月報 2010 2

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恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(1)―古い器から新しい器へと

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(1)
―古い器から新しい器へと―
佐川 千秋

 私にとって、今回の高砂聖霊アシュラムが今まで参加した中で一番印象に残る祝福されたアシュラムとなりました。

 私は今回高砂聖霊アシュラムへ参加するにあたり、強い願いがひとつありました。それは、新しい年を迎えたと同様に、私も新しいスタートをしたいということでした。この一年というもの、心身共に今までにない程ボロボロになり、すっかり自分を見失ってしまい、自分ではどうすることも出来ない位にまでひどい状態に陥ってしまっていたからです。だから、今年こそは飛躍の年となるよう新しいスタートの年にしたいと強く願ったのです。神様はそんな私に対して御言葉の静聴を通してひとつひとつ必要な道を示して下さいました。また、特別賛美夕拝において癒しを与えて下さいました。

 御言葉の静聴は四回ありましたが、私の属したファミリーでは静聴箇所にタイトルをつけて分かち合いをしました。そのタイトルが起承転結のようにひとつの線に繋がったことに驚きました。第一静聴では「器を壊した主」、第二静聴では「恢復の道を主と共に」、第三静聴では「神様の最善~私たちの思いを遥かに超えて~」、第四静聴では「祝福の基に~イエス様本当にありがとう~」・・・と意識してタイトルをつけた訳ではなかったのに繋がり不思議でした。 第一静聴では、今まで当たり前のようにあったものがそうではなかった体験をした痛みに対して、「私だ。恐れることはない。」という御言葉を通して神様から大丈夫というメッセージを頂きました。

 第二静聴では、「神の業がこの人に現れるため」という御言葉を通して、ひどい状態になり、周りに沢山の迷惑をかけてしまった自分を責めまくっていた私に、「そうではないんだよ、これはあなたには必要なプロセスだったのだよ」と教えられました。それは、本当に神様からの温かな励ましとなりました。しかも、それは神様から語られ続けていた「私があなたの関係を壊した。それはもっとよい関係をあなたが築いていけるようになるためです。あなたは本当に幸せな人です。どれ程多くの人に愛され必要とされ祈られているか知っていますか? あなたは本当に幸せな人です。」という言葉とも繋がり感謝しました。

 第三静聴では、その聖書箇所を通して、自分の思い願っていることと違う形で物事が展開することもあるけれど、神様に信頼し待つことも大切ということを教えられました。

 第四静聴では、恐れで震え上がっていたであろう弟子と自分の姿が重なりました。しかし神様はそんな弟子達の真ん中に現れて下さった・・・という事を通して、主は何もかも全てご存知だから大丈夫だ・・・と第一静聴で感じた大丈夫というメッセージが更に強められ与えられ、本当に感謝な思いで一杯でした。

 また、特別賛美夕拝では、賛美をしていたら何故か「テテレス・タイ」という言葉が内側から湧き上がるように響き渡ってきました。一体何なのか?とその時は、その言葉の意味さえも全く思い出せず、落ち着きませんでした。按手の祈りの時も、私は落ち着かなかったので、委員であることをいいことに避けまくっていましたが、とうとう最後の最後につかまってしまいました。祈って頂いた時に、バチッという感覚がしたと同時に私は意識を失ってしまいました。こんなことは初めてでした。まるで聖霊様に打たれたような感じでした。起き上がった時に、今まで感じたことの無い心の軽さを感じました。その時に癒されたのだと気付き、涙が止まらなくなりました。

 しかもそれだけでは終わりませんでした。夕拝後、何人かで分かち合いをする機会がありました。ある人が「何故か知らないけれど『完了した、完了した』って聞こえてくるねん」ということを言われたのです。その時に目が開かれるかのように、そうだ、「テテレス・タイは完了したって意味だった!」と思い出しました。同じ時に同じ意味の言葉を示されていた人がいる・・・私はその事にも、ものすごく大きな意味があったことを悟りました。そして、神様はなんてすごいお方なんだろうと畏れ感動せずにはいられませんでした。

