月報 2010 6月

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ベテル聖研の学びを終えて、今(1)―確信をもって掴んだ「祝福の基となる」こと―

ベテル聖研の学びを終えて、今(1) 
  ―確信をもって掴んだ
    「祝福の基となる」こと
川 田 章 子

「キリストの弟子訓練」。一番初めに黒板に書かれたこの言葉に、それまでの想像と期待を大きく外され、正直少し引いてしまいました。牧師先生の聖日メッセージに毎週感動し、説教集を読んでは心を打たれていた私は、その尊敬する牧師先生から直に学びを受ける事が出来るべテルとは、何とすごい恵み、特権だろうか、早く受けたい!と、ハーベスト受講中から憧れの思いで待ちわびていました。それまで、伝道への思いが全くなかった訳ではありませんが、とても消極的なもので、自分にはとても出来ない分野のことだ、とすら感じていました。なので、この学びが「キリストの弟子訓練」と言われ、「えっ?」という反応でした。しかし同時に「人生の星の時間」であるとも言われ、クリスチャンとして、人間として、より高みへと成長していく為の訓練の場だ、と期待に胸ふくらませていました。そして、この二年間はそんな私の小さな期待をはるかに上回るもので、それまでの私になかった多くの、しかも大切なものを得る場となりました。自分とは何なのか、何の為に、何をする為にここにいるのか?そんな漠然とした思いを抱えてのスタートでした。
 しかし、楽しみにしていた学びについて迷いもありました。二歳になったばかりの子供達のことでした。二人の子供を連れて、十時からの講義に遅れず毎週通い続けることが出来るだろうか・・・。自分の子供の為だけにわざわざナースリーを立ててもらわないといけない、もう二年待てば幼稚園に行くようにもなる、今回は見送った方がいいのだろうか・・・。そんなもやもやした思いが頭をよぎっていました。しかし、前回受講者の姉妹に励まされ、主の導きを信じて受講を決意しました。
 そしてこの貴重な二年の内で私が確信をもって掴んだものは、「祝福の基となる」ことでした。このことが日々の祈りの中に自然に溶け込んでいき、祝福の基となろうとしている自分自身を本当に喜び、感謝しました。まず家族への伝道の思いが与えられ、それまで全く思いの及ばなかった所にも救いの願望が起こされ、自分が置かれた環境の中に、神様が私という祝福の入口を開いて下さったことを心から感謝しました。私の家族は救われる!私という基が据えられたのだから。そんな希望を頂きました。また、旧約をじっくり学んでいく中でも多くの気付きを頂きました。祝福の基となる使命を負ったアブラハムとその子孫達。使命を全うするための彼らの歩みに、自分にも同じ使命が課せられていることを重ね合わせて学んでいきました。今の私達も、旧約のイスラエルの時代も同じなんだ、神様の祝福の契約は何も変わっていないのだ、ということを思いました。そして、キリストの十字架の贖いのなかった時代を学ぶことで、今私達に与えられている贖いの偉大さ、尊さを深く思い知ることが出来ました。
 学んでいくうちに伝道への思いがどんどん強められ、神様から求道者との出会いをプレゼントして頂きました。この出会いの中に、神の御手、聖霊の働きをしっかり実感する事が出来、聖霊はいつもあらゆる所におられ、神の御心を実現させる為に私達を用いようとしておられること、祝福を流し出す管になるとはこういう事なのだ、と思わされました。受けた恵み、祝福は私個人のものではない事を知らされ、今主が背中を押して「さあ、出て行きなさい。あなたの受けたものを伝えてきなさい」と語られているのを感じます。アブラハムの受けた祝福の基としてのアイデンティティを、神様はこの私にも、べテルの学びを通して継がせて下さいました。二年前分からなかった事について、何も掴んでいなかった私の手に、これが私の存在する意味だ、これが私の使命だ、とはっきり掴ませて下さいました。愛する家族、友人、知人、またこれから出会っていく多くの人々。学びの目的である「キリストの弟子」となって、主の願われる魂の所へ、主に用いられ易い器となって遣わされていきたいと願っています。祝福の基となる為に、私は祝福されたのだという事を握り、神の恵みの溢れ流れる管となっていこうと決意が与えられました。
 ご多忙の中、二年もの期間尊い学びを取り次いで下さり、大切に育てて下さった牧師先生と神様の深い恩寵の愛に心から感謝すると共に、陰でこの歩みを支えて下さった多くの姉妹方、先生方の暖かいご配慮と貴いご奉仕に、主が豊かに報いて下さることを期待してお祈り致します。


