About The Death -クリスチャンの死生観-

クリスチャンの死生観について、日本キリスト教団高砂教会の手束主任牧師が永眠者記念礼拝で
語ったメッセージを6回シリーズでお届けします。
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手束牧師の「死」にまつわる説教 第5回
 5.人生は道場である
【聖書テキスト】

 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。
いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。
しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
(ヘブル人への手紙 12章5~11節)


 【メッセージ】

 私達の教会(日本キリスト教団の教会は通常そうであるが)では、十一月の第一週の聖日は「永眠者記念礼拝」として守っている。これは第一に帰天された方々の名を覚え記念するという意味合いがある。しかしそれは、所謂一般的に行われている先祖供養とは全く異にするものである。
先祖供養というものは、先祖の霊を崇め慰めるという意味をもつのであるが、しかし、私達の行う礼拝は、信仰の先達を私達の倣うべき先輩として深く覚え、記念し、主にあっては決して忘れられることがないということを確認していくものである。
 人間は、たとえ死んだとしても人間に変わりはなく、決して神にはならないし、仏にはならない。
従って、彼らを崇むべき礼拝の対象にすることは偶像礼拝をするということになるのであって、真実の父なる神が十戒で戒めた最も重い罪となる程の事柄であるといってもよい。それ故に、私達は気を付けなければならない。先祖を礼拝の対象にするのではなく、先祖を思い起こし、記念し、感謝をする姿勢をもって、この永眠者記念礼拝は捧げられていくべきなのである。

人間とは死すべき存在

 この記念礼拝がもつ二つ目の意味は、人間とは必ず死すべき存在であることを深く思い知る時としてあるということである。私達は日常生活の中で、ともすればこの死というものは忘れがちになる。
否、意識から遠ざけたい、忘れたいと思う事柄であるが、しかし、目をそむけず、死を意識することがとても重要である。かつてドイツの哲学者マルチン・ハイデッカーは、こう定義した。「人間は死に向かう存在である」と。つまりハイデッカーは、人間というのは死というものを意識することによってこそ本当の真実な生き方が可能になるのだと主張しているのである。確かに、死ぬとはどういうことかということを知ることによって、生きるとはどういうことなのかがはっきり見えてくるということは真実である。
かくて私達はこの永眠者記念礼拝を捧げる中で、毎回死というものに直正面から対峙することになる。
そして死を意識することによって、更によりよい生き方ができるようになるのである。
 ここに一つの有名な童話がある。ある国の王が人間の歴史を知りたいと願った。そこで国中の学者達を集めて人間の歴史についての書物を編纂するように命じた。何十年かかかって、何十冊もの書物がそれぞれの学者から届けられた。しかし王は言う。「こんなに沢山の書物を読む時間はない。
もっと短くまとめてきなさい」。そこで学者達は再び何年間かかかって十冊の書物にまとめた。
しかしその時、王は既に年老いており、「自分には十冊も本を読むことは難しい。もっと短くしなさい」と言った。そしてその一年後、一冊の書物にまとめて学者が持っていったところ、王は臨終間際であり床に伏していた。王は言った。「私は死にかかっている。人間の歴史を一言で私に今教えてほしい」。
すると学者はこう答えた。「人間は生まれ、苦しみ、そして死ぬ」と。
 これは有名な童話である。以前この童話を子ども達に聞かせたことがある。人間というものは、生まれ、苦しみ、死ぬものなのだ。けれどもイエス様にあって希望がある……と語ろうとしたのである。
ところが、思いがけず子ども達は猛反発してきた。「人生に楽しいことはないのか、嬉しいことはないのか、そんなはずはない。絶対あるはずだ」と彼等は主張し、抗議をしてきたのであった。
 確かにこの童話は極めて虚無的であり、また厭世的だと言えよう。しかし、方向を変えて読み味わってみるならば、そこには深遠な真理というものが隠されていると気付く。
むしろ人間の本質に迫る物語であるとも解釈できる。つまり、信仰的観点からみるならば、実は人間とは、〝生まれ、苦しみ、そして死ぬ〟という、この端的な定義の中に極めて積極的で前向き、且つ重要な意味合いを見い出すことができるのである。

