月報 2009 2

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素晴しい高砂聖霊アシュラム(1)ーカリスマ的信仰の広さ長さ高さを体験ー

素晴らしい高砂聖霊アシュラム(1)
  ―カリスマ的信仰の広さ長さ高さ深さを体験―
緑の牧場グレースクリスチャンフェローシップ牧師 股 村 大

 一月九日~十二日まで第十四回高砂聖霊アシュラムに参加する恵みを頂き心より感謝しています。今回この聖霊アシュラムに参加してカリスマ的信仰の奥義について目が開かれ、霊的に信仰的にとても強められ確信を深めることができました。数多くの恵みの中からその一部をお分かちしたいと思います。

 第一は聖霊が御言葉を用いて心を癒す御方であることを体験させていただきました。クリスチャンであれば誰しもディボーションの重要性は知っており多くの方がその実践に取り組んでおられると思います。しかし個人的なディボーションは形式化しやすくマンネリに陥りその継続が難しいというのが実態ではないでしょうか。しかしこの高砂聖霊アシュラムでは御言葉が生きて働き、一人一人が聖霊との深い交わりの中で癒され解放されていくのを見ることができました。特にファミリーの中で一人一人が公にしたくない痛みや傷、過去を明らかにしていく中で、短期間のうちに大きく変容させられていきました。自己開示が癒しへの早道であることはカンセリングの常識であると言ってもよいと思いますが、その実践の難しさは誰もがまた体験しているのではないでしょうか。しかし聖霊の愛と臨在の中で御言葉が個人的問題に見事に適用され、その分かち合いを通して自己開示が自然に実践され、一人一人が「勝手に」癒されていっていました。何という素晴らしい聖霊の働きでしょうか!聖霊に導かれたディボーションとその分かち合い、ここに個人と教会の霊的成長の秘訣があることを教えられました。

 第二に聖書観が深まり聖書解釈への確かな視点が与えられました。アシュラムの中で手束先生がその著書である「キリスト教の第三の波」から講義をしてくださいましたが、特にカリスマ的聖書観及び聖書解釈論を通して大きく目が開かれました。手束先生は聖書とは神の世界、第四次元を私たち人間、第三次元に生きる者に明らかにするための象徴であると語られました。その聖書観を通して私は聖書が歴史的事実であるかどうかはさして重要な問題ではなく、重要なのは聖書を通してそれが指し示す霊的実体に触れること、霊的真理を悟ることであることを強く教えられました。聖書観を巡っては聖書は人間の歴史的所産であり不完全さを含むのだから学問的批判的研究の対象になるというリベラル派と、聖書は一字一句誤りなき神の言葉でありそれを学問的に批判することは神への冒涜であるというファンダメンタル派が激しい対立を繰り返してきました。その中でリベラル派は聖書への敬虔さを失い、信仰そのものを掘り崩してしまい、一方ファンダメンタル派は聖書への敬虔さはあるものの文字に縛られ律法主義化し窮屈な信仰へと変質してきたきらいがありました。これは日本の教会全体の停滞衰退という悲しむべき結果を生み出してきてしまったのです。この行き詰まりへの突破口の一つが霊的世界と力の通路としての象徴的聖書観の確立にあることを教えられました。これを通して教会は霊的力と自由さを回復することができるでしょう。

 最後に聖霊に導かれた礼拝と賛美の感動を味わうことができました。アシュラムの中で特別賛美が捧げられていきましたが、その度に深い感動に魂は揺り動かされ涙が込み上がってきました。また聖日礼拝は神への畏れが満ちたもので身の引き締まるような感動を味わいました。特に聖餐式では生けるキリストがすぐそばにおられるようで、拭けども拭けども感謝と感激の涙をとどめることができませんでした。かって西行法師は伊勢神宮を訪ねた時に「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という有名な歌を詠みました。ここに宗教というものの本質があるように思うのです。二十一世紀、ポストモダンと言われるこの時代は霊性・感性・体験の時代であると言われます。この時代が求めるものこそ霊的なキリスト教、カリスマ的な信仰ではないでしょうか。カリスマ的信仰こそ閉塞感に満ちた日本の教会そして行き詰っている日本そのものへの解答であることを深く確信させられた高砂聖霊アシュラムでした。

