月報 2011 9月

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期待して臨んだ修養会(1)ー妨害する悪霊が払われた後にー

期待して臨んだ修養会(1)
― 妨害する悪霊が払われた後に ―

北 村 恵

今年も祈りつつ待ち望んで迎えた修養会なのに、開会礼拝、第一聖会と進んでいくうちに、なんだかおかしい、いつもと違ってると思っていました。というのは、讃美を捧げていてもいっこうに讃美に乗っていけない、讃美の歌詞がどんなに素晴らしくても、いっこうに内側から讃美しようという想いがわいてこない、反対にどんどんしらけていってしまうのです。変だな、おかしいなと思っていると、肩の右側をポンとたたく者がいる。えっと振り返っても誰も私の肩をたたいているわけでもない、今度は左の肩をさっと何かが吹き抜ける、誰かがさわったかなと思ってみても、そんな事をする人はいない。ああこれは悪霊のいたずらだなと思い至りました。第一聖会で中野先生の話を一生懸命に聴こうとするのに、いつの間にか目をつむって眠ってしまう、これは大変と目をしっかり覚まして聴こうとするのに又眠ってしまう、その繰り返しで、全くどんな内容なのかわからずじまいに終わってしまったのです。

 第二聖会が始まる前に牧師先生から、聖会場に悪霊がいるので聖別の祈りをするようにと指示を頂きました。やっぱりそうだったんだと勧士執事の人達や修養会委員の方々と祈って第二聖会に臨みました。第一聖会ほどひどくはなかったもののやはり、讃美が突き抜けません。まだまだ祈りが足らない、もっと聖別の祈りが必要だなと思っていました。讃美のときが終わって牧師先生が司会に立たれました。その瞬間私はびっくりしたのです。今までの黒い霧のかかったよどんだ空気がさーっと一掃されて、みるみるうちに透き通った透明な聖なる風が吹いているのです。ぬぐってもぬぐってもすっきりしない曇りガラスが一瞬のうちに晴れ渡ったのです。牧師先生が何か言われたのではなく、司会として前に立たれたとたんに空気が変わったのです。いたずら好きの悪霊どもが一瞬にして逃げ出さざるを得ないほどの権威が満ちあふれていたのです。凄い権威だなあと声も出ない状態で圧倒されました。神様はこんなにも牧師先生に油を注ぎ、権威を与えておられるんだと思わずひれ伏したい思いになりました。

 ふと今から二十年前に起こった不思議な体験が浮かびました。夕拝に出席していた私が悪霊の影響を受けて心が重く、怒りといらつきの中に雁字搦めにされていたとき、讃美の後で聖壇に立たれた牧師先生の目を見た瞬間に私を縛っていた悪霊の縄目がするするとほどけ散ったのでした。それは見事な悪霊からの解放でした。そのときのことを思い出しつつ、この十七年間牧師先生の為にアロンとホルの会で祈ってきたことがサッと頭をよぎりました。まず真っ先に主の血潮で牧師先生が守られるようにと祈ります。と同時に牧師先生に、圧倒的な神様の油注ぎがあるように、イエス様の権威が常に宿るように祈っています。牧師先生の目に、声に、手の平に、神様の権威があふれ、主の栄光表すお働きが出来ますようにと祈って来ていたのです。ああ、神様は私達の祈りを御心に適うものへと導き、その祈りを見事に聴いて下さっていたんだと私は感動せずにいられませんでした。と同時にこの権威を宿した牧師先生の下で、修養会で様々な霊の糧をいただけることに心から感謝しました。牧師先生に注がれた神様の権威と守りの中で、御言葉を聞き、聖霊様の恵みをたっぷりといただくことが出来るとは何と幸いな事でしょう。