臨死体験で知ったこと
 聖心女子大学教授の鈴木秀子氏の代表的な書物に「死にゆく者からの言葉」という感動的な一冊がある。人間の死の厳粛さ、死に向かう人間の荘厳さが見事に著されており、深く心を打たれる書物である。これは、鳴り物入りで宣伝され、駆り立てられるようにして人々が買っていくという多くのベストセラーの書物がある中で、むしろひっそりと静かに人から人へと言い伝えられてベストセラーとなっていったという異色の書物である。
鈴木氏がこの書物を書いた動機とは、実は彼女自身が臨死体験をしたことにあるという。一度死を体験したのである。奈良のカトリック教会に宿泊した折に、階段から落下、五時間もの間意識不明になった。その時、彼女は死後の世界を見たのであった。人は臨終の瞬間、幽体離脱という現象が起こるようである。つまり、霊だけがその人の体から抜け出ていき、自分の死体を自分で見ている、あるいはそこに集まってきた人達を自分が見ている状態になるという。そして、それらを見ながら天空へかけ上がっていくような感覚となり、そこには、それ迄体験したこともないような自由と解放感があるというのである。鈴木氏も正にそのような体験をして天にかけ上がっていった時に、光の生命体、即ち圧倒的な神様の臨在が彼女を包み、深い幸福感におおわれた。そしてそのところにいつまでも留まっていたいと願う程であったという。しかしその時、日本語で声が聞こえてきた。
それは地上で彼女の為に執り成し祈っている声、「主よ、彼女を癒して下さい。この人を癒して下さい」という、カトリックの修道女達の祈る声が聞こえてきたのであった。その時、その光の生命体は彼女に向かってこう命令した。「あなたはもう一度あなたの世界に帰りなさい」。そして、続けて光の生命体はこのように語った。「覚えておきなさい。最も大切なことは、『愛すること』と『知ること』なのです」と。
 人生にとって愛することと知ることが最も重要だというのである。どうしてなのか。〝愛すること〟とは「アガペー」、即ち命を削る愛、相手に要求しない愛、日本語で訳すなら、「慈愛」という言葉が最も適切だと思われるが、その愛を真実に知らねばならない。そしてもう一つは〝知ること〟を知らなければならないという。即ち、知るとは、人間の叡智に関わることである。人生を生きていく上で、この叡智は重要なことである。この二つこそが私達人間がこの世に生存している間に覚えなければならない大切なことだと、神は彼女に語ったのである。愛は解るだろう。しかし、叡智を知ることは一体どういうことなのか理解し難い。一体何を知ることなのであろうか。

この世は仮の宿
 それは、まず第一に人間の生命というものはこの世だけで終わるものではない、この世で全てだというものではない。そうではなくて、あの世があり、そして永遠の命に連なっているということを知ることである。第二には、この世の生というものは、あの世の生の為の準備期間としてあるのだということを知ることである。いうならば、この世は仮の宿であって、私達の行くべき故郷は、死んで後の世界の中にあるのだということである。私達には、この世で受ける様々な苦しみ、悩みは、あの世に向けての私達のレッスン、つまり訓練なのだということを知ることである。この真理を自分のものとして真実に知ったならば、私達はその人生において全く怖いものはない。これらの二つの事柄を私達は生きていく上でしっかりと掴み取るならば、生きることにおいて、いかに大きな希望と勇気がわき起こってくることか。もしそれを掴むことができたならば、今すぐにも人生が終わってしまってもよいと思う程である。
 今日の医学の世界にあっても、「死の医学」という分野に光が当てられるようになってきた。
つまり、徒らな延命治療よりも、死に向かっての備えをしていくことの方が重要なのではないかということが、医学界の中でも語られるようになってきたのである。その先鞭をつけたのが、キュブラーロスという女流心理学者であった。彼女は、数千人もの死にゆく人々と対話をしていった。
末期の癌患者等、様々な病気で余命幾ばくもない人々と対話をし、インタビューを試みていったというのである。そしてその結果を「死ぬ瞬間」と題して一冊の書物にまとめあげ、それは世界的なベストセラーにまでなった。彼女は言う。人間は死に至るまでに五つの段階を通っていく。
第一は否認である。自分は死ぬはずはないと、嘘だと。第二は怒りの激発である。
なぜ自分は死ななければならないのかと。第三は取り引きの試みである。
「神様、私はこのことは諦めますから、何とか死ぬことだけは勘弁してください」と。
第四は悲嘆に沈み込む。そしてその後、第五に、死を受け入れ、平安が与えられていく。
このように五つの段階を通って、遂にこの世を去っていくというのである。