素晴しい高砂聖霊アシュラム(2)ー悩まず神様に委ねる体験をしてー

素晴しい高砂聖霊アシュラム(2)
ー悩まず神様に委ねる体験をしてー
伊藤信義

 今回は二回目の参加ですが、前回と違う点は、家長役を仰せ付かって参加したことです。家長役とは、フアミリーという小グループがあり、そこで分かち合う時の進行係です。前回は初めてで、不安と緊張の中で全日程を終えましたが、今回は新たな不安と緊張を抱えて臨むことになりました。家長役を仰せ付かったということで、私には自分の事よりフアミリーの方々の事が真っ先に浮かんでいました。私の不慣れな進め方によって、皆様の貴重な時間を台無しにしてしまっては大変と、そのことで頭の中は一杯になっていました。うまく進められなかったらどうしよう。皆さんが時間をかけて聖書を静聴され、それを発表する貴重な時間をしらけさせてしまったらどうしょう、私のせいで祝福と恵みを逃してしまったらどうしょう等と、「どうしよう病」にかかっていました。どうしてもマイナス思考に陥ってしまう自分がありました。

 私は今回のアシュラムに参加するに当たり、「信仰生活における自分の課題(ニード)」を次の様に掲げていました。「試練や問題が起こった時、私は肉的な思いで自分自身で対応する事を改め、先ず、神様に問いかける(祈る)事を心掛ける」という内容です。しかし、アシュラムの課題に掲げておきながら、肉的に悩んでいる自分の姿がありました。神様に祈り、なぜ神様に委ねないのかと、囁きが聞こえてきました。そうだ、神様に不安を取り除いてもらうべく、まずお祈り(お願い)してみよう。以前、神様にお祈り(お願い)する前に、自分がすべき領域と神様の成される領域があると教わったことがあります。そこで、自分が成すべき領域は何かを考え、出来得る事をやってみようと思いました。そして、事前にアシュラム委員の方から「フアミリーの持ち方」というメモ書きをいただき、何度も読み返し、分かち合いの場面を思い浮かべながら、自分なりにシュミレーションをしてみました。その後で、神様に「この者に勇気と知恵を与えて下さい、この者を守り導いて下さい」とお祈りを致しました。

 プログラムが始まり、実際に家長役を務めながら、当初の不安が和らぎ落ち着いた気持ちで臨めたように思います。フアミリーの分かち合いでの結果の良し悪しは、自分ではよくわかりませんが、課題に掲げた「自分の力で行なおうとするのではなく、神様にお願いし委ねていく」という姿勢に挑戦する機会が与えられ、それを実行出来た事は良かったと思っています。家長役としての二つ目の恵みは、どの家長さんも同じ思いでしょうが、良きフアミリーに恵まれたこと。フアミリーでの分かち合いの時間は一回あたり、平均一時間半あります。私は、前述の様に「どうしよう病」に取り付かれていました。特に、外部から来られた方がしんみりされたら、大変だなとの思いが付きまとっていました。ところが、蓋を開けて見れば、皆さんは積極的に発言してくれました。本当に感謝です。聖書の御言葉を通して、神様から与えられた思い、自分の苦しかった過去、自分の至らなさに気付かされた事等、その時の感想を盛りだくさん発表してくれました。ある姉妹は、御言葉から示された自分の苦しかった事、罪責感を持った事などを、一生懸命に話してくれ、私はその話に引き込まれて、一瞬、家長役を忘れて涙腺がゆるんでいました。又、別の姉妹は、「心の中に辛い事として思っている事を、この様に話す機会が与えられ、話すことによって心が軽くなった。感謝です。」と言われていました。人それぞれに、この一時を恵みの時として捉えておられるのだなと、分かち合いながら熱きものを感じさせられました。又、外部から来られた方も、非常に朗らかな方で、積極的に話して下さり、フアミリーに溶け込んで過して下さった事は、私にとっては大いに助けとなりました。こうして、私は皆さんのご協力のおかげで無事に役目を果たす事が出来、やれやれという安堵感と共に、大きな喜びで満たされていきました。この事は、一参加者として参加した前回とは何か心の持ち方が違っていて、前回では体験し得なかった別の大切なことが得られたような気が致します。

