月報 2009 9

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主の臨在溢れる修養会(1)ー癒しと預言のみ業に圧倒されー

主の臨在溢れる修養会(1)
 ―癒しと預言のみ業に圧倒され― 
北村 隆志

 今年の修養会は、感動的な素晴らしい修養会でした。講師が天野弘昌牧師先生ということで、春先からワクワクして修養会を待ち望みました。以前から天野牧師先生の事は、若きリバイバルの器として、癒しの器として、大教会の牧師としてよく知っていました。一千人教会をめざす高砂教会にとって、最適の講師だったと思います。

 待望の第4聖会でしたが、異言を発しながら、天野牧師先生の手が私の頭に置かれたとたん、目の前がパッと明るくなり、頭の中の血管が膨張し熱いものが走りました。ドクドクと言う音と共に大量の血が激流となって流れ込みました。私の頭の中で何かが起こっている。今まで経験した事のないすごい癒しが起こっている。長い間よどんでいた血液が勢いよく流し出され、新鮮な血液に入れ替わっていく。ボロボロになった血管が修復され、力が蘇り、再び躍動しだす。このような思いがきました。

  私は癒されました!
  心も解放されました!

 大自然の中で思いっきり手足を広げて主に向かって「ハレルヤ」と大声で叫んでいる自分が居ました。

 今から七年前に脳内出血で倒れて以来、歯を食いしばって耐えに耐えてきた頭痛、腰痛の激痛から解放される。体が思うように動かず、出て行って伝道する事が出来ない焦燥感、悔しさから解放される。

  これから力一杯伝道できる
  主よ感謝します

 天野牧師先生の祈りの声が聞こえてきました。「この兄弟を特別に祝福する。リバイバルの器として大きく用いる。戦略を練り、福音を携えて出て行きなさい」ハレルヤ! 洗礼を受けてから一九年間いつもいつも神様に祈り求めてきた事、そのものズバリを神様の器から明確に宣言されたのです。めちゃくちゃ嬉しいです。

 今、天野牧師先生を通して、ダイナミックに起きている明確な「いやし」を目のあたりにして「確かに神様は生きて働かれ、我々とともにおられる」という確固たる確信を得ました。目の前で、多くの兄弟姉妹がどんどんと癒されていきます。思わず拍手が起こります。涙と共に「良かったね」「主よ感謝します」という声があちらこちらで起こります。 部屋全体が、主にある喜びで、祝福で満たされ、異様な雰囲気で癒されていきます。これこそリバイバルだ・・・ 初代教会で起こった聖霊のダイナミックな働きが、躍動するリバイバルの波となって、我が高砂教会にも起こっている。 そして、草加神召キリスト教会でもこのような「癒し」が日常茶飯事に起こっている。伝道は理屈ではない・・・主が働けば、圧倒的な力強い伝道が進む。聖霊による力強い癒しと、そのしるしによってリバイバルの大きな波が押し寄せてくる。手束牧師先生も「高砂教会に第四次リバイバルの時がきた!」と高らかに宣言されました。私の心には、どんな有名なリバイバリストの言葉よりも、どんなに優れた神学者の言葉よりも、実際に自分の教会で大きなビジョンを持ち、苦しみながら、神のみ声を聞きながら素晴らしいリバイバルを実践している天野牧師先生の言葉がリアルに入ってきました。

 私は今回の修養会で、神様が特別に選んで聖霊を降された高砂教会に、聖霊による不思議としるしによって力強いリバイバルが起こされるのだと確信しました。「再び聖霊を受けよ、聖霊の大いなる力によってダイナミックな伝道を繰り広げよ」と主が私達を励まされています。韓国の民が必死に祈り、特に早天の祈りによって、キリスト教国となっていったように私達も早天祈祷で熱く熱く祈り、この第四次リバイバルを確かなものにしていこうと心に誓いました。韓国の明声教会での早天祈祷会の圧倒的な聖霊の力を目の辺りに体験してきた私です。

  よっしゃ!
  早天祈祷会で祈って祈って祈りまくってやろうじゃないかい!
  高砂教会の兄弟姉妹と共に、
  日本を救う為に、
  愛する日本の国がキリストの福音によっ   て建て直される為に!
  リバイバルは近い!
  主よ、高砂教会を用いてください!

