つ」ということを

 忘れてしまっているかのように感じることがあります。

 温かいご飯が食べたいと思えば、

 レンジでチンすればすぐに食べれる

 (私が子どもの頃はお鍋に湯を入れてその中にお茶碗を置き、

 火にかけて蒸気で温めたりしていました)。

 ストーブだって最近のには「速暖」というスイッチができて、

 それを押していたらすぐに温風が出てくる仕組みになっている

 (昔の石油ストーブにマッチで火をつけても、

 暖かくなるまでに時間がかかったものです)。

 人との待ち合わせでも、

 何かあればすぐに携帯で連絡を取ることができるから、

 何も分からないままずっと待つということはなくなっています。

 手紙を送って返事を待つより、

 メールであっという間にやりとりができてしまう。

 たくさん便利になった変わりに、

 「待つ」ことをどこかに置いてきてしまったのかもしれません。

 待たなくていいことが便利だと、

 早く簡単にできることが便利だと思っていたからかも知れません。 

  でも何もかもインスタントみたいにはいきませんし、

 インスタントでは困ります。

 時間をかけなければならないこともたくさんあるのではないでしょうか。

 早く終わって欲しいと思いつつも、

 がまんして待たなければならないことも。

 私達の大切な子供達を育てることも、

 そんな「待つ」連続かもしれません。

 それは便利にしてしまってはいけないことなんではないかと思います。

 だってインスタント家族、インスタント子ども、

 インスタント愛なんて誰も欲しいと思わないでしょうから。

 「待つ」ことがあって完成する。

 忍耐することで得ることができる。

 そんなものを大切にしていきませんか?

  欧米諸国に行くと、

 クリスマスまで完成しないクリスマスの飾りがあります。

 それがアドベントカレンダーです。

 アドベントカレンダーは12月1日から25日まで、

 まい日一つづつオーナメントを飾っていくもの、

 一つずつ窓を開けていくと中からかわいい絵が出てくるもの、

 そこにチョコレートやお菓子が隠されているものなど

 たくさんの種類があります。

 でもどれも共通しているのは、一日で全部をしてしまわないことです。

 「毎日一つずつ」が大切なんです。

 クリスマスの25日が一番いいものであることは

 初めからわかっています。

 またそこで完成することもわかっています。

 そうしたら早くそれを見たいし、

 初めからきれいに整えてしまいたいと思うかもしれません。

 でも、一日一日「クリスマスを待つ」その気持ちを味わいながら、

 その日その日の出来事を感じながら、

 やがてやって来る「その日」を楽しみに待つワクワク感・期待感。

 そしてそれを味わったからこそわかるクリスマスという特別な日。
        
 このアドベントの期間を通して、

 子供達と共にゆっくり味わってみてはいかがでしょう?

 毎日少しずつ、クリスマスの聖書箇所を読んでみたり、

 マリヤさんの気持ちを考えてみたり、

 羊飼いさん達の思いを感じてみたり、

 イエス様が生まれてきて下さる喜びを共有したいと思います。

  そして、このアドベントを通して私達の心を見つめ、

 「待つ」ことのできる親として成長できるチャンスとできたらいいですね。

 子供達の成長も同じ。

 子供達の人生も同じ。

 すぐに結果が出なくても希望を持って待つことができる、

 耐えることができる、その先にある約束を見つめ続けることができる、

 これは親にとっても子供達にとっても

 かけがえのない力になっていくものです。

  ユダヤの人々がずっと待ち続けた救い主。

 求めてすぐにやって来たわけではなかったけれど、

 でも彼らは諦めず、失望せず、ずっとずっと待ち続けました。

 それがアドベントの始まりでした。

 そしてアドベントの後に必ずクリスマスがやって来ます。

 クリスマスの来ないアドベントはありません。

 私達の人生も、神さまがそのように導いていて下さいます。

 皆さんがステキなアドベントを過ごされますように。    

随時更新予定

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