 そして、アシュラム全体としては、「福音の時」の手束主任牧師先生からの直々の学び、聖書を静まって読む「静聴の時」と、「フアミリー」での分かち合いの時間は、それぞれに普段体験出来ない貴重な学び・訓練の一時であり、今回もその事を体験出来たことは幸いでした。

素晴しい高砂聖霊アシュラム(3)ー聖霊の深いお取り扱いー

素晴しい高砂聖霊アシュラム(3)
ー聖霊の深いお取り扱いー
高知クリスチャンセンター牧師 福江義史

 去る、一月九日より十二日までの四日間、高砂教会を会場にして、『第一四回高砂聖霊アシュラム』が開催されました。手束先生のご指名で、小さき者がご用に当たらせて頂き、厚く感謝いたしております。 このアシュラムは私にとっても、忘れられないものとなり、あらためて祈りと御言葉に聴く生活に徹しようと決意させられました。

 昨年一月、大阪の『日本民族総福音化運動協議会』の時、二日目の朝食会場で、手束先生より「アシュラムの指導を」と依頼されました。私は神様の御用を頼まれて、断るという選択を通常はいたしません。しかし、「果たして適任か」と少し躊躇しましたが、快く受けさせて頂きました。

 私は三十一歳で弟に導かれ、クリスチャンとなり、ちょうど一年後、『第四回高知アシュラム』に初めて参加いたしました。そこで、毎日祈り、毎日聖書を読む生活の実践を教えられたのです。『高知アシュラム』の創設者は日本キリスト教団今治教会の榎本保郎牧師でした。しかし、第三回目の高知アシュラムの指導を終えられて一ヶ月後に、ロスアンゼルスに向かう途中、機内で喀血して、意識不明のまま、ロスの病院で天に召されたのです。私がアシュラムを知ったのは、その後のことです。

 榎本先生は、なぜアシュラム運動を起こしたのでしょう。「日本の教会やクリスチャンに力がないのは、祈りの少なさと、聖書を読んでいないことにある」と考えました。そこで、教会と信徒を活性化するには「日々祈り、御言葉に聴く生活」の実践以外にはないと、アシュラムの必要性を痛切に感じて、始められた運動です。実に、信仰の土台は祈りと聖書にあると確信したのです。そこに聖霊が働く時に、神の業が起こるのです。私もまったく「アーメン」と同感して、その後、三十年以上に渡って、大部分は高知アシュラム実行委員長として、この運動と関わって来ました。四十歳になって、親しくさせて頂いていた万代恒雄牧師が神学校を開設するという時に真っ先に入学を申し出たのも四十三歳で、開拓の教会を始めたのも、このアシュラム運動の「祈りと御言葉に聴く生活」の実践があればこそでした。

 今回のアシュラムでも、ほぼ全員の方が聖書を静聴する中から、神様の御声を聞き、自分の信仰の足りなさや、欠点を受け止められました。また聖霊の深いお取り扱いを受けて、大きく変えられました。私も、このような形であらためてアシュラムを学ばせて頂いて、自分の使命がおぼろげながら浮かんできたようです。私も日本のリバイバルを願うのは、皆様と同じです。クリスチャンが熱心な祈りと、御言葉にどこまで従順に従えるかが、聖霊の働く場になるような気がしています。そのためのアシュラム運動の推進にいくらかでもお役に立てればと願うばかりです。

 『高砂聖霊アシュラム』の委員会の皆様、準備から、集会の運営に至るまで、大きなご奉仕に感謝を申し上げます。神様からの豊かな祝福で報われることを祈っています。また、食事の準備や車の送迎のご奉仕をして下さった信徒の皆様、教職の皆様にも厚く感謝申し上げます。アシュラムご参加の皆様には、どうか、日々祈りと御言葉に聴く『レビの時間』を大切にして下さい。

