About The Death -クリスチャンの死生観-

クリスチャンの死生観について、日本キリスト教団高砂教会の手束主任牧師が永眠者記念礼拝で
語ったメッセージを6回シリーズでお届けします。
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手束牧師の「死」にまつわる説教 第6回
 6.幸福の真の鍵―それは死
【聖書テキスト】

わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、
わたしの道を慎み、
悪しき者のわたしの前にある間は
わたしの口にくつわをかけよう」と。
わたしは黙して物言わず、むなしく沈黙を守った。
しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、
わたしの心はわたしのうちに熱し、
思いつづけるほどに火が燃えたので、
わたしは舌をもって語った。
「主よ、わが終りと、
わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、
わが命の いかにはかないかを知らせてください。
見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。
わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。
まことに、すべての人はその盛んな時でも
息にすぎません。   〔セラ
まことに人は影のように、さまよいます。
まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。
彼は積みたくわえるけれども、
だれがそれを収めるかを知りません。
主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。
わたしの望みはあなたにあります。
わたしをすべてのとがから助け出し、
愚かな者にわたしをあざけらせないでください。
わたしは黙して口を開きません。
あなたがそれをなされたからです。
あなたが下された災を
わたしから取り去ってください。
わたしはあなたのみ手に打ち懲らされることにより
滅びるばかりです。
あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、
その慕い喜ぶものを、しみが食うように、
消し滅ぼされるのです。
まことにすべての人は息にすぎません。〔セラ
主よ、わたしの祈を聞き、
わたしの叫びに耳を傾け、
わたしの涙を見て、もださないでください。
わたしはあなたに身を寄せる旅びと、
わがすべての先祖たちのように寄留者です。
わたしが去って、うせない前に、
み顔をそむけて、わたしを喜ばせてください
                詩篇39篇1-13節


 【メッセージ】

 私達は毎年永眠者記念礼拝を捧げているが、これには主に二つの大きな意味がある。一つは天に送りし人々を記念し、偲ぶということである。これは、日本的な先祖供養とは全く意味合いを異にするものである。先祖供養とは、先祖の霊を崇めたて、慰めるということであるが、しかし、私達の捧げる礼拝はそういうものではない。天に送りし人を思い起こし、記念し、主にあってこの地上に生を受けた人は誰も決して忘れられることはないということを確認していくものである。
 二つ目には、この礼拝を通して、「死」ということへの認識にいつも目覚めていくという意味合いがある。「死」、それは、実は私達人間にとって最も大きな重要課題なのである。これは、何にも勝って私達が取り組まなければならない課題である。にも拘わらず、日常生活の中で、ともすれば忘れ去られ、横に追いやられがちになってしまう。目の前のことにあくせくする私達は、これ程大きなことを置き去りにして日々の生活を営んでいる。しかし、「死」ということをどのように私達が掴み、認識し、理解し、解釈するか、これは実に私達の生き方そのものに深い影響を与えていくものなのである。にも拘わらず、何故、この死ということがいつもなおざりにされてしまうのであろうか。
 ヨーロッパの多くの修道院には、ある言葉が掲げられているという。ラテン語で「メメンテ・メモリ」。訳すと、「死を覚えなさい」となる。死ぬという事を覚えておきなさい。覚悟しておきなさいという意味である。つまり、死を覚えることによって、人間は真実な人生を生きることができる、真に豊かな人生はそこから開かれてくるのだ、ということを意味しているのである。
 有名なモーツァルトは天才的な音楽家であるが、若くして亡くなった。何と三十五歳の若さであったという。彼が三十一歳の時、父親に宛てて次のような手紙を記
めている。「死は、確かに人生の最終の目的なので、数年来、私は人間の最良の友である死に親しむことを自分の務めだと思っています。そのためか、私はこの友のことを思い出しても、別に恐くはなく、むしろ大きな慰めと安らぎを覚えるのです。真に幸福の鍵である死と懇意になる機会を与えられたことを、私は感謝しています。いくら若くても、明日はもう生きてはいないかもしれないと思わずに眠ったことはありませんでした。けれども、私の知り合いで、私をむっつりした悲しそうな人間だと言う者はないでしょう。私はこの喜びを与えられるよう、切望しています。」
彼は、死を人間の真の幸福の鍵だと言っているのである。一体どうしてそのように言えるのか。多くの人々にとって忌まわしいと思っている死を、何故人間が生きる上で、幸福になるために最も大事なことなのだと言ってのけることができるのか。

