月報 2012 3月

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癒しの霊が注がれたデュナミスコース(1)ーイエス・キリストの癒しが肉親にもー

癒しの霊が注がれたデュナミスコース(1)
―イエス・キリストの癒しが肉親にもー

田辺 省滋

 この度受講した、デュナミス・コースにおいて自分なりに感ずるところがあり、以後私は自分の母親のため又兄の癒しのために時間をかけて祈るようになりました。
 デュナミスコースのなかにある『生まれる前にある傷、又幼年時代に受けた傷』のところでこの様な文章がありました。【もし私たちの母親が私たちを身ごもっていた間に、ある大きなトラウマを経験したとしたら、これは私たちに影響を与えます。他方、もし母親が妊娠して子供を産むことを拒絶するなら、これもまた影響をおよぼします。もちろん、胎児は理解することが出来ません。しかし彼または彼女は憎しみ、緊張、恐れの雰囲気によって影響されるに違いありません。】との文章でした。
 ここで私の母のことについて述べます。私の母は、神戸市で洋服商を営む父のもとに生まれ、母親を早くに亡くしたことを除けば、当時で言う女学校も卒業し、ある程度裕福な家庭環境の娘であったそうです。
 母親がいないこともあり祖父は私の母を早く嫁がせたくおもい、母が十八歳の時に遠い親戚であった父との結婚を本人の承諾もなく決めてしまい、真面目な人ということで、母も承知をしたとのことです。父との結婚後は神戸で過ごし、兄の出産のために父の生まれた広島(福山市)に帰りましたが、出産後はすぐに、神戸に帰るとの父の約束が果たせずに、そのまま福山市に定住することになりました。そこから母の苦労が始まります。
 父の母親は父の幼い時に他界しており、祖父が後妻を父の幼かった時に迎かえております。この女性が私の母に対して大変な苦悩をあたえることとなります。後妻は元々子供もおらず、近隣でも評判になる位の意地の悪い人であったとのことです。生まれたばかりの私の兄を母から奪い去り、自分の我儘放題に育てたのことです。全く母の親としての愛は届けられなかったと思います。兄が九歳になってたまらず、又神戸の母の実家に戻るまでこの後妻に母と兄は、翻弄されたとのことです。
 その結果兄は、成人するにつれて様々なところでこの影響が出てきたと思われます。大学を中退し、二人の子供を儲けた後離婚もし、自分で興した家業にも失敗し、その後も真面目に働きはしましたが出会う女性のなかで、兄の面倒をよく見てくれる「本当にいい人だな」と思えるひとでも時間がたつと、兄の方からその仲を壊してしまう、何か兄の心の中に人を愛することのできない、又人の愛をうけいれない深い傷があるのを思います。人はどこかで自分の失敗を省みて改善していくものですが、兄はそれが出来ないほど広島で暮らした九年間、後妻と母との愛情の板挟みになり人を真剣に愛することが出来なくなってしまったのか。今兄は一人ぼっちで、岡山県美作市にある山奥の古い家で一人暮らしをしています。
 今度は話が私のことになります。私が生まれたのは、兄が六歳の時です。兄の一番かわいいころだったと思います。このころも後妻は、兄を自分のもとに連れ歩き、母の自由にはならなかったと聞いております。母は私が胎児でいるときから、到底私の誕生を、またおなかの中での成長を喜べる状態ではなかったと思います、。母の無意識の中にも私の成長を否定する強い思いがあったでしょう。母の当時の心の中は本当に怒りや憎しみ、また悲しみに満ちていたと思われます。
 このような傷ついた母から生まれたわたしも、成長とともに、様々なところで又、生きる上で、人生に対する不安や人に対する恐れで治療を必要とされるほど苦しい歩みもしてまいりましたが、しかし私は妻を通してキリストに導かれ、確かに万事を益にかえられる主の力により全てが好転し、今は健康にも恵まれ幸せな日々を過ごすことが出来感謝に思います。ただ母は八十八歳になった今も健在で、兄のことを憂い当時のことを悔みます。今回の学びを通して何と人は傷付き易いものなのか、また何と罪を犯しやすいものかを感じます。今私はこの母と兄のもとに癒し主であるイエスキリストを届けたい。そのために常に祈るものでありたいと思います。 