 日本の数ある教会の中でも、神様の権威をもって教会員達の霊的信仰の育成をなしていただけるところはほとんどないのではないでしょうか。こんなにも霊的な守りの中に置かれているという恵みを、日常の教会生活では気づかず、当たり前の事として感謝を忘れてしまっていたのだと思い知らされたのでした。それからの聖会で中野雄一郎先生のメッセージがまっすぐに届いた事は言うまでもありません。今更ながら、神様の力の偉大さを思い知り、高砂教会で信仰を養われてきたことは絶大なる恩寵であったと感謝の思いでいっぱいになりました。そして、高砂教会と共に日本の民の救いの為に立ち上がり、日本を牛耳る悪の霊と戦われる牧師先生に常に神様の権威と勝利の御旗がはためくようにますます祈っていこうと決意しました。

 愛する兄弟姉妹、どうぞアロンとホルの会に参加してください。教会の為に牧師先生の為に共に熱くとりなし祈ろうではありませんか。
「私達の戦いは血肉に対する物ではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ六・十二




期待して臨んだ修養会(2)ー「天命に安んじて人事を尽くす」ことを語るー


期待して臨んだ修養会(2)
―「天命に安んじて人事を尽くす」ことを悟る ―
中 西 弘 美

 昨年洗礼を受けて、私は初めて修養会に参加させていただきました。環境・健康が整えられたことを感謝しています。修養会について、手束牧師先生が家庭・職場から分離され、神様との時間を持つことによって、聖霊に満たされ、日常生活でも御国を体験できるようになると言われた言葉を思いつつ期待して臨みました。

 聖会の賛美が始まると、賛美の歌詞が心に響き、神様から頂いた恵みの数々が思い出され、感謝と悔い改めの思いが湧いてきて、涙が溢れてきました。
 講師である中野雄一郎先生のメッセージは駄洒落があり、ユーモアに溢れ、漫談を聴いているかのように楽しいものでした。実話をあげて分かりやすく語ってくださったので、とてもスムーズに御言葉が入ってきました。その中でも「主が私を愛して下さり、生きる喜びを与えて下っている。主より頂いた溢れる愛の利子で人を愛します」と言われたのはとてもインパクトがあり、面白い表現だなぁと思いました。私も神様から頂いた愛があって、周りの人を愛せることを体験していましたので共感できました。

 我が家には高校受験を控えた娘がいます。受験生の母としては、テレビをつけ携帯(私の携帯)を横に置いてちょっと勉強という姿を見るとしんどくなることがあります。勉強がすべてではないと思ってはいるのですが、やはり成績は気になります。私が焦っても仕方がないのに落ち着かないという日々を過ごしていました。
 修養会には目的を持って参加するようにと聞いたことがあったので、今回の私の修養会のテーマは、【娘が高校受験を乗り切ること】だと決めていました。その話をある姉妹に話したところ、「まずはお母さんである貴女が恵まれることよ」と言われました。その意味が私にはすぐに分からなかったのですが、この修養会がきっかけとなって気づかされました。

 聖会の中で、ある姉妹が神様に捧げるために踊られているのを、息子さんが見ておられる光景を見た時に、私はとてもうらやましく思いました。その息子さんの眼差しは優しく、にこやかに賛美している姉妹を見守っているように見えたからです。私が将来、求めているのはこの関係ではないだろうか。そのために今、何が必要なのだろうかということを考えさせられました。

 その答えが出て、私の胸の中の大きなこだわりがすとんと落ちたのは、修養会から帰ってからでした。正確にはこの原稿を書く準備をしている時でした。修養会から帰ってから聖書で語られるのは、【最善を期待することは私の思った通りになるということではない】ということでした。理屈では分かっているのですが、何故かどうしてもこれだけは捨てることのできなかった私の肉のこだわりだったのです。きっとこのことが娘を苦しめていたのだと思います。そのこだわりを捨て去り、すべて主に委ねようと心から思えるようになりました。このことで私は肩の力をスッーと抜くことできとても軽くなりました。