人生の最も暗い時に

 この詩篇三九篇は、その解答を与える箇所である。詩篇の中で、この三九篇は最も暗い詩篇だと言われている。この詩篇の記者は、途方もなく大きな試練、あるいは重い病の中に煩悶している人なのではなかったかと推察されるほどである。彼は言う。一節、「わたしは言った。『舌をもって罪を犯さないために、私の道は慎み、悪しき者のわたしの前にある間は、わたしの口にくつわをかけよう』と。わたしは黙してもの言わず、むなしく沈黙を守った」。苦しい苦しい状態、そういう状況にある時、人はつい神を呪いたくなる。神に対して不平不満を言いたくなる。どうして神様はこうなるのですか、と叫びたくなる。しかし、神に言い逆らうことは罪なのだと、必死で押さえてしまうことが私達クリスチャンには多いのではないか。
 更に「悪しき者」とある。この記者は自分の敵対者をこう表現しているが、これは、悪魔サタンを象徴しているとも解釈できる。悪魔は、私達人間が神を呪うことを喜ぶ。日本人がしばしば口にする「神も仏もあるものか」という言葉は、悪魔を大いに喜ばせる。であるから、ヨブにも悪魔は試みた。「あの敬虔そうに見えるヨブにも、もし不幸が与えられたら、彼はきっとたちどころに神を呪うようになるでしょう。私がヨブをそうさせてみせましょう」と、神に願い出たのである。悪魔は、幸福さえ奪うなら、人間は神を喜べなくなるだろうとたかをくくっている。それだから、何とかして悪魔は人間に不平不満をつぶやかせたいのである。悪魔は神を呪う人間が大好きなのである。民数記には、出エジプトの途上の出来事がつぶさに記されているが、イスラエルの民は、艱難(ルビ…かんなん)、試練が起こる、とすぐ不平不満に陥り、つぶやいた。その都度、神の瞬時の助けがあるにも拘わらず、またすぐつぶやくのである。そして、イスラエルの民は悪魔を大いに喜ばせることになる。このように人間は弱く、すぐつぶやく者である故に、この詩篇の記者は、神を呪わないように、つぶやかないようにと、口にくつわをかけて沈黙したというのである。
 ところが、続けて三節には大転換が起こっている。「わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。『主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください』」と。この転換は、神を信じる者、クリスチャン達にとっての大きな特権を示している。私達には時として、愚痴、つぶやき、不平不満が起こってくる。それはしかたがないことである。この時、私達はそれらを神様にぶつける、即ち、祈りによってぶつけることをしてもよい存在なのだということを表現しているのである。もしそうせずに、人にこぼすならば、かえって嫌われたり、軽蔑されたり、あるいは自己嫌悪に陥ったりするかも知れない。また、誰にも言わずに内に秘めてしまうならば、ノイローゼになったり、陰うつな性格になったりするかも知れない。