癒しの霊が注がれたデュナミスコース(2)ー神様の視点で自分を見つめ、愛したいー

癒しの霊が注がれたデュナミスコース(2)
―宝の持ち腐れにせず、賜物を用いよう―

西田 登紀子

 今回のデュナミスコースは「癒しのミニストリー」という事をお聞きし、私もぜひ癒しの賜物を頂きたいと思い、期待して参加しました。
 受講するまでは、癒しとは「身体の癒し」だけを想像していましたが、実は①霊的②内面的③関係的④肉体の四つに分類されており、まず神様との関係を回復することで霊的な癒しが起こり、その相互関係によって他の物質的癒しも起こってくるということが分かりました。また、何故「癒しのミニストリー」を学ぶのか、という事については、癒しは教会が取り扱う大切な奉仕の一つであり、私たちが癒しの奉仕を行う事を神様は望んでおられ、神様の栄光を表す方法の一つである事を知りました。
 四日間の学びの中で、三つの答えと二つの気付きが与えられました。
 まず、三つの答えとは、私には今まで気になっていた事があり、その一つ目は、いつも悪霊の追い出しのお祈りをする度に、追い出された悪霊は一体何処に行くのだろう…。また戻ってきたり、追い出された悪霊を拾ってしまう事は無いのだろうかと心配をしていました。でも、追い出された悪霊は、イエス様が取り扱って下さると知り安心しました。
 二つ目は、三男が闘病中、癒しのお祈りを何度もして頂いたのに、完治したという確信が持てず、三男に最後まできつい治療を受けさせたことで、私は不信仰なのではないか…という罪悪感で苦しんでいた事です。その件に関しては、お祈りだけで癒される事もあるが、医療機関で治療を受けることも必要であるという事を知り、罪悪感から開放されました。
 三つ目は、癒しを受ける方も癒しの奉仕をする方も信仰が必要かどうかです。私は、まだ信仰を持っておられない方の為に祈る事がありますが、効果が現れていないように思うことがあります。そのことの関しては、もちろん両方に信仰があった方が効果が出やすいのですが、でも、聖書の中には色んな状況での癒しが起こっているので、信仰が無くても時間はかかるが効果があるとお聞きし、これからも希望を持って祈り続けようと決めました。
 二つの気付きについての一つ目は、既に癒されている事の気付きです。以前、母との関係で癒しのミニストリーを受けた事があり、その時は「癒された」と実感する事ができましたが、時間が経つと古い傷ついた自分に戻ってしまうという事を繰り返していました。でもそれは、自分で作った幻の傷であり、元々持っていた傷も、実は私自身の間違った記憶により出来た傷だということに気付き、逆に母への感謝の気持ちが溢れてきました。
 もう一つの気付きは、癒される必要のあることの気付きです。それは、姑との関係です。私は義母との価値観の違いを受け入れる事ができず、会うたびに傷ついていましたが、仕方が無いことだと諦めていたので、ただ我慢していれば良いと思っていました。表面的には問題のない関係のように見えますが、傷を持ちながら心から義母を思いやることは難しく、義務的に接していたように思います。それは夫と義母との関係も同じで、夫は私以上に深い傷を持ちながら、それを心の奥にしまい込んでいるのではないかという思いが与えられました。すると、今まで「私が我慢すればいい」と思っていた事が、ただ問題を放置し、祈ることを怠っていただけだということに気付きました。そして、この事は私だけの問題ではなく、夫の心の開放の為に、夫にも私にも、この傷の癒しが必要だと感じています。
 今回、神様が折角与えてくださった「癒しの賜物」を、宝の持ち腐れにしないよう気をつけ、神様から託されたものだと自覚し、どんどん生かして用いていきたいと思います。






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