月報 2010 7月

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執事の務めを拝命して(1)ー聖なるものに、相応しく変えれたいー

執事の務めを拝命して(1)  
  ―聖なるものに、
      相応しく変えられたい―
四 宮 忠 明

 「キリストは一つのささげ物によって、きよめられた者たちを、永遠に全うされたのである。」(ヘブル人への手紙一〇章一四節)。この文章には二つの時制が存在しているようです。一つは「永遠に全うされた」というその時点での完了の時制であり、もう一つは「きよめられた者たち」で、その時点から後の人も含めた未来という時制です。
 「ひとりの兵卒が、やりでイエスの脇を突きさすと、すぐ血と水が流れ出た。」(ヨハネの福音書一九章三四節) 旧約聖書の時代においては、血を注ぎ出さなければ罪の許しは得られなかったようですが、イエス様の犠牲のあとには、もう血の生け贄をささげる制度はなくなっています。「やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ、聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされた」(ヘブル人への手紙九章一二節)からです。かくて私たちは聖なるものとしての地位を与えられたことになります。ところでイエス様の血が私達を永遠にきよめられた者にしてくださる御業であるならば、やりの傷から出てきたもう一つの「水」は何を意味するのでしょうか。
 水についてはサマリヤの女のところで「わたしが与える水を飲む者はいつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわきあがるであろう。」(ヨハネの福音書四章一四節)と書かれています。私達の心の中に泉、すなわち神の御霊を授けてくださるというのです。「水」は未来に向けて私達がきよめられた者に相応しくされるために、私達のうちにあって働いておられる主の御霊なのだということです。二つの時制はこのことを表していると理解しました。
 私はこれまで、イエス様の血だけを受け入れ、水の方を余り望んでいなかったような気がしています。救われることだけを求め、変えられたいとは思っていなかった。受洗して四年が経過しましたが、殆ど聖書を読むことなく過ごしてきました。たまに感話をするにあたって俄に聖書を読むというていたらくでした。今回、先生から執事に指名しますと告げられたときにはほんとに驚きました。思わず「私に務まるのでしょうか?」と口に出していました。「出来ます」の一言で決まってしまいました。暫くは心の葛藤が続きました。そして何気なく開いた聖書の箇所が、冒頭に書いたヘブル人への手紙十章一四節でした。最初は読んでもよく分かりませんでしたが、前後左右あっちこっち見て、少ない知識で理解したのがこの内容でした。聖なるものに相応しく変えられることが必要なのだということでした。
 そして七月十一日に初仕事として、交換講壇で説教される手束牧師先生に随行して相生教会を訪問しました。私と同年代かそれ以上の兄弟姉妹が殆どであることに驚きました。先生から他の教会はもっと高齢化が進んでいることを聞かされ、日本民族総福音化運動の重要性を再認識する思いでした。説教は「汝が心、神に向けよ」というタイトルで、聖句はヤコブ第五章第一三節「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るが良い。喜んでいる者があるか。その人は讃美するがよい。」要旨は「苦しみというものは避けられないものである。その直面する問題に目を奪われるのではなく、神に目を向けなさい。苦しみは、あなたが大きくなるチャンスである。神に目を向けることによって、成長と成熟と変革が起こる。クリスチャンの特権は、祈ることと讃美すること。ここに全てがある。」ということであったと思います。私自身に成長と成熟と変革が起こるためのチャンスとして、まだまだ十年早いと思われる仕事が与えられたと思いました。私如きが、執事として、たとえ剛毛でも神の栄光を表すことができたら幸いなことです。そのために一歩ずつではありますが努力したいと思います。祈りと賛美によって・・・

執事の務めを拝命して(2)ー神の国の証人となっていきたいー

執事の務めを拝命して(2)  
  ―神の国の証人となっていきたい―
田 辺 省 滋

 私が単身赴任先の奈良から戻って早十ヶ月が過ぎようとしております。時の過ぎる速さを感じます。信仰生活において、最近特に感じることは、聖歌隊での賛美が本当に楽しくなり充実してきたことです。この賛美には、繰り返すことによって、人生を変えるくらいの力があると特に感じます。もともと賛美によって救いにあずかり、そのことには多くの感謝をしている私です。特に、今回韓国から来られたエターナルサーム(永遠の賛美団)の特別賛美礼拝に列席し、その賛美に人の心を癒す力を感じ、心が熱くなり感動を覚えました。このような、人の心を癒すため、またキリストを伝えるために世界各国を回るその奉仕の心に素晴らしいものを感じます。高砂教会の聖歌隊もそのようでありたいと思わされます。聴く者の心が癒されるために、また自分自身が癒されるために、賛美の奉仕にあずかりたいと思うものです。自分が救われたあの時、神をも信仰をも求めなかった者が賛美の力によって心変えられたことを、自分が賛美することによって伝えていきたいと思います。
 洗礼を受けて二十年以上が経過した今、まだまだ伝道の力が乏しい私ではありますが、最近特に高砂教会のあり方、また手束牧師先生の本当の姿、全体像が見えてきたように思われます。愛国心の強さと福音への思いは、他の牧師達者を大きく引き離していると思います。「国のためまた人々のためにクリスチャンとしてできることは、祈ることである」と宣言されたその思いには、心に響くものがあります。そのことが、韓国において成功してきた早天礼拝に、この日本においても多くの兄弟姉妹を導こうとする思いへとつながっていると思われます。私も何とか今年の初めの頃から早天礼拝に参加できるようなり、それが今は自分を変えていく力になっているように思います。できれば今後体の続く限り続けていき、自分の朝一番にすることは主との交わりにあることが、体の一部となっていくようになりたいと思います。その結果が必ずや自分の中に神様の栄光として現れてくると思います。この早天の祈りが高砂教会の大きな神様の恵みの証しとなるように願っています。
 今、高砂教会の中にあって多くの兄姉が大きな病の中で闘っておられます。苦しい中、尚神様を信じいやしを信じて祈る兄姉に、たとえわずかでも自分自身が兄姉のいやしのために祈らなければならないと思います。またこの日本の世の中において特に気になるのが自殺者の多さです。ここ何年も、年間に三万人を超える人が自らの命を絶っている状況です。この数字は一日にして百名近い人が自殺によって命を絶っていることになります。しかし特別な死に方をしなければ新聞にも載らない。悲しい限りです。仕事を失い、家族を失い、孤独になってその様な結果になるのか、どれほどの悲しみがそこにあるのか、そのことを考える時、クリスチャンとして何とかそれらの人が本当に救われるように、また生きる力を得るようにと祈ることが必要であると思います。若者が安心して暮らせる、また努力が報われる国になるように心して毎日祈っていきたいと思います。
 最後にですが、今年度の高砂教会の執事に任命していただいたことに恐れ多く感じるとともに、神の国の証人となっていきたく、日々の祈りを欠かさず、また伝道していくものでありたいと思う次第です。





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