月報 2013 8月

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聖霊刷新第8回全国大会に参加して(1)ー「日本を愛し、日本を主張する」国会議員を夢見てー

 聖霊刷新第8回全国大会に参加して(1)
 ー「日本を愛し、日本を主張する」国会議員を夢見てー
 草加神召キリスト教会員 瀬戸健一郎


 私は15歳で父をクモ膜下出血で亡くし、我が家は母子家庭になりました。始まったばかりの高校生活もままならない境遇であった私に、アメリカのYFUという団体が高校留学のチャンスをくれました。1980年、18歳の夏のことでした。
「日本にテレビはあるの?」、「日本人はチョンマゲをしないの?」、「日本人は刀を持ち歩いているの?」など、当時のアメリカ人の日本国や日本人に対する理解はまだまだ遅れた状況でした。地域の新聞に投稿したり、高校の図書室前に日本文化を紹介する展示を企画したり、ありとあらゆるコミュニティーの会合や集会に出て行って、日本を伝える努力を続けました。
 そのように過ごした留学生活1年間の末に、現地の高校卒業式に祝辞を述べに訪れたビル・アーチャー連邦下院議員のスピーチの中に、「我々は日本を叩かなければならない。」(=ジャパン・ハッシング)という言葉が含まれていました。私はこの言葉に抗議するため、退場しかけたアーチャー議員を呼び止め、自分が日本からの交換留学生であると名乗り、「あなたのスピーチは遺憾である。」と切り出しました。するとアーチャー議員は真摯に応え、独自の世界観を私に語り、その中で伝えられた大国アメリカ合衆国と日本国の関係性について、私は返す言葉を失いました。「等身大の日米関係を築くため、外務大臣になりたい。」私はそう決意して帰国しました。
 10年後、私は草加煎餅で有名な埼玉県草加市で市議会議員になり、今年5月まで、6期23年間の議員活動を経て、7月の参議院議員比例代表選挙に立候補しました。私が今回掲げたスローガンは「日本を愛し、世界に向けて日本を主張する」でした。
 1981年5月、留学先のテキサス州ヒューストン市で導かれ、洗礼を授かり、クリスチャンとなり、その直後の卒業式で私の人生を変えたビル・アーチャー議員との出会いがあり、その後今日までの不思議な出来事の連続、その一つ一つを「神のなさることはすべて、時にかなって美しい。」(伝3:11)私はそう実感してきました。選挙戦が始まった7月15日(月)、思いもよらない手束正昭先生からのお声かけで、聖霊刷新協議会の全国大会で証しする貴重なチャンスを頂きました。その当日、手束先生が語られたメッセージから、私はあの有名なクラーク博士の言葉の続きを学ばせて頂きました。"Boys, Be Ambitious!!"の後に"for Christ"(キリストのために)が続くことは知っていたのですが、これにさらに"and Japan"(日本のために)が続いていたのだということでした。

 "Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. "(それは金銭や我欲のためにではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってはならない。)
 肉の思いでなく、聖霊の声に聞くことが大事なのだという教訓も学ぶことができました。さらに、「自虐的歴史観が国を滅ぼす。」というご示唆も頂きました。聖霊の力によって常に「健全なセルフイメージ」を持つことが大事だと言う教訓も賜りました。手束先生が語られた例えばなしは、スペインで「インディアスの破壊についての簡潔な報告」というラス・カサス神父の書物が、スペイン人の「イスパノ・フォビア」(スペイン嫌悪)を誘発させ、スペインの衰退を生みだしているというものでした。

「イギリスを自慢するは、イギリス人。
ドイツの悪口を言うのは、フランス人。
スペインの悪口を言うのは、スペイン人。」

以上のようなジョークがヨーロッパでは言われるそうです。また、「あなたの国に誇りをもっていますか?」と中学生に聞きました。「はい」という回答の割合は次の通りだったそうです。