神様にぶつける

 しかしそんな時、私達には神様にぶつけることが許されている。神様にはどんなに強くぶつけても、どんなに酷いことを言ってもいいのである。それは祈りになり、その祈りは神様に然と受け止められていく。何と素晴らしい特権であろうか。
 このクリスチャンならではの特権を感謝して、大いに用いよう。自分を抑圧して黙り込むのではなく、他人に言うのでもなく、自らの様々な思い煩いや問題、愚痴、繰り言を主の前に持っていこう。そうするならば真実なる主は必ずやそのことを祝福に転換して下さるであろう。
 四節以下には、その祈りが書かれている。勿論この詩人が祈った祈りが全部収録されているのではない。その祈りのエッセンスともいうべき祈りが記められている。彼は祈っていく中で、特に強く「死」というものを意識するようになった。そして「死」を意識した時、彼は二つの問題に直面したことが窺える。これらは、この詩人だけの問題ではなく、広く私達人類に共通する重大な課題でもある。
 四節から六節には、人生の虚しさと儚(はかな)さについてつらつらと記されている。死を意識した彼は、人生とは、人間とは、何と虚しく儚いものなのかと気付いたのである。元気であくせくと働き、行動できている時には気付かないが、今や死というものを間近に感じたとき、すべからく人間はそのように気付いていくものなのである。だから彼は、神の前にそのことを語り祈った。五節後半、「まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません」とある。特に男性にとって四十代、五十代というのは人生の中で最も脂が乗り、一番盛んな時代と言われている。しかし詩人はそれは息にすぎないと言う。
 文芸評論家である江藤淳は、エリートの保守派のオピニオンリーダーとして知られている。彼の著した文章は様々なところに収録され、今日の日本の体制を擁護する論客として活躍してきた。この江藤淳氏がなぜ自殺をしたのか。当時、突然の自殺に人々は驚き、様々な角度から論議がなされてきた。あれ程の颯爽とした知的且つ強靱に見える人物が、何故、かくもあっけなく死んでしまったのか。私自身もその死について深く関心を寄せざるを得なかった。
 人間が自殺する場合、一つだけの理由であることは少ない。いくつかの理由が重なって自殺に至る。彼の場合もそうであろう。推測するに、一つは妻を失った事による喪失感が大きかったのであろう。人一倍の愛妻家であった為、その喪失感たるや、いかばかりであったことか。二番目には、自分の身の健康に対する不安があったのではないかとも言われている。妻が死んだ後、彼もまた病気になり入院したという。がしかし、私は次のように彼の死の理由を推測する。つまり、彼は妻の死を通して正に死というものを強く意識するようになったのではなかったか。そしてそのことにより、人生の虚しさ、儚さに否応なしに直面してしまったのではなかったかと。
 なぜ私がこう推測するのかというと、雑誌「文芸春秋」に収録されている彼の遺稿となった文章、「妻と私」を読んだからである。そこには、彼の思いが切々と書かれている。人生とは何とつまらない、虚しいものなのかということが連綿と綴られてくる。あの森鴎外も、亡くなる時に漏らした言葉は「馬鹿馬鹿しい」という言葉だったという。恐らく彼もまた、人生の虚しさを強く意識して死んでいったのであろう。