 御言葉の静聴を通し、賛美夕拝を通し、私は本当に多くの学びと気付きを頂きました。高砂聖霊アシュラムに参加して本当によかったと思います。手束主任牧師先生の「キリスト教の第三の波」の学びも、ここでしか頂けないので本当に貴重な時間となり感謝です。古い器が砕かれ、神様によって根本から新しいアイデンティティを頂いた恵みを、祝福の基として流しだしていきたいと思います。

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(2)ー私の使命は伝道であるー 

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(2)
―私の使命は伝道である―
田中 綾

  今回初めて参加したアシュラム。漠然とした期待を持って参加したのですが、期待以上の恵みを頂きました。

 アシュラムには、「福音のとき」、「静聴のとき」、「ファミリーの分かち合い」と三種類の時間がもたれるのですが、「福音のとき」には手束主任牧師先生より「キリスト教の第三の波」を通して学びを戴きました。カリスマ運動の歴史的背景などを、事細かく説明していただき、ベテル聖研の時のようなワクワク感をもって講義を受けました。

 「静聴のとき」は、与えられた御言葉でのデボーションの時だったのですが、このデボーションで私は、自分の信仰の問題と与えられた使命を教えていただきました。普段、デボーションは良いというのが分かっていても、なかなか時間を取る事が出来なかったり、或いはデボーションをしていても「これは、神様からの語りかけなのだろうか、それとも自分の思い込みなのだろうか」と思うことがよくありました。しかし、このアシュラムでのデボーションは違いました。聖霊の働きによって御言葉を理解するように導かれ、そして その御言葉を通して私個人に神様が何を語ろうとされているのかという事を、受け取る事ができました。全部で聖書箇所は四つあったのですが、そのうちの二つがとても印象に残りました。

 ひとつはヨハネ六章十―二一節のイエス様がガリラヤ湖の上を歩かれる箇所です。この御言葉では、私の信仰の問題について気付かされました。私は今まで、イエス様の臨在を感じたいと思い、その事についてよく祈っていました。それは臨在を感じる事によって自分の信仰を更に引き上げて欲しいという願いの表れだったのです。しかし、この箇所の弟子達の行動を通して気付かされました。イエス様をおいて船を漕ぎ出した事、嵐の中、姿を見せられたイエス様を見ることが出来ず恐れ続けている事。この二つが私の問題点であると気付かされたのです。イエス様の臨在を感じたいと願いつつ、イエス様をおいていったのは私なのではないか、結果 イエス様の姿が見えなくなっていたのではないか、と気付かされたのです。しかし、神様が語られたのは それだけではありませんでした。その見えなくなっている私に「わたしだ」と声をかけてイエス様がそこにおられる事を気付かせて下さるんだという事でした。その事に気付いた瞬間、悔い改めと感謝の思いが一気にこみ上げ、涙が溢れました。そのデボーションが終わった後もしばらくの間、「私はここにいる」とイエス様はずっと私のそばで臨在を表して下さり、涙が止まりませんでした。

 もうひとつの箇所はヨハネ二十章一九―二三節です。ここで語られた事は「あなたは私の弟子である」でした。二一節で、イエス様が「安かれ。父が私をおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。」と言われました。この御言葉が私の心に響きました。「神様がイエス様をおつかわしになったように、イエス様もまた私をつかわす」と置き換えられたのです。イエス様の伝道は決して楽ではなく、簡単なものではありませんでした。この御言葉を通して、「これから伝道していく中で しんどい時も辛い時もあるだろう。しかしイエス様が常に神様に祈っていたように、私も神様に祈り、聞いていくことによって その伝道は進んでいくんだ」と教えられたのです。