主の臨在溢れる修養会(2)ー早天に行って祈りたいと湧き出る思いー


主の臨在溢れる修養会(2)
 ―早天に行って祈りたいと湧き出る思い― 
増水 結花

 昨年の修養会の後から、神様は私に様々な試練を与えて下さいました。今は、試練でしたと受け取れますが、その時は、落ち込んだり、嘆いたり、とてもじゃないけど私は耐えられないと思うことばかりが続き、「神様がいるのに、どうしてこんな事ばかりが続くのよ!どうして私ばかり!神様なんていないのでは!」とまで思うほどに荒れ狂っていました。その上、修養会の前日になってとても大きなでき事があり、どうすることもできず、やり切れない思いの中に立たされ、考える時間も与えらないまま、当日になってしまいました。もう参加を断ることはできないし、行かなければならない、という状況の中で、もしかすると、行けば何かあるはず、何か変われるものがあるかもしれない、との思いが与えられて、昨年の修養会の楽しかった事を思い出し、無理やりに感情を〝楽しみ〟の方へ持って行きました。そして、今年の修養会に向けての私なりのテーマを作ったのです。「神様と一対一で交わり、しっかり向き合おう」です。神様は決して私を見捨てる方ではない、もう一度ゼロに戻ってここからスタートしよう、と思い直し、行くことにしました。

 修養会では、とても素敵な天野先生のメッセージにより、たくさんの御言葉をいただきました。先生は、「私達クリスチャンは下を見るのではなく、上を見る。そこには、イエス様がいて下さいます」と語ってくださいました。だからこれからは、出来ない事ばかり考えるのでなく、出来る事を想像して、一歩一歩踏み出す勇気を神様からいただけるよう、方向を変えていかなければいけないと思いました。

 しかし、この思いを持った時からが、本当の私の試練の始まりでもあります。現実社会で、この思いを心の底から持ち続ける事は、私にとっては決して簡単なことではありません。実生活の中で一人で行動すること、たとえば、普通の人が何も考えることなく当たり前に息をするということも、私の場合、時によっては、必死に空気を吸って、はいて…と、意識し、確認しながら、しかも、すごい孤独感とすごい恐怖感におそわれ、体中震えながら、息をするということを必死で行っているのです。そんな時に、「私はイエス様に開放していただき、自由の身になり、病気はいやされたのだ!」と言い切ることができるだろうかとの思いがやってきます。でも、先生のメッセージから、こうした現実に目をやるのでなく、〝治った、だから前を向いて進みなさい〟との御言葉を信じることが大事だと教えられ、この私の思いを、少しの希望から、大きな希望へと変えていけるのは、今からだ、と思いました。

 次に与えられたのが、熱き祈りのメッセージで、それは私の心に深く残りました。「神様は、健康といやしと豊かな繁栄を約束してくださっています。しかしそれには人の何倍もの祈りが大切です」と。私は、日常、祈っているつもりでしたが、それはただの〝つもり〟だったのです。以前は早天にあれだけ行っていたのに、修養会の二ヶ月位前からは行かなくなり、祈祷会への参加もまばらになり、家で祈っているつもりで言い訳ばかりして逃げていたのです。あれだけ苦しい中に居たにもかかわらず、いつの間にか〝つもり祈り〟になっていたのです。さらに、健康といやしと豊かな繁栄をいただくためには、心から神様を求め、聖霊様を求め、祈り、パワーをいただくことが必要だと教えられ、それには、やはり早天の祈りだと思わされました。
 そして、いよいよメインイベント、按手の祈りの時がやってきました。私は、昨年とは少し違う気持ちでその場所に居ました。とにかく平安をいただきたい、聖霊様に満たされたいという思いでいました。手束主任牧師先生から按手を受け、「いやされよ」と言われたとたん、力が抜けて横になり、雲の上に浮いているようですごく心地良く、賛美のような異言で祈っていました。ところが、突然涙が出てきて、それも、子供のときにもあんな泣き方をしたことはないぐらいで、異言は、「いやー、助けて!」という叫び声に変わっていました。でも、それは悪霊によるものではないのです。しばらく叫びも涙も止まらず、自分でも、私はどうなっているのだろう、どうなるのだろうと思っていましたが、やがて、自分がものすごい大きな愛に包まれていることに気付いた時、姉妹方が、前や横、そして背中に手を当てて祈っていて下さっていたのです。私は何とも言えない安らぎの中に居ました。この時の幼な子のような泣き方は何を意味するのか、今も神様に問いかけているところです。