素晴しい高砂聖霊アシュラム(4)ー高砂で何かが得られるー

素晴らしい高砂聖霊アシュラム(4)
  ―高砂で何かが得られる―
フルゴスペル魚沼教会 大森 隆


私は今から十年前に新潟アシュラムと出会い、センター主催の年頭アシュラムにも三回参加した経験があります。アシュラムによって会得できる静聴と祈りの素晴らしさを知ったという事は私の信仰生活には大きな力です。その当時すでに高砂アシュラムのことは耳にしており、栃尾教会の方々に同行してと思ったこともありましたが、実現には至りませんでした。

 昨年秋、民福協の集まりで手束正昭先生から直接声をかけられ、一度は聖霊アシュラムなるものを体験したいと思い、年頭アシュラムをキャンセルして高砂教会への道を選択しました。思えば十年前の栃尾教会前任牧師であられた酒井春雄先生の突然の召天は、私にとって大きな衝撃でした。そればかりか、その告別式の説教において、酒井先生が目指していたのはアシュラム運動とカリスマ運動のドッキングを通して活路を見出そうとしていたのだと語られた手束先生の言葉も忘れる事が出来ません。しかし、その後まもなく栃尾教会員が高砂アシュラムに参加しなくなったことを知り、私もいつしか忘れていたのです。所謂〝榎本アシュラム〟の神髄もまだ究め尽くせない私が云うのは畏れ多いのですが、アシュラムセンターを足がかりにした従来のあり方にマンネリ化を覚えていた私にとっては、高砂で何かが得られると期待したからこそ今回飛び込んで来たという次第です。

 アシュラムの中核である「静聴の時」に聞いた聖書箇所、ヨハネ福音書二章四~五節に記されている四つの奇跡から教えられることは多かったが、そこに共通しているのは「人間には出来ないことでも、主には出来る」と信じる信仰にイエス様が応えて働いて下さったという事実でした。充満の時に福江先生が語られた如く、「聖霊様とあきらめない信仰と祈りによって歩むことだ」と思わされました。次に「福音の時」における「キリスト教の第三の波」の学びは、学問的神学とカリスマ的信仰を結びつけて聖霊様の導きによって書かれたテキストである故に、わが霊の眼が開かれる思いでした。また高砂聖霊アシュラムが目指すものが何であるかをわかり易く説明していただいた。また具体的な示唆もいくつかあたえられました。曰く、「神への服従」が優先された上での「愛と交わり」であること、逆はダメ。神本主義のバロメーターは早天祈祷会への出席である。「聖霊に満たされよ!」これが実現すれば教会は変わる。まったく同感である。アーメン。

 聖霊アシュラムと名付けられているからには当然それなりの理由も、目標も存在する訳で、それがこの私にも、否、誰にでも与えられるのだと信じて、これからも求め続け、探し続け、門を叩き続けたいと念願するばかりです。終末の大リバイバル時代の幕開けが今やすでに始まっており、その完成目指して走るべき時が来ているのだと強く感じます。しかし同時に、自分の無力と勉強不足、霊的欠乏をも痛感します。これが単なる観念やイデオロギーに終わらず、また時や状況によって冷めてしまう一時的な熱情でもなく、静かに魂の深い所で燃え続ける聖霊様の働きであることを信じ、祈りながら前進したい。もっと強い聖霊様の圧倒的な御支配に自分自身を明け渡して、主イエス様の御声に聞き従いつつ、その御臨在にいつも感激しながら歩みたい、いえ走り続けなければと願うばかりです。

 「主イエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか」とのパウロの声をも胸に響かせながら、閉塞感を突き抜け、飛び越えて、さらに前へ、上へと進んで行きたい。雪深い越後の山奥で、小さな開拓教会にあって、日本のリバイバルをこの目で見るその日を待ち望みたいと心から念願しています。聖霊アシュラムで受けた大きな恵みと導きに心から御礼申し上げます。