死という大切な仕事

 しかしである。誰しもが決してそうではない。クリスチャン作家として名を覇せた三浦綾子氏は、その七十七年の生涯を閉じる前、よくこのように語っていたという。「朝起きると、今日が私の命日になるかも知れないということを思う。でも、神様がそばにいて心配するなと言って下さっているので安心する。人間はいつかは死ぬということをしっかりと覚えておきたいものだ。自分には最後に死ぬという大事な仕事が残っている」と。さすが、三浦氏らしい信仰者としての高貴な言葉だと感服する。自分にはまだ死ぬという大きな仕事が残っている。人間にとって、〝どういう風に死ぬかということは、最後の大仕事なのだ〟と、死というものに毅然として立ち向かっているのである。死とは、生の集約であると言われる。また人は生きてきたように死ぬとも言われる。正に三浦氏は自身の生涯の集約として、その死というものをしっかりと受け止めていったのである。
 江藤淳氏と三浦綾子氏はほとんど同時代に生きた人物である。が、しかし、なぜこれ程違った死に方をされたのか、と考えさせられてしまう。私はこう思う。恐らく三浦氏は若かりし頃に虚無というものと真っ向から対決をして、そしてそれを信仰によって乗り越えていったからではなかろうか。それ故に、いざ死というものを思い巡らせた時、改めて虚しさというものに直面することはなかったからではなかろうか。つまり、死というものを正に生の集約として受け止めることが出来たのである。ここに、信仰を持っている人と持っていない人との如実な違いというものを、私達は見せられるのである。
 六節にはこう記されている。「まことに人は影のようにさまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども誰がそれを収めるかを知りません」。
 二十数年前、私が牧会十周年の折、その記念として、イスラエル旅行へと教会より送り出していただいた時の事である。ギリシャに立ち寄るべくオナシス空港に到着した。この空港は、かの有名な大富豪アリストテレス・オナシスが造った空港である。この時、ガイドの女性がこのような説明をした。彼は、これも有名な話であるが、元アメリカのケネディ大統領の未亡人と結婚し、まもなく離婚、その後オナシスは一人になってしまった。そしてほどなく亡くなった。彼には一人娘があったが彼女もまた心を病み精神病院に入ったままである、と。そこで私はガイドに質問した。「オナシスのあの膨大な財産は一体どうなったのですか」。すると彼女はこう説明した。「彼の財産は彼と生前非常に仲の悪かった弟が相続したのです。一切交際が断絶している弟に、その膨大な財産は全て入ったのです」と。一人娘はいわゆる禁治産者となっていたので、財産を受け継ぐことは出来ず、結局、最も嫌っていた弟に渡っていったという。正に「彼は積み蓄えるけれども、誰がそれを収めるかを知りません」という六節の言葉通りになったのである。

神のいない人生は虚しい

 さて七節に詩篇の記者は言う。「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。私の望みはあなたにあります」。神にしか望みはない、神がいなければ人生は虚しい、もし死で全てが終わったしまうならば、努力することなど虚しい、この詩人はこのように悟りを得たのである。この悟りは、創造主なる神の発見とも言い換えることができるであろう。主なる神は我らの創り主である。我らは主なる神によって創られた。それ故に、我らの人生には意味と目的がある。なぜならば、陶器師は陶器を作るときに必ず意味と目的を持ってその陶器を作るものである。そのように、主なる神は創り主である以上、その創った者に対して必ず意味と目的を与えている。
 福音歌手として一般的にもよく知られているレーナ・マリアさんは、周知のごとく両腕がなく、足も片方が短いハンディを背負って生まれた。両親は、その原因には心当たりがない。にも拘わらず、彼女をハンディをもって生まれてきた。しかし、この両親には信仰があった。彼等は「この子がこんな体で生まれてきたのには、きっと神様がなにか大きな意味と目的を持っておられるからだ。今の私達には分からないけれど」と、敢然と受け止めていった。そして彼女を愛して、健常者と同じように育てていった。結果、今や彼女は、世界中の人々にキリストにある愛と勇気と希望を与える素晴らしい働きを担う女性として、大いに活躍している。彼女もまた、創造主なる神のご計画の中で活かされている一人なのである。
 私達は誰でも、神から意味と目的を与えられてこの世に生を受けている。天地の創り主なる神を信じるというのはそういうことなのである。故に、私達は今ある自分を喜ぼう。この世に生を受けたことを感謝しよう。そして、生きている意味と目的が必ず神から与えられていることを信じて、希望を持って歩んでいこうではないか。
 八節から十三節、特に十節に目を留めてみると、そこには人間の罪という課題が出されている。「あなたが下された災いをわたしから取り去ってください。わたしはあなたのみ手に懲らされることにより、滅びるばかりです」。つまり、現在の苦しい状況は自分の罪の結果なのだ、神の懲罰として与えられているのだ、と詩人は理解したのである。
 人間の中には罪意識というものがある。これは、どんな人にも必ずあるものである。ただ、それを強く意識するかしないかの差があるだけで、誰でも持っているものである。罪責感が強い人は時として、その罪意識が自己処罰をもたらすことがある。自分の罪意識が自分を打ってくるのである。肉体的な病気に罹ったり、時には精神的な病になったり、あるいはそうならないまでも、非常に不安定になり、人生に失敗してしまうこともある。更に、処罰を受けるのではないかという恐怖心が募り、その恐怖心は、更に災いを引き寄せてくることになる。
 私の父もそうであった。父は、日韓にまたがるある企業の管財人として再建に携わったことがあったが、その再建がうまくいかず、非常な苦境に立たされた時があった。私は父の身を案じ、大阪にある会社に赴き父を見舞った。その時、父はこう語った。自分が今こんなに苦しい目に遭っているのは、昔、お前にひどい仕打ちをしたからだ、と。私はその時、「ああ、父は深い所で罪責感に苦しんでいたのだ」と分かった。父は再婚して自分の生活を守るため、私を引き取ることもせず、また家に寄せ付けることもしなかったため、私は酷く孤独で悲しい幼少年時代を過ごさねばならなかった。父はその時のことを思い起こし、自分はお前を捨てたから、だから今こんなに苦しい目に遭っているのだ、と苦悶しながら後悔したのであった。
 その父が後年一冊の歌集を出版した。「憂愁」とタイトルが付けられたその歌集の最後に、このような短歌を載せている。