ベテル聖研の学びを終えて、今(2)―人生の星の時間を過ごして―

ベテル聖研の学びを終えて、今(2)  
  ―人生の星の時間を過ごして―
山 本 尚 未

 二年前の五月、第一回目のベテルの日を胸をドキドキさせながら迎えたことを昨日のことのように思い出します。手束牧師先生の「この二年間は、あなたにとって人生の星の時間となるでしょう。だからいつも聖書を読み、常に祈ることが必要です」という言葉が印象的で、振り返ってみると本当にその通り、常に御言葉を必要とし、また祈りを通して神様はいろんなことを教えて下さったと思います。
 神様はいろんなことを体験させて下さいました。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいこと…、すべての経験に無価値なものはひとつとしてありません。ただ単に目に見える出来事としてではなく、そのことを通して〝自分〟という存在に向き合い、現状に左右されずに『神様を信頼して歩む』ということを幾度となく学びました。その度ごとに、自分がどれほど力のない弱い者で信仰の薄い者であったのかと反省し、悔い改めへと導かれ、そんな私のためにイエス様がいて下さるのだ!と再確認して感謝する日々でした。
 ベテルを受ける前の私は、信仰においてとても受身的でした。「どうしよう」が口癖で、教会にいてもどこかお客様のような感覚でした。礼拝の(手束牧師先生の)説教も難しくて理解出来ないことがいっぱいで、聖書のお話も表面的にしか頭に入っていませんでした。「きっとこれはもっとすごい人達に語られていることだろうから、私には分からないし、関係ないのかも…」そんな風に考えていたように思います。
 けれども、ベテルの授業で牧師先生からひとつひとつ丁寧に聖書の歴史的背景や、そのところに働いておられる神様の意図を学び、また一緒に学んでいる兄姉たちと分かち合うなかで、聖書は時を越えて今を生きている私たちにも語られている言葉なんだ!と理解出来るようになり、だんだんと礼拝で説教を聞けるのがとても楽しくなりました。また、自分の無意識の中にあった過去の傷にも向き合い、イエス様によって完全に癒される体験もし、どんどんと自分の内側が変えられていくような感覚を味わいました。
 「イエス様の命がけの愛が、ここまで私を導いて下さっている…。その愛に応えたい!こんな私だけど、私にも何か出来ることがあるのではないだろうか?」そんな思いが湧き起こってくるのを感じ、また、手束牧師先生の言われる『イエス様の弟子』として歩むこと、そのためのビジョンが神様から私にも与えられていることに気付かされました。それだけでなく、神様は弟子としての信仰をしっかりと持つためにたくさんのチャレンジも与えて下さいました。自分の思いと現状との狭間で涙を流したこともあります。大きく砕かれる経験を通して神様に自分の素直な感情をぶつけ、何度も何度も信仰によって建て直され、痛みをも成長の糧に換えその度ごとに自分に与えられているビジョンが少しずつ明確にされていく…そんな体験もありました。
 ベテルの学びを終えた今、この二年間は私にとって本当に素晴らしい、神様の恵みが凝縮された時間だと言えます。ちょっと大げさかもしれないけれど(笑)、この二年がなかったらきっと今の自分はここに居ないだろうし、神様が与えて下さっているビジョンにも気付かないままだったと思います。なによりもこの時を与えて下さった神様に感謝します。そして今、高砂教会では若者たちの伝道が始まっています。これからを担う者として神様が私の名を呼んで下さり、そのメンバーに加えられていることにも本当に感謝です。これからもビジョンをしっかりと握り、高砂教会の一千人教会達成、そして日本のリバイバルのために働く者・用いられる者として、たくさんの大切な仲間たちと一緒にいつもイエス様を見上げて歩んでいきたいです。