素晴らしい高砂聖霊アシュラム(5)ー過去の心の傷が癒されてー

素晴らしい高砂聖霊アシュラム(5)
  ―過去の心の傷がいやされて―
伊勢崎キリスト教会  堀井 豊

 今回初めてアシュラムに参加させていただいたことを、心から神さまに感謝しております。アシュラムという言葉さえ聞いたことがなく、聖書をどのように読んだらよいかということを教えてくださるのかな、と期待して出て行きました。幼い頃から教会に通い何度も耳にした事がある聖書の記事なのに、新しく教えられることばかりで、これ程じっくりと時間をかけて聖書を読んだことなどありませんでした。また、与えられた聖書の箇所について、それぞれでわかちあうのも初めてで、聖霊さまの語りかけにじっくりと耳を傾けることができ、とても良かったです。わかちあいのファミリーも、本当に神さまが集めて下さったと思えるファミリーで、自分の抱えている問題にも、聖書の中からはっきりと神さまは答えてくださり、勇気づけてくださいました。

 忙しい生活の中で、まず朝の一番大切な時間を神さまの御前に出て聖書を読み、祈ってから一日をスタートさせることは、自分にとって一番必要なことだと本当に実感しました。問題があったときは朝から晩まで時間さえあれば祈っていたのに、落ち着いてしまうと『神さま一番』の生活が出来なくなってしまう弱くて駄目な自分を変えたいと思っていたので、今は朝の時間を神さまに捧げて聖書を読み、祈ってから一日を始めることが出来るようになり、本当に神さまに感謝でいっぱいです。また、今回一緒に参加した狩野兄弟との会話も、その日に神さまから語られた聖書のみことばのわかちあいが多くなり、朝も電話口で、自分のためではなく、神さまのために働くことが出来るようにと互いに祈りあってから仕事を始められるように変わりました。世間の道徳的な価値観ではなくて、神さまが土台となっている聖書の価値観を共有できることがこれほどすばらしいものであるということを実感し、大きな喜びをいただいて感謝しております。

 そしてこのアシュラムを通して、神さまが私を遣いたいとの思いをもって臨んでくださり、過去の心の傷を癒してくださいました。私は、父が牧師、兄弟も牧師と、クリスチャンファミリーの幸いな環境で生かされていたにもかかわらず、イエス様がどれほど自分を愛してくださっているかに気付いていませんでした。自分のように幼い頃から教会に通い、幼い頃から什一献金をし、自分は良い子だから同じ罪人でもそんなに悪くない罪人だと、どこかでそう思っていました。今思えばなんて傲慢だったものかと恥ずかしくなります。両親に逆らい家を出て、一度は「神さまなんてもういらない。頼れるのは自分だけだ。」と言い、神さまに背中をむけ自分勝手に生きていました。そんな自分勝手で 〝神さまなんていらない〟 と言った自分のために、いつも泣きながら祈っていてくれていた両親や兄弟。それなのに今までの過去を思い出してみると、どうしても自分が赦せなく後悔ばかりが自分を責めていました。でも神さまはこんな私に触れ、自分を責めて傷ついていたこの心を癒してくださいました。今では、苦しみの中を通ったことさえ神さまがしてくださった最善だと、心から感謝できるように変えられました。本当に私のようなものを憐れんで、もう一度神さまの愛をはっきりと受け取らせて下さった神さまに感謝しています。

 私たちの教会のある地域は、閉鎖的で、そこに住む者のほとんどが神社の氏子というようなところです。でも神さまはこの場所に聖霊様が豊かに働かれる教会を建てたいと望んでおられます。今やっとスタートに立った私たちですが、これからしっかりと教会の基礎をつくり、教会を建てていくうえで、今回の聖霊アシュラムの学びがどうしても必要だったと、今確信しています。同じビジョンを共有し熱心に祈りながら進んでいかなくては、と心から思います。自分の思いでは何もしない、神さまの御こころなら何でもする。どんなときでも神さまに従って歩んでいきたいです。本当に神さまが私たちを招いてくださったことを心から感謝し、温かく迎えてくださった手束先生はじめ高砂教会の皆様のために、これからも祈らせていただきたいと思います。


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