中国92%
韓国71%
日本24%

「健全なセルフイメージが成長と繁栄に不可欠である。」
これが、私の感想です。そのためにこそ、聖霊の声に聞くことが大事。「日本は悪いことをした。」
だから、「日本を世界に誇ることはできない。」このような考え方をすることがインテリだと考える日本社会の風潮にも、大いに危機感を感じました。

「少年よ!神と祖国のために、大志を抱け!」
これがクラーク博士が北海道大学(札幌農学校)開学の頃、日本の若者たちに残したメッセージ!私は、あらためて自分の選挙スローガン「日本を愛し、世界に向けて日本を主張する」という私の思いを大いに励まされた思いがいたしました。

 さて、私の参議院議員になって、TPP交渉、領土問題、外交、安全保障、エネルギー問題などで、日本を愛し、世界に向けて日本を主張するという18歳ころ見た「幻」は実現しませんでした。あまりにも大きな選挙戦に勝利することが出来ませんでした。選挙に敗れると、色々なことが問題点として心に浮かび上がってくるものです。しかし、候補者は、「すべて私の不徳のいたすところです。みなさまのご支援を当選という結果につなげることが出来ず、申し訳ありませんでした。」と総括するしかありません。6期23年間務めた市議会議員を辞職し、経営を任されていた英語塾も離れ、生活の糧を失い、自己資金を使い果たし、大きな借金を作り、何よりも連日、自分のことのように物心両面で支え続けてくれた支援者たちを落胆させ、厳しい現実に直面すると、クリスチャンといえども、傷つき、ぼろぼろになった気持ちになるものです。
「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(マタイ6:28-29)
 このような御言葉に励まされながらも、「自分の不徳」という総括の言葉から、心に浮かんでくる「自分はダメだ」という思いに打ち勝ち、自分自身の「健全なセルフイメージ」を維持するには聖霊の力が不可欠です。祈る言葉も出なくなり、苦しい自責の思いがさらにネガティブなスパイラルを生み出す。苦しい。
 18歳のころ、アメリカで神様を信じると心に決めた瞬間、混沌とした私の心の玉座に聖霊が下り、私の心の混沌としたものが瞬時にしてサッと秩序に変わり、圧倒的な主の臨在に包まれた感動と感覚は今も鮮烈に心に刻まれています。
 それ以来、20代の私は何をするにも迷いがありませんでした。まさに、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。」(イザヤ30:21)この御言葉どおりに、28歳で地盤(組織)・鞄(資金)・看板(知名度)といったいわゆる「3バン」なしに、市議会議員へと駆け上りました。失うものが何もなかった私に、市議会議員という立場とバブル経済の恩恵が手放すことのできない何かに変わったことで、聖霊の声が少し遠ざかったような気がします。
 11年前に市長選挙に落選したころ、私はクリスチャンであることを公言するようになり、二度と負け選挙はやらないと心に決めましたが、今回また、同じような結果を招いてしまいました。祈り、備え、これが主の戦いであるという確信を持って臨んだはずでした。クリスチャン政治家として、この国と人々のために国政で働くことが主の御心なのだと信じて、すべてをかけて戦いに突入しましたが落選しました。
 もともとクリスチャンの国である欧米社会や急速にリバイバルの進むその他の国々との数々の平和的な外交交渉を進めていくためには、聖書の歴史観、聖書の価値観、聖書の信仰の奥義を共有した政治家が日本にも必要であり、自分にはそのような使命が神様から与えられているのだと今でも思えてなりません。
しかし、生活の糧、政治活動の経費、次期選挙の費用といった政治家を続けるために必要な三重の経済をどう立て直していくのかに直面しながら、果たして主はこれからも私に政治に関われと言われるのか、それとも新しい人生を開かれるのでしょうか。その確信がありません。聖霊により強められ、聖霊による確信を求め、まさに聖霊刷新が私個人の内にも引き起こされるよう祈り求めています。そして、個人も民族も国家も、聖霊刷新による健全なセルフイメージの回復なくして、成長も主からの祝福や繁栄を拡大することは出来ない。これが今回の全国大会に参加して、私が学ばせていただいた重要なポイントです。主の霊がすべての日本人に降り注ぎ、日本にもリバイバルがやってくることを祈り、私にも為すべきことを為させて頂けますよう祈ります。