 クリスチャンにとって伝道は基本的な使命だとは思います。それでも、少し伝道から遠のき始めた私がいました。しかし、この御言葉によってもう一度奮い立たされました。私の使命は伝道であると。そのために、神様は今回のアシュラムの中で、「いつもそばにおられるという事」「私の信仰の問題点」「イエス様に対する確信」「伝道しなさい」と教えられました。ただ単に「伝道しなさい」と頭から言われたのではなく、この四回のデボーションを通して、私を整え その上で「伝道しなさい」と言われたのです。頭ごなしでは聞かない私であるという事を、神様はやっぱりよくご存知でした。本当にこのアシュラムに参加してよかったです。本当に恵まれました。来年も期待して待ち望みたいと思います。 

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(3)ーカリスマ運動の重要性に目が開かれて

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(3)
ーカリスマ運動の重要性に目が開かれてー
東京ホライズンチャペル

 このたびは高砂聖霊アシュラムに参加させていただき多くの恵みいただきましたこと大変感謝いたします。これまで高砂教会の夏の修養会に二回参加させていただき、手束先生、美智子先生、高砂教会の皆様の篤き信仰と働きを体験させていただいておりましたが、初めて参加させていただきました高砂聖霊アシュラムでもその働きをさらにより深く理解させていただく機会となりました。また、私のこれからの人生(手束先生の著書『輝かしい季節の始まり・ヨシュア記説教集②』の第3の人生「輝かしい季節の始まり」に向けて)の方向性を熟慮するための良い時となりました。

 手束先生との出会いは一九九九年八月、当時手束先生が奉仕をしておられ、今回の高砂聖霊アシュラム聖日礼拝の中でも語られた新潟の教会で、私の長男と一緒に洗礼を先生から授けていただいた時からでした。私とその教会の繋がりは一九九〇年、私が転職した会社の最初の赴任地新潟で出会い交際していた妻に紹介され、主日礼拝に参加したのがきっかけでした。妻はいろいろありましたが、その教会で当時奉仕をしておられた中川牧師より洗礼を受けました。

 結婚した後、仕事の関係で関東に転勤になり、東京町田の中川牧師が立ち上げた教会(杉本智俊師)に、たまに妻と行って礼拝に参加していました。福島での転勤に伴い単身赴任となり、自分と向き合う時間と聖書を真剣に読む機会が与えられ、妻の洗礼後九年間迷いましたが、洗礼を受ける決心をしました。学生時代より人間如何に生きるべきかを捜し求めていましたが、キリスト教は単なるひとつの宗教ではなく、人間が本来生きるべき道であると確信したからです。本来好奇心が強くいろいろな人間の生き方に興味があり、結局、一生どの生き方がいいか見つからないのではないかと思っていました。感謝なるかな神よ! キリスト教に導いてくれた妻と、信仰の方向性を導いてくださった手束先生との出会いは正に神の摂理でした。

 受洗したときはキリスト教界のことは何も知らず、カトリック・プロテスタントが存在する程度の知識しかありませんでした。教義教派がいろいろありお互い争いがあるなどとは夢にも思っていませんでしたし、キリスト教界は考えの違いはあっても皆仲良く一つに纏っているものと思っていました。手束先生については、聖霊の働きを重んじ癒しなどの聖書にある奇跡が今でもあると主張している牧師だと、教会員から聞かされていた程度です。私は素朴に、聖書にある超自然的奇跡は今でもあるということは、聖書に書いてある通りあっても不思議はなく、特に田舎の狭い社会で頑なな人達に伝道するには非常に効果的な、神様から与えていただいたギフトであると単純に思いました。多くのキリスト教会からそんな危険で危ない牧師である(?笑)と言われているとは知らず、手束先生から洗礼を受けさせて頂きました。