ベテル聖研の学びを終えて、今(3)―悪戦苦闘がやがて快感に―

ベテル聖研の学びを終えて、今(3)
  ― 悪戦苦闘がやがて快感に ―

西村麻里

 べテルの学びが一体どのようなものなのか、これからの二年間が果たしてどうなっていくのか、そして学び終えた自分に変化があるのか・・・深く考えもせず、ただ断ることの苦手な私は、声を掛けて頂いたことに感謝して受講を決定しました。オリエンテーションにおいて、「べテル聖書研究はイエスキリストの弟子になるための学びと訓練である」と聞き、自分にはとんでもないことで恐れ多い!と、正直にそう思いました。しかし容赦なく木曜日はやって来ます。証しの準備にテスト勉強、罰金の支払いなど、とてつもなく悪戦苦闘しましたが、グズグズ言っている暇さえなくて。それでも、この訓練は不思議なもので、慣れてくると悪戦苦闘することが快感となってきたのです。テキストに載っていることだけを学ぶのではなく、現代社会に置き換えてもっと深く語ってくださる牧師先生。時には熱心のあまり懐メロを大熱唱してくださったりしながら、和やかな雰囲気の中進められて行きました。
 まず私が目を開かされた思いがしたのは、天地創造をされ人間を創られた神様には意図があったということを教えて頂いた時でした。「神との調和」、「自己との調和」、「隣人との調和」、「自然との調和」、神様は、初めからこれらと調和するように私達人間を創られていたとは・・・神様のこの思いを知って生きるのと、知らずに生きるのとでは大きな差が生じてきます。調和するために創られたのですから、私達はこのことを握って生きていかなくてはなりません。
 そしてもう一つ大切だと感じたことは、私達がこの世の中で生きていくなかで、分離・聖別される時が必要であるということです。祝福の基となっていくためにまず私達は神様へと分離される。しかし分離される時というのは、いずれこの地に遣わされるための分離であります。分離されてしっかりとした信仰を確立して祝福の基として遣わされていくということ。早天祈祷から一日が始まる、あるいは日曜の礼拝から一週間が始まる、というサイクルの繰り返しもそうです。そして何と、べテルの二年間も聖別のためだったのです。共に学んだクラスメイトも回を重ねる毎に変えられていきました。毎回のお祈りや分かち合いの中で、伝道したいという思いを表すようになりました。家族や友達に神様のことを伝えたいと、頂いた祝福を流しだす使命を皆が感じていたのです。私はその姿を見て感動しました。
 祝福の基としてくださっていると知った今、私の人生は私一人のものではなく、神様のものでもあります。与えられた環境の中で絶えず伝道を心掛け、澱むことがないように、外へ目を向けていたいと思っています。学び終えたばかりで熱く燃え尽きてしまうことなく、この思いを抱き続けていくクリスチャンでありたい。フィニッシングウェルを目指して歩ませて頂きたいと思っています。
 最後に、五月から新しいメンバーで学びが始めておられますが、その兄姉の健康と心と環境が主によって守られ、祝福の二年間となりますようにお祈りします。そして、このような私を(年の功で)リーダーとして支えてくださったクラスメイトさん、くじけそうになった時暖かく励ましてくれた夫や娘達、ありがとうございました。そして、この素晴らしい学びを通して私達の霊性を育ててくださった牧師先生に心から感謝します。

ベテル聖研の学びを終えて、今(4)―牧師先生のイメージが変わった―

ベテル聖研の学びを終えて、今(4)
 ―牧師先生のイメージが変わった―

奥野所小百合

 学びが始まる二年前、私は何も分からないまま、当時セルメンバーである姉妹が受けるから一緒に…との流れに乗ってハーベストを受け、そしてその次はベテルに…というような軽い気持ちで受講を決めました。神様のことや、聖書のことをもっと詳しく知ることができたらいいなと思っていたからです。そんな風に考えていた私に、第一回目の講義で牧師先生は、「ベテルの目的は、イエス様の弟子になることです」と言われました。正直、その言葉を聞いた時、私の心は揺れました。そんなことが私につとまるのだろうか。すごい学びを受けることにしてしまったんじゃないか…と思わされました。また牧師先生は、「これからの二年間は、人生の星の時間です」とも言われました。私が造り変えられていくための二年間…自分では何も分からないけど、それでも、なんだか二年後の自分がどうなっているのかと期待しつつ、毎週の学びが始まりました。
 この二年間、本当に幅広く多くのことを学ばせてもらいました。その中でも私にとっての一番の恵みは、牧師先生のイメージが自分の中で変わったことでした。実はベテルを学ぶ前は、牧師先生は厳しいことも言われるし、聖壇からメッセージを語られる姿からも、遠い存在で厳しく怖いというイメージがありました。でも二年間毎週毎に学びを頂く中で、どうして牧師先生は厳しいことを言われるのか、その背景を学ばせてもらって、私達のために敢えて言ってくださっていることを改めて思わされました。人それぞれに問題はありますが、一番早く神様から祝福されるその方法を伝えてくださっていることを思わされ、感謝でした。私にとっての一番の恵みは、このことです。
 他に印象深く残っていることは、日本人全体が今握っている民族意識の低さということです。今の日本は、多くの人が迷いながら生きていると思います。何が正しいことなのか分からなくて、悩んでいる人は大勢いると思います。間違って植え付けられた日本人としてのセルフイメージを高め、日本としての誇りを取り戻すためにも、「日本民族総福音化」の必要性を感じています。自分自身もマイナスイメージを持ちやすい者ですが、正しい神様のフィルターを通して、自分の価値を日々焼き直しながら、二年間繰り返し教わった「祝福の基として」、周りの人たちに、愛をもって接していきたいと思います。
 また自分自身の小さなことですが、苦手な部分を訓練されたと思います。これまで人前で話をするのが苦手だったのですが、証しや、学びの後の分かち合いなど、少しできるようなってきたかなと思います。昼クラスは、人数が少なくて証しも数多くさせてもらいましたが、それも恵みでした。証しを用意する中で、恵みに気付かせてもらうことができ感謝でした。そういうことでもなければ何もなく通り過ぎてしまうところで、立ち止まり、確認させてもらいました。また一緒に学ばせてもらった二人の姉妹も、神様が与えてくださったと感謝しています。姉妹方を通して、気づきが与えられ、励ましを頂きました。
 この二年間、本当にお忙しい中にあって、学びを取り次いでくださった牧師先生、そして環境、体調を守り支えて最後まで導いてくださった神様に感謝します。