 私は今まで、神様に感謝し祈りながら、成果が見えないとつい神様に説明責任を求めたり、不信仰になり不平不満を言ってしまうことがありました。でもこの修養会で私は、領収書の祈りそして症状を見るのではなく、信仰により歩むことの重要性について再確認できました。そしてクリスチャンは「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、「天命に安んじて人事を尽す」のである。これはいつも喜び、感謝し、祈る時、聖霊に満たされる。聖霊に満たされ歩む時、主は臨在し一緒に歩んで下さる。私が肉の力で何とかするのではなく、主がなされる、だから私は黙っていればよいということもわかりました。祈りとは心の中の言葉であり、その言葉が人生を決める。いかに日々の会話が大事かということを思わされました。

 最後になりましたが、按手の祈りの時に中野先生から語られた御言葉は私の宝物になりました。修養会を開催するにあたってご尽力いただいた先生方・兄弟姉妹に感謝いたします。
「主の勇士よ、今、目を覚ませ!」まさに修養会のテーマを胸に私も大きく飛び出そうと思います!


期待して臨んだ修養会(3)ー本当に神の国がここにあったー


期待して臨んだ修養会(3)
― 本当に神の国がここにあった ―

塩屋キリスト教会 河瀬 万里子

 「あなたは、私がもし、家で死んでいたとしても気づかず、教会に行ってるんでしょうね。」

 今年の初夏のある聖日の朝、私が礼拝に行く前に電話をかけてきた、一人暮らしの母の言葉でした。その頃、東北大震災がおこり、私が行かせて頂いてる教会では、そのための支援バザーが隔週ごとにあり、その他の奉仕とあわせ、仕事が休みの土日は、午前中から夕方まで、ほとんど教会にいる事が続いていました。七十二歳の母は、おかげさまで健康ですが、母が寂しい思いをもってしまうほど、私の方でいたわりの言葉が減っていたんだと思います。母は、三十二歳で夫を病気で亡くし、父の死後の様々な新興宗教の勧誘で嫌な思いをしてから、「宗教の人は嫌い。」と、私が教会に行くことも非常に嫌っていました。それ以外は、本当にやさしい母で、いつも私や娘のために良くしてくれ、私もいつのまにか、母の救いを祈ることもやめ、「母とは今の良い関係のままのほうがいい。」と思うようになっていました。ですから、冒頭の母の言葉は、本当にショックでした。

 それから、母の救いをはじめ、周囲の方の救いについて、自分が本当に心から神様の業を信じて祈ってるのか・・・、どこかであきらめて、地上で良い関係で周囲の方といるようにしてしまっていないか・・・と考えるようになりました。そして、このたびの東北大震災のことと合わせ、修養会に行けば、神様は愛の足りなかった私の間違いに対する指摘と励ましを与え、進むべき道をお示し下さるはず、と大きな希望をもって参加させて頂きました。
 講師の中野雄一郎先生の力強い、また先生のお人柄と合わせて、そのあたたかい励ましのメッセージは、鈍くなっていた私の不信仰の心と目を開いて下さいました。

 「日本の教会は証しと伝道に熱がない。日本のクリスチャンは孤立している。教会でエネルギーを使い果たしていないか。教会が楽しくて、気づけば、未信者の友だちがいなくなっていないか。伝道は私たちの力を超えた神様の導き。

 あなたが発する今日の言葉の全てが『祈り』、『感謝』が呼吸。祈りながら進みなさい。主を通して、あなたはもう整えられています。〝行きなさい〟と主は言われています。」私は、母の救いを自分の力でしようとし、神様の業に対して不信仰で愛も冷めて、ただ、忙しく日々を送っていたんだと思います。
 修養会から一ヶ月たちました。私の職場の机には、中野先生の『主にあって前進を』というサインが貼ってあります。

 修養会二日目の聖霊のバプテスマで、触れて下さった聖霊の力強いあたたかさとともに、「私は、いっしょにおまえと行く。」ということを日々、仕事の中で生活の中で、さらに感じさせて頂くようになりました。