 カリスマ運動を一般的に認めてもらうまでの闘いが如何に激しいものであったか、『キリスト教の第三の波』の講義を通じて少なからず知ることができました。また、まだまだ浅い理解ですが、カリスマ運動が、特に一%の壁が打破できない日本のキリスト教界にとって、革命的変革をもたらすものであると思いました。「聖霊刷新協議会」の働きがそのための起爆剤となることを、切にお祈りさせていただきます。

 高砂聖霊アシュラム・プログラムでは、高砂教会の皆様と、「ファミリー」を通じて親しく交わりの時と御言葉の分かち合いの時を過ごさせていただいたことは感謝でした。手束先生、福江先生、股村先生による三回の聖日礼拝説教の恵みも格別でした。高砂教会の皆様の心よりのおもてなしに感謝するとともに、高砂教会の働きがもっともっと祝福されて、一日も早く日本民族総福音化が実現されますことを心より願いお祈りします。

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(4)ー内なる人を強め、キリストに似た者へとー

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(4)
ー内なる人を強め、キリストに似た者へとー
緑の牧場グレースクリスチャンフェローシップ 溝部 英子

 私は両親がクリスチャンだったので、神様がいつも身近な存在として育ち、また今までの三十年近い信仰生活の中で、自分なりに信仰や聖霊体験については確かであると思っていました。でも今振り返ると、可もなく不可もなく、熱くもなく冷たくもない、そんなクリスチャンで、そんな信仰生活を送っていたように思います。そんな時に、アシュラムへ行きませんか、とお誘いを受け、「静聴」に心惹かれるものがあった事、また仕事も備えられて行ける状況が整えられた事、で、今回アシュラムに参加させてもらいました。

 初参加だったので、アシュラムの全てが初めて。なので、静聴の時もファミリーの時間も新鮮で、読み慣れたはずの御言葉なのに、いつもなら知っているからとサラリと読み過ごしてしまう箇所なのに、初めて読んだような驚きや発見がたくさんあって、そういう気持ちで聖書を読むことって最近なかったなぁと気が付きました。

 また、最初は静聴の時が一時間近くあって、時間を持て余してしまいましたが、四日間を通して回数を増すごとに時間が足りない!と感じている自分に、感動でした。私の信仰生活の悩みの一つは、聖書を読むことに苦労する事だったのに、読めているばかりか、もっと読みたいと思っている・・・不思議でした。でも、アシュラムの主題に「聖霊体験の第一歩」と書かれているのを見て、そして、今回聖霊様に満たされるという体験を通して、今までの信仰生活は聖霊様によるものではなくて、自分の力によるものだったと、自分ではそうじゃないと思っていたけれど、でも実際は自分で頑張る信仰で、だから聖書も読まなきゃいけないと思って読んでいたし、無理をして疲れて神様に対して熱くも冷たくもない信仰しか持てずにいたように思いました。しかし神様はそんな信仰生活ではなく、聖霊様に満たされて、喜びと平安に生きる信仰生活を生きるため、アシュラムへと導いて下さったように感じています。

 日々の忙しさや騒がしさの中で、あっという間に毎日が過ぎて、悩みもどんどん移り変わって、解決するために神様に向き合う事、祈る事が失われつつあり、悩み自体心のどこかへしまいこんでいました。でもアシュラムの静聴の時に御言葉によって心の底に隠して忘れたふりをしていた悩みに気付かされ、向き合う事ができたのは大きな恵みの時でした。

 今も、いろいろな出来事はあって悩みもつきませんが、聖霊様が共にいて働いて下さり、日ごとに内なる人を強め、キリストに似た者へと、ゆっくり、静かに、ではあっても確かに新しくつくり変えて下さっている事を覚える事ができて、感謝です。