 「ゆるしてよ、幾度言いし長き日よ、我もいつしか喜寿を迎えぬ」

 この歌は恐らく私の母に対するやり切れない思いを歌った歌なのであろう。私達の家族は、戦前から戦中、当時の上海で暮らしていたが、終戦直前、父が日本に帰って来ている間に終戦を迎えてしまった。その時、父は良かれと思い、幼い私を連れた母を満州へと移動させたが、結果、母は力尽きてそこで死んだ。このことは、父にとっては大きな心の痛みとしていつまでも残っていたに違いない。それと同時に、祖父母の元で育った私を、父は引き取らず捨ててしまった、との思いが父の心を痛め続けていたのであろう。この歌は、父の中に深く沈んでいた私や母への罪責感の吐露だったのではないかと思う。そして、この父の中に深くあった罪責感が、もしかしたら父の事業を失敗に終わらせた大きな要因だったのかも知れない、と思うのである。このように、人はその内側にある罪責感というものを処理する必要がある。

死こそ真の幸福の鍵

 十一節には、「あなたは罪を責めて、人を懲らされる時、その慕い喜ぶ者をしみが食うように消し滅ぼされるのです。誠にすべての人は息にすぎません」と書かれている。「慕い喜ぶ者」とは、ヘブル語で「ハムードー」である。これは生命、命とも訳せる言葉である。むしろ、そのように訳した方が合っているかも知れない。慕い喜ぶ者が消し滅ぼされるとは、即ち命が消し滅ばされるということであり、罪の懲罰としての死、あるいは地獄ということが、ここでは強く意識されている。つまり、人間の死というものは、どうしても罪の問題が処理されなければ、本当には解決しないということを暗示しているのである。人間には良心というものがあるからである。
 そしてついに詩人は、一三節の結論に至る。「わたしが去ってうせない前に、み顔をそむけてわたしを喜ばせてください」。「み顔をそむける」とは、神様の怒りのまなざしを天に指し向けて、私を罰しないで下さい、という意味である。そして、実は新約の時代に生きる私達にあってはこの祈りは最早必要がない。何故なら、イエス・キリストが十字架にかかって下さった故に、もう既に主なる神は、人間のその罪からみ顔をそむけて下さっているからである。だから、私達はもはや罰を受けることは一切なくなった。主イエス・キリストが私達の身代わりに罪を負って下さったからである。主なるイエスはあの十字架を通して、黄泉にまで下って地獄の苦しみを経験して下さった。その贖いによって、私達はもはや、罪も地獄の苦しみも受ける必要は全くなくなったのである。何と有り難く、感謝なことであろうか。この主を信じて従っていくならば、そこにはまことの平安と喜びと幸いがある。かくて、死こそまことの幸福の鍵である。このことを深く覚えて、ますます主に従って歩んでいこうではないか。

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