 母は、その後、八月末、私の教会でもたれた青年達によるゴスペルコンサートに来てくれ、今までになく喜んでくれ、あんなに嫌っていたのに、自ら牧師夫妻にあいさつに行き、お礼を言ってくれ、その後、全く教会の事を悪く言わなくなりました。不思議と私も仕事と教会の奉仕を両立しながらも、母を訪問したり、救われてほしい友人との個人的な時間ももてるようになりました。また、長く教会を離れてしまっていた妹が、今年の冬参加させて頂いた韓国の早天礼拝ツアーへ、「今度、もし、企画があったらまた参加したい。」と言ってきました。母や妹の救い、職場の同僚や友人、そして日本の救いを祈り、感謝をもって主の手足となり、示されたところで仕えていこうと思います。

 手束牧師先生が、修養会の中で「この修養会は、神の国を体験しているのです。」と言っておられましたが、私も本当にそう思います。
 手束牧師先生ご夫妻はじめ、高砂教会の皆様の輝くような笑顔と、主の前に謙遜なお姿に、今年もこの夏も、大きな恵みを頂き、また教派を超えてあたたかく受け入れて下さった事を、心から感謝いたします。手束牧師先生、高砂教会の皆様のお働きの上に、主の豊かな御祝福がございますよう心からお祈り致します。



期待して臨んだ修養会(4)ーあっという間に終わってしまったー

期待して臨んだ修養会(4)
― あっという間に終わってしまったー
       
神 澤 聿 子

 8月19日、20日、21日と3ヶ日、グリーンピア三木で修養会が開かれると聞き、私は初めてなので修養会って何の事と思っていました。私も参加するのかな?またベテランの教会員の方が参加するのかな?と思っていました。

 日曜礼拝に行ったり、祈祷会に行ってお話を聞いていると、あゝ私も参加しなければと思ってきました。七月中に申込をすれば早割があるとのことで、嫁の佳代が申込をしてくれました。主人も三日間の留守をお願いしたら、快く引き受けてくれました。
 修養会に参加すればどんな事をするのか、少し不安でした。一週間ほど前に新田姉より、「お楽しみタイム」の時に三味線の演奏をしてほしい、と要望があり、初めての参加でもあり様子がまったく分からないので、「また来年にして下さい」とお断りしたのですが、断り切れず演奏する事になりました。神様の事でもあるので、何でも断っていないで頑張ってみようと、思い切ってさせていただくよう引き受けました。

 当日、上瀧姉が自宅まで迎えに来て下さり、高田愛子姉と同席して連れて行ってもらいました。ほんとうに感謝です。
 グリーンピア三木に着くと早速開会礼拝があり、讃美歌をいっぱい歌いました。手束牧師先生のメッセージは「神の国は近づいた」でした。私は今から神様の事だけ讃美し考えようと思わされました。それから昼食を済ませ、お部屋に行きましたが、私の部屋のメンバーがまたとても良かったので、神様はすごいなぁと思って感謝しました。

 楽しく神様の事を勉強できそうと、すごく期待しました。朝の祈祷会から夜の礼拝が終わるまでとても忙しいスケジュールでした。夜の礼拝が終わるのが十時頃で、お風呂に入って早く床に入らなければ、明日の朝が早いし、また「体調は大丈夫かな」などと思っていましたが、元気で過ごすことが出来、ほんとうに感謝でした。中野雄一郎牧師の素晴らしいメッセージを、何回も聞かせていただき、「神様が私たちを愛して下さっている」と溢れる喜びが湧き上がって満たされました。
 「お楽しみタイム」もとても楽しかったです。私の演奏も、充分には出来ませんでしたが、まあなんとか、させていただきました。それから高砂新喜劇「奉献式の巻」がほんとうに、現実的でとてもよかったと思います。

 最後の日のメッセージで、私の一番心に残っているのは、聖書の御言葉、テサロニケ人への第一の手紙5章の16節~19節で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたに求めておられることである」という箇所で、この三日間の総締めの御言葉であると感激致しました。
 ほんとうに、この三日間は、神様にふれ、聖霊様に満たされつつ、あっという間に終わってしまいました。中野雄一郎先生御夫妻、手束牧師先生、ありがとうございました。最後になりましたが、これだけの予定をいろいろ考えて下さり、お世話をしていただきました修養会委員の方々、そしてスタッフの皆様、ありがとうございました。全てを導いて下さった主に、感謝いたします。