 その後、天野先生から病のいやしの按手をいただいたのですが、今度はすぐにパッと目が開き、笑いがこみ上げてきました。何かわからないのですが、今まで悩んでいたことがあほらしくしょうもないことのように思えて、何かがふっ切れたように感じました。

 修養会を終えた今、一番の課題は、学んだことを現実社会の中で活かし、前に進んでいけるかどうかということです。恵みを忘れ、再び不安におちいらないためには、祈りしかないと思うのです。だから必死です。そのためには、私にはやはり早天です。早天に行く意味については、まだつかめているものがないのですが、今私の中に起こされている、一つの新しい始まりであることは確かです。近頃では、悲しいことや苦しいことがあり、不安な気持ちが出てきた時には、すぐに祈りもしますが、とにかく明日の朝早天に行って祈りたい・・・と思うようになってきました。そして、早天では必ず「できるだけ毎日、早天に来れますように!祈祷会にも行けますように!」と祈っています。まだほんの一歩しか踏み出せていませんが、私にとっては、これが、ようやく出せた第一歩なのです。

主の臨在溢れる修養会(3)ー胃言がほとばしってー

主の臨在溢れる修養会(3)
 ―異言がほとばしって― 
滝本 聖子


 私が修養会のことを始めて知ったのは、白血病のため八ヶ月間入院していた三男がやっと退院したばかりのころでした。私は三男の入院と同時に受洗し、その後ずっと付き添いをしていたので、修養会どころか、礼拝にもほとんど行けていない状態でした。

 丁度その頃、祈祷会で「あかし」をする事が決まったのですが、私は祈祷会にも参加したことがなく、「あかし」を聞いたこともなかったので、一度参加することにしました。その日は、たまたま高谷姉が、初めて修養会に参加された時の「あかし」をされる日でした。最後に牧師先生が、「修養会は、一年のハイライトなので参加するように。特に病気の人は行った方がいいですよ。」と言われましたが、修養会の意味も分からず、三男も、まだまだ体調が不安定で、私が三日間も家を空けることは不可能だったので参加することは考えていませんでした。でも、もし私が参加する必要があるなら、環境を整えて無理なく自然な形で修養会へ導いて下さいと祈りました。

 それから何も起こらないまま、何日かが過ぎていきました。やっぱり、今年は無理なのかなと思ってすっかり諦めていたところ、急に三男が修養会に行きたいと言い出しました。それを聞いて、夫もあっさり「家の事は気にしなくていいから行っておいで」と言ってくれました。三日間も慣れない環境で大丈夫だろうかという不安はありましたが、神様が大丈夫だから行きなさいといわれているような気がして、迷わず連絡したところ、締め切りが終わっているにも関わらず、参加することが出来ました。

 こうして修養会に参加できたものの、修養会ではどんなことが起こるのか、また聖霊のバプテスマを受けるという事がどういうことなのか、全く理解していませんでした。しかし、分科会で、牧師先生から、人間は、聖霊のバプテスマにより命の息〔聖霊〕が吹き込まれた時に喜びに満たされて本当の生きた者になる。それが神様の計画であり、願いであるという事を教えていただき、何となくイメージが湧いてきました。そして、それを自分自身で体験したいと強く思うようになりました。

 それまで、天野先生の起こされた、数々の奇跡や、癒しの体験をお聞きし、私よりも三男の方が、聖霊のバプテスマを受ける必要があると感じていました。でも、大人の修養会で子供が聖霊のバプテスマを受けるというのは、難しいのではないかと思い、最初は躊躇していました。しかし、神様は「求めよ。」とおっしゃってくださっているのだからと勇気を出して、三男も一緒に按手の祈りを受けさせて欲しいとお願いをし、受けることが出来ました。

 聖会の後、自分の中で何かが変わった様子は感じられませんでした。しかし私は聖霊様に満たされたことを実感したかったので、異言が与えられるように祈りました。そして、牧師先生に数秒祈って頂くと、すぐに異言が出てきました。とても不思議な感じでしたが、そのことで神様の存在を確信する事が出来ました。

 今振り返ってみると、全てのことが神様の完璧な計画通りに進められていること、人間では出来ない事も、神様に出来ない事はないという事が分かりました。また、三男が病気になった事も、全てがうまくいく為に、神様が計画された事だと信じられるようになりました。