ベテル聖研の学びを終えて、今(5)―質の高いクリスチャンとなってきた―

ベテル聖研の学びを終えて、今(5)
 ―質の高いクリスチャンとなってきた―

田辺さとこ

 「ベテルとは、祝福の基となるための訓練の時間である」と、ベテル聖研初日に手束主任牧師先生から語られた言葉。当時の私にとって、この言葉はとても衝撃的でした。そしてその言葉を胸に、私の二年間が始まりました。しかし、いざ始まってみると、自分自身のキリスト教に対する知識はもちろんのこと、手束主任牧師先生が語って下さる日本の歴史、世界情勢についてすらついていくことができず、『私が学びを受けるにはまだ早かったのかな・・・』と思ったこともありましたが、そんな私に、神様は『分からないことに思い煩うことはない、得る恵みの多くに目を向けなさい』と、語って下さいました。また手束主任牧師先生は、『ベテルの学びを受けるにあたって、①祈ること ②聖書を読むこと ③礼拝を守ること。この三つは必ず続けなさい』と言われました。これを聞いて、神様が私に語りかけてくださったのも、これまで私がこの三つを忠実に守ってきたからだ、やはりこの学びは神様から与えられたものなんだと確信し、それからというもの、『私と神様の時間』として学びとることができるようになりました。そして、学びを重ねる内に、私がクリスチャンであることの意味、役割、使命というものに心動かされ、高砂教会に属するクリスチャンとして、手束主任牧師先生が掲げておられる「一千人教会」という大きなビジョンが自分にも課せられているんだと、これまでの受身のクリスチャンから神様の恵みを流し出すクリスチャンへと変わりたい!と、強く思うようになり、祈りと共に、伝道へと行動をうつすことにも挑戦しました。 
 ベテル聖研の学びの中で、手束主任牧師先生からの教えはもちろんのこと、共に学んだ兄弟姉妹からも多くの刺激を受け、良き交わりを持ち、祈り合えたことを心から感謝しています。
 この二年間、祝福・恵みと同時に、悩み・試練の場にも向き合わされました。しかし、ベテルの学びの中で、私は確信をいただきました。『人の愛に求めるのではなく、神様の愛を心から求めた時に、目の前の問題のもっと深いところに神様の癒しの御手があり、苦しみ・悲しみも、勝利をより輝かせるための手段でしかない』ということ。そして、目の前の肉的な現実に目を向けるのではなく、霊の心で判断し、キリストの弟子として、神様に喜ばれる生き方をすることによって、この経験が生きた証として用いられる時が来ると。
 全てが益となった今、『自分の置かれた場所で神のために精一杯生きる』というこのベテルで学びとった恵みを、自らの行動を通して勝ち得たことは私自身の強みにもなりました。
 あっという間の二年間で、まだまだ学び足りないことも山ほどあります。もちろん、『祝福の基』としての器には程遠い者ですが、今の私にできること、今の私にしかできないことを『神様の為に』捧げていきたいと心から思うようになりました。そして、その先に『祝福の基』となる私がいる。神様の視線はその『祝福の基』となる私に向けられているのだから、これからも自己と向き合い・神と向き合い・み言葉と向き合って、より質の高いクリスチャンとなっていくことを宣言します。

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