人生という道場

 キュブラーロスは、この五つの段階は単に「死の臨床者」だけに起こされるものではなく、その人にとってかけがえのないものを失った時にも同じようにこの現象が生じるという。
 例えば、阪神大震災等で大切な配偶者や家族を失う、あるいは財産を失うというような深い喪失体験をする、そういう時にも、私達は同じような経過を辿って、最後にそれを受け入れていくようになるというのである。
 キュブラーロスは、この死の臨床を追求し続けた結果、ある重要な結論に到達した。それは、人間の死後の命は永遠であるということである。彼女は言う。
 「これは、昔から信じなさいと言われてきたことである。しかし信じるということ以上に、このことに気付くか、知るか、そういう問題なのだ」と。
 私達クリスチャンにとっては、死後の永遠の世界があることは極く当たり前のことである。その証拠に、使徒信条を毎週唱和し、「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白している。
 だのになぜ、この当たり前のことが当たり前として信じられない多くの人々がいるのであろう。そこでキュブラーロスは、二百件以上のデータをとってこの事を裏付けしていった。そして確かな結論に達したのである。
 「死後の世界があることは事実なのだ」と。
 そしてこの結論をもって自らの人生を見直していった時、彼女は重大な確信を得ることとなった。
その確信とは一体何なのか。それは「人生というのは道場であり、学校である」ということである。
 神は人間に対して様々なテストをされる。人間はその神のテストに合格しなければならない。
真の永遠の命を戴いていくために、神は私達人間に様々な問題を持ってきて試み、テストをしてくる。
そして、その一つ一つを乗り越えていくことによって、やがて神が備えたもう永遠の命に与っていくようになるのだというのである。故に苦難は神の訓練であり、苦悩は神の教育であるという偉大な結論となる。そこには、神は愛であり、神の愛なる意図がある。その愛なる意図をもって、そのように私達人間を訓練し教育をしていくのだというわけである。
 今回取り上げているヘブル人への手紙十二章五~十一節は正にこのことを言っている。愛なる神はその愛の故に人を訓練する、それは神と人間が、即ち父と子の関係にあるということの証拠なのだと語っているのである。本来父親というものは子どもを訓練する立場にある。ところが今日は、父性喪失の時代といわれ、その訓練がなされなくなってきたことに重大な社会的問題を発生せしめている。
父親は父親としてしっかり子どもを訓練する重要な役割と責任がある。それによって子供は人生に沸き起こってくる苦難や苦悩というものに対処する力が養われていく。同じように、否それ以上に主なる神は私達人間を実に子どもとして真剣に対峙してくださり、訓練をし教育をして育て上げてくださるのである。この箇所で記者は繰り返し繰り返しそのことを語っている。

きよさにあずからせるため

 それでは、何のために父なる神は私たち人間を訓練して下さるのであろうか。その答えは十節にある。
 「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のためそのきよさに与らせるために、そうされるのである」。
 その聖さに与らせるために、父なる神は人間を訓練するというのである。
新共同訳聖書ではこう訳している。
 「ご自分の神聖に与らせる目的で私たちを鍛えるのです」。
 主なる神はその聖さに人間を与らせたい、神ご自身が持っておられる神聖さ、それを人間に与えたい、そのことの故に人間に困難、苦難、苦悩を与えるのだというのである。
 では、神の聖さに与っていくとはどういう様相をいうのであろうか。それは、一切の自我的な誇りを捨てて謙虚になっていくということであり、その謙虚さの中に神の聖なる光が宿り、聖なる輝きが現されてくるということなのである。
 日本人は本来の美徳として、謙虚さを備え持っていると言われる。このことについては日本の歴史的背景が大きく影響を与えているのである。
 しかし、日本人特有のひかえめ、あるいは謙虚さというものは、他人の目を意識し、他人への謙譲としての謙虚なのであり、実は無意識的には他人から非難されたり嫉妬されたりしないようにという自己防御から出ていることが多い。
 いかにも謙虚でひかえめで美しくみえるのであるが、その実、自分を守り美しく見せるための所作なのである。しかしこの所で言うのはそのような日本的な意味合いの謙虚ではない。そうではなくて、自我が砕かれ自我を主に明け渡した謙った心をいうのである。
 十世紀頃、フツリオス・シメオンという神秘思想家がいた。彼が難行苦行を行い、断食をし、疲労困憊したその中で、主はシメオンにこう語りかけた。
 「子よ、神が喜んで人間に姿を現されるのは断食や徹夜や体の労苦などの称賛されるべき修行によるのではなく、謙遜でひかえめで善良な霊魂と心によるのです」と。
 彼はその語りかけを聞いてからは、「神よ、あなたは聖なる方です。聖き方です。聖なるかな、われらの神よ」と唱え始めたというのである。
 私達は人生において様々な困難や苦難に遭遇する。もう生きていくことが辛いと思うほどの試練にぶつかる時がある。そのような時、神がおられるのにどうしてなのかとつい思ってしまうものである。
 しかしそれは逆である。そうではなくて、神がおられるので、神がおられるからこそ困難苦難が起こされて私達は訓練される。神は私たちを愛するが故に、訓練として試練を与えられるのである。そして、聖めて下さるのである。
 それ故に困難や試練の時にこそ、神に立ち戻ることが重要である。神に立ち戻り心を低くし、自我を明け渡して謙虚になり、神の聖さに与っていくものとなりたいものである。私達にとって、謙った砕かれた心こそ神の最も喜ばれるものである。
 様々な訓練や教育を、むしろ喜ばしいものとして学び、神の神聖さを内に宿すものとなろうではないか。
 私達の人生はこの世だけではない。この世だけで終わるものではない。あの世へ永遠の世へと続いていくのである。故に、この世はあの世に向かうための道場であり学校なのである。
 このことを深く心に刻み、あのシメオンの如く「神よ、あなたは聖なるかな」と心から告白するものになっていきたいものである。

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