 そして、まだ救われていない長男と次男、また、洗礼は受けているけれど、なかなか神様を受け入れることができず苦しんでいる夫が真に救われることを信じて、神様がご自身の計画によって、最善の時に最善の方向に導いて下さるその時を、焦らず、飽きず、諦めず待ちたいと思います。

主の臨在溢れる修養会(4)ー何と麗しい信仰者の群れなのかー

 主の臨在溢れる修養会(4)
 ―何と麗しい信仰者の群れなのか― 
武蔵野キリスト教会 安富 ふく子


 広い海、青い空、山々と木々の緑、美しい自然の中で、高砂教会の皆様と共に、創造主なる主をほめたたえ、心からの礼拝を捧げられました事は私共にとって最高の喜びでした。

 若き日に救われ、山あり谷ありの信仰生活でしたが、主に守られ沢山の恵みを頂き、又あちこちの教会や集会でご奉仕させて頂き、励まされて参りましたが、この日本で、皆様のようなうるわしい信仰者の群れを見させて頂けたのは大きな驚きでした。高砂教会に使徒の時代の現代版を見せて頂いた様な気が致します。「主も彼らと共に働き」(マルコ十六章二十節)とありますように、皆様の中に生き生きと表されている主のお姿を、この目で見させて頂き、お一人びとりの中に生きて働いておられる素晴らしい主をほめたたえました。講師の先生の力強いメッセージで多くを教えられ、そして美智子先生がお導き下さった分科会の学びで、私の心は大変満たされました。御教会の調和のとれた御指導に深い感動を覚えました。

 日本の多くのクリスチャンが、日本人特有の縛りの中に閉じ込められている事に気付く事も無く、人々への伝道も、半ば諦めの状態であり、多くの教会に閉塞感があると言われている今日、天野先生のメッセージで「教会に人々が押し寄せて来る」という証しをお聞きし、そして高砂教会に、生きて働いておられる主を見せて頂けた事は何という幸いなことでしょう。この事は主人や私だけでなく、これからも多くの日本のクリスチャン達に希望を与えることでしょう。

 修養会の賛美の中にも主のご臨在が豊かにありました。かつて、イエス様のエルサレム入場の時、「ホサナ、ホサナ」と言って大合唱し、その後すぐに裏切ってしまった人々のようにではなく、又今の時代、暗い気持ちを吹き飛ばす為に、自分たちの興奮や、単なる「乗り」で自分を喜ばすような、主の喜ばれない賛美ではなく、高砂の皆様のような主を愛し、涙を流し、心からの賛美を捧げておられ、「何と麗しい賛美でしょうか。主がどんなに喜んでおられるでしょう」と思いました。若い方々のはち切れる賛美にも元気を頂きました。賛美リーダーの先生方は心を備え、本当に主に礼拝を捧げておられ、賛美の合間の一言一言も、主への純粋な思いを表していて、導かれる私たちの心も賛美も、スーッと、天に上って行く感じでした。前で歌っている兄弟姉妹もそれぞれ、信仰をもって、心から主をほめたたえておられる姿が素晴らしかったです。

 時々聞かれる手束先生の厳しいお言葉も、神様と先生に愛されている皆様には、優しいお言葉となり、従順に従っておられる皆様の姿勢を見させて頂き、いつも信徒の皆様を「我が子」を見つめる親のようなまなざしで見守っておられる手束牧師先生の笑顔を拝見し、納得致しました。いろいろな所でそれぞれ自分の成すべき事をなさり、謙遜な姿勢で主に仕えておられる副牧師先生方や婦人達や兄弟達に心打たれ皆様の、主を愛する純粋なお心を主はどんなに喜んでおられるかと思いました。

 最初の日から、帰る日まで、泊まらせて頂いた同室の姉妹たちの優しいふるまいや、教会の和室にまで、細やかな配慮を届けて下さった方々、隅々まで行き届いた犠牲の伴う愛を主人と私は、多くの方々から頂きました。修養会の会場では、落ちている小さなゴミを黙って拾っておられる兄弟を見ました。