期待して臨んだ修養会(5)ー「謎の言葉」が口からスラスラ出て来たー

期待して臨んだ修養会(5)
―「謎の言葉」が口からスラスラ出て来たー

小 西  輝

 救われて約五年、今まで修養会に参加するチャンスは何度もありましたが、いろんな事情や、修養会というものがどういうものかいまいち分からなかったり、チャンスを逃してきた、いや、逃げてきたような五年でした。

 兄弟姉妹の修養会の証を聞くと、修養会前には何か課題を抱えていたり問題が起こったりするという話を聞くのですが、僕には特に目立った問題や課題は無かったように思いました。が、実際の所すごく飢え渇いていたと言えます。ハッキリ言ってこれは大問題です。なぜか祈れない、聖書が読めない、御言葉が入ってこない。今、造園業の仕事で「下っ端」として仕事させてもらっているのですが、仕事中もマイナスの自問自答を繰り返し、もうなんだか「やってられん!!」という気持ちでいっぱいなのでした。

 修養会に向かう途中の車ではこんな賛美をずっと聞いてました。「主よあなたは私の心の中にいます。ひと時も離れる事なく、この心に。あなたが私を愛しているように、私もあなたを愛せるようになりたい。主よ、どうか私を引き寄せてください。あなたの十字架の愛をもっともっと知りたい。あなたと共にずっと生きていく。私の人生を変えた愛を伝えるために。」そんなタイミングで修養会は備えられていました。しかもタイトルは「主の勇士よ、今、目を覚ませ!」です。植木が太陽の恵みを浴びるように、自分もどっぷり神様の恵みに浸り、芽吹きたい!という気持ちでいっぱいでした。

 第一聖会のメッセージが非常に心に残っています。人の愛の限界は明白。けれども、神の愛は、ひとり子を賜う「ほど」に「世」を愛された。イエス様の十字架がどれだけすごい事だったのか、また一人の御子を十字架にかけた神様の思い。「その十字架の時、天気が曇っていて、天の父は見るに忍びなかったのではないか。」という中野先生のメッセージに、改めて救いの偉大さを感じ、すごい覚悟だったんだなと感動を覚えました。ハレルヤ!この愛にさらに答えないと!伝えないと!という思いもさらに与えられました。

 第四聖会では、明確に異言も与えられました。今まで熱く祈っていると「謎の言葉」が出てきそうになった事は何度かあるのですが、スラスラと口に出たのは初めてです。思いはあるのに、言葉を「組み立てて祈る」のが苦手な私なので、異言での祈りはとてもしやすいなって思いました。賛美歌を作っていると、神様を褒め称える言葉選びに苦労するのですが、異言での祈りは地上のどの言葉をも超えているようで、「思いを自由に伝える」面で本当に自由にされた気がします。按手の時には涙ではなく嬉しさのような物がこみ上げてきて、会場の天井を見上げながら笑顔になってたのを覚えています。それから、賛美もすばらしかったですね!大人数でのワーシップ、音、霊の流れ、手束牧師先生の言う「御国の礼拝」をひしひしと感じました。高砂教会の将来の賛美夕拝ってこんな感じなのかな?って思えたりもしました。もうひとつうれしかったのは、普段あまり話せなかった兄弟たちと話ができたことです。ほんまみんな感謝!

 修養会後、言葉にするのが難しいですがあれほど飢え渇いていた心が満たされて、ほんと充実した日々を送れています。なんか前と違うんですね。仕事の面でも今まで逃げてた事にチャレンジしまくって、「心の自問自答」を御言葉に変え、祈り心で、御言葉で生きれている・・と実感できる時が増えてきました。自分の関わっているYC楽器教室やユースの新しい救いも拡大していきそうで、ワクワクしています。主の道を備える、というか、主が活躍する、主に出会う場所をもっともっと良くし、さらに主に仕えていきたいと思った修養会でした。ハレルヤ。
すべての栄光と感謝を主にお返しします。毎年行かねば!


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