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(5)ーとてつもなく大きな神の子の身分ー

恵みに満ちた高砂聖霊アシュラム(5)
ーとてつもなく大きな神の子の身分ー
主イエス・キリストの教会 黒木 真美

 この度高砂聖霊アシュラムに参加させて頂き、心より感謝致します。

 この数ヶ月の間、主は「私たちの願いを何でも聞いてくださる」という事をずっと示してきて下さっていました。私はそれ以前に、主に願い求めても聞いて頂けない事が多くあって、落胆する日々が続いており、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、私の名によってそれをあなたがたにお与えになります」というみことばを信じる事ができなくなっていました。第一ヨハネ五・一四の「神のみこころに適う願いをするなら」という条件も、「何でも」という言葉と対立するように思えて、「結局、神さまが決めている計画に一致することは何でも」という意味なんだろうと思い、罪深い私には神様の決めておられる計画など知りようがないし、それは恐らく、私が喜ばず求めようともしていない事なので、神さまの御旨から外れている私の願いは聞いて頂けないのだろうと思うようになっていたのでした。

 しかし主は、この数ヶ月間に正しい御旨を示して下さり、私の誤りを正して下さっていたのでした。そして今回、アシュラムで与えられた静聴のみことばとの一致によって、主はその事に確証の印を押して下さったのです。それを以下に要約して記します。

 ① 「何でも」は本当に「何でも」であり、「神のみこころに適う願いをするなら」という条件の真の意味は、それが自分勝手な「悪い動機でないならば」(ヤコブ四・三)という意味である。

 ② 使徒ヨハネは、自著の福音書において主イエスのことばを記録するにあたっては、他の福音書の記者らと同様に、イエスが語られたそのおことば通りにただ「何でも」と、何の条件も付け加えず記録したにも係わらず、自らの手紙の中で自分の言葉として語る時には、「神のみこころに適う願いをするなら」という条件を付加したのは何故か?――それは、ヨハネ自身が我々と同じく過ちを犯しかねない人間であるので、ともすれば読者が勘違いして、その動機が間違っているにも係わらずどんな願いもすべて聞かれると信じてしまうといけないとの心配をしたから。

 ③ では、主イエスが何の条件もつけなかった理由は何故か?――それは、イエス様も天のお父様も、ご自身で贖い取った子らに対しては今や信頼の眼差ししか向けてはおられず、もはや罪人を見る疑いの視線はいささかも向けてはおられないから。ハレルヤ!

 ④ そして更に主が私に教えてくださった素晴らしい事。――ヨハネが語った「これこそ 神に対する私たちの確信です(第一ヨハネ五・十四)」の「確信である」という言葉は、「信頼を保つ(同二・二八)」、「大胆に(同四・十七)」とも訳されている。これはギリシャ語のパレーシアという言葉で、「相手といつでも話せる非常に親しい関係」を意味し、我々と天の父がそんな関係にあるということ。これは、「我々が正しい心で願う願いは何でも聞いて頂ける状態こそが我々のあるべき神との正しい関係なのだ」ということ。つまり、我々が〝神の愛の内に留まっている=みことばに忠実である〟ならば、我々の心に起こる願いは、神の計画と対立するのではなく一致するのだ。それが、イエスが天の父と一つであられたのと同じく、我々が神と一つである状態なのだ。我々の心は、みことばに従うという信仰のフィルターを通ることによって、知らずとも、神の計画に好んでまっしぐらに向かってしまうのである。ただし、すでに受けたと信じなければ実現はしない(マルコ十一・二四、ヘブル十一・六)。またイエスは、「私を信じる者は私の行う業を行い、またそれよりも更に大きな業を行う」と言われたが、を見ると、イエスは、天の父がいつもご自身の願いを聞いてくださることを確信しておられた(ヨハネ十一・四一―四二)。ならば、我々がイエス様と同じように、またさらに大きな業を行うためには、我々も最低でもイエス様と同じ確信を持つ必要がある。つまり、我々のいただいた天のお父様の子という身分は、それほどにとてつもないものなのです。

 今回のアシュラムを通して、これら多くの気づきと確信が与えられ、大変感謝に思っております。

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