 これらの事はみな、ひっそりとなされ、隠れたところを見ておられる主だけがご存知の事でした。へりくだる者に恵みを賜う主が、これらの方々に、必ず豊かに報いて下さる事を信じます。主がお建てになった御教会が、益々主に用いられ、主のご栄光が御教会の上に輝き、日本の多くの教会の良き手本となられ、希望となります事を確信して、これからも共に歩ませて頂ける事を感謝し、陰ながら祈らせて頂きます。心からの感謝をもって。

主の臨在溢れる修養会(5)ー与えられた主からの答えー

主の臨在溢れる修養会(5)
 ―与えられた主からの答え― 
京都グレースバイブルチャーチ 上原 重子


今年、二年間の服飾専門学校での学びを終えるにあたって、私の将来に対する主の御心と聖霊の満たしを求めて、昨年に引き続き二回目の参加をさせていただきました。

 会場に着いたときから主の臨在と恵みに圧倒され、私が普段気をもんでいる様々な心配事が私の心から離れて行き、ただ主だけ見上げることの出来る聖別されたひとときを与えられたことに感謝しました。

 特に四回の聖会を通して、主は私にたくさんのことを示し、また語ってくださいました。主が私をひと時も忘れておられなかったこと。私の歩みに合わせて、最大の配慮を持って、私の信仰の成長を見守ってくださっていたこと。必要なときに、必要なことがらをもって私を導き続けてくださっていること。私のことを私よりも知っておられる主に心のそこから信頼し、全知全能の神様がなしとげて下さるすばらしい御業に、心を注ぎだして期待していくこと。信仰が不可能を可能にし、御心を確信させる鍵であることなどです。

 しかし、主が素晴らしいことを実現されることは分かっていながらも、主の御心を行いたいと言いながらも、その計画が実際に実現していくのを妨げ、遅らせていたのが他ならぬ私の恐れや不信仰であることも示されました。主の御心に、私を預けきることができないでいたのです。主にすべてをゆだねることができれば、私を取り巻くあらゆる事が驚くようなスピードで新しくされ、主の望まれるたくさんの奇跡をみることが出来るのに、そのことが起こるのを限りなく遅くしているのもまた私だったのです。主が自由に働かれようとするその衣の裾を、ちょっと、もう少し待ってくださいといって握って離さず、必死でひき止めようとしている私の姿。主よ、私はどうしたら良いでしょう・・・。

 そのような思いで臨んだ按手の祈りでした。御霊によって引き倒されたあと、意味も分からず溢れてくる涙の中で、主が語られました。「あなたはそうやって将来のこととか、小さいこと、自分にどうにも出来ないことについてたくさん考え、悩んでいるけれど、何も気にしなくていいから、ただ、わたしのことだけ見ていなさい。そのことの方があなたにとって一番大切だ。そんなことより、一日一日、一瞬一瞬を喜び楽しんで、幸せと感謝いっぱい生きることの方が大切じゃないか。わたしとの、深い交わりの方がもっと大切だ。もっとわたしと語らおうじゃないか!そうすれば、すべての事が最善に進んでいくだろう。毎日わたしはあなたに語る。あなたにもっとはっきり、明確に語ろう。あなたは毎日わたしに聞き、わたしは答える。わたしが毎日、あなたを満たす。あなたの中で、ヴィジョンが明確になり、確かなものとなり、それはゆるがされない。私があなたに対して用意している計画について教えよう。あなたは毎日準備をしていくのだ。時にかなって、私があなたを用いるために。突然、わたしのときが来たときに、何の準備もしておらず、何も出来ないものになってはいけない。」

 これが、主の答えでした。このことを聞くために、私はこの修養会に導かれたのだと思いました。自分の行く先が今はっきり分かっていなくても、大丈夫なのです。私には主の御心の全体像が今見えていなくても、主はすべてを知っておられます。毎日主と語らうことによって、その部分が少しずつ明らかになっていくのです。パズルのピースをはめるように、主の御心を毎日一つずつ求めていきたいと、心から思いました。

 この素晴らしい恵みの背後に、牧師先生をはじめ高砂教会の皆様の多くのとりなしの祈りと、たくさんの準備、尊い犠牲、喜んでささげられた奉仕があったことに心から感謝いたします。今後もますます祝福された、聖霊さまの豊かに働かれる修養会になりますことを、祈っております。このように証する機会を与えてくださった、愛する主に心から感謝し、すべての栄光を主にお返しいたします。ハレルヤ!


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