聖霊刷新第8回全国大会に参加して(2)ー今までの中で一番平安満ちていたー

 聖霊刷新第8回全国大会に参加して(2)
 ー今までの中で一番平安に満ちていた― 
 小樽聖十字教会牧師 小栗昭夫


 1998年1月26日付で「日本キリスト教団聖霊刷新協議会・結成趣意書」が発行されてより、今年で15年の歳月が流れました。この間に、記名、あるいは匿名で多くの賛同者に名を連ねて頂きました。
 協議会の目的は、趣意書に明確に記載されてある通り、日本キリスト教団のカリスマ刷新が推進され、教職、信徒が聖霊の恵みを体験し、新しい信仰の世界の広がりを喜び生きようとしているにも拘わらず、周囲の無理解による様々な圧力や攻撃に耐えかねて担任教会を辞任したり、果ては教団から離脱してし
まうケースが後を絶たないことへの憂慮から、何とかして「カリスマの恵みを体験した者同志が互いに助け合い、励まし合い、祈り合う」場を共有し、日本キリスト教団全体に聖霊の働きが浸透し、満ち溢れることを願っての結成でした。
 そのためのプログラムとして、全国規模で広く呼びかけ、毎年7月の「海の日」に全国大会と教職者大会を隔年ごとに開催してきました。これら全国大会にしても、教職者大会にしても、実務的な働きは全て高砂教会のスタッフの皆さんにお委ねする形となっており、その労を深く感謝しております。
 こうして、今年は第8回全国大会の開催の運びとなり、参加者一同大きな恵みの中でこの日を迎えることが出来ました。
 今年の大会全体の印象は、個人的には今までの中で一番平安に満ちた大会だったのではとの印象を持ちました。それはどのような理由によるものだったのか、北海道に戻る飛行機の中で考えていました。そこで気付いた幾つかの点をまとめてみたいと思います。

 まず、一番目は、プログラムの流れがバランスよく構成されていて、肩に力が入った緊張感よりも、むしろゆとりをもって楽しみを分かち合える霊的な雰囲気に包まれていたのではなかったか、と思いました。
 もう一つは、メイン講演が協議会代表の手束正昭先生によるものであったこと、つまり、全てが協議会当事者、関係者の手によるものであったことも、所謂、自前の大会、手作りの大会としての親近感に満たされていたのではなかったか、と感じたのでした。
 特に、手束先生のご講演は、これ迄も繰り返し語られ、又、機関紙や書籍を通して広く訴え続けてこられたことのまとめとして、これからの協議会の担うべき課題や必要を再確認する上で大変示唆に富んだ重要なものでありましたので、伺う側にとっても有益な学びとなったのではないかと思いました。
 中でも、戦後60年間に亘り、負の感覚を植えつけられたまま、内面から崩壊してしまっている日本の若者には自国への誇りがすっかり失せてしまっており、最早、将来への希望も持てなくなってしまっている、こうした日本にいのちを回復させることが出来るのは聖霊の力以外にない、とのご指摘は、聖霊の
働きが、ただ「教会」の中だけのものではなく、国民、国家のありようにも深く関わるものであることを指し示すものとして、我々はしっかり心に留めておくべきものであることを改めて学ぶことができました。
 こうした主題講演の前後が、特別賛美や証し、賛美舞踊等で囲まれたことも、プログラムの流れを大変心地よいものにしてくれて感謝でした。
 又、午後のスケジュールについては、今回は「交流と研鑽の時」と銘打って、10の分団に分かれて昼食を頂きながらの語り合いと交わりの時を過ごしましたが、この時間帯は、従来は各分団が個々の目的をもった学びと実践の時として用意されたものでした。しかし、今回は、参加者相互の交わりに強調点を置いた自由な時間として生かして頂くことにしたものでした。この方法は、遠来の参加者がただ聞くだけで終わることがないよう、交わりを通して個人的な意見や現状報告などを自由に語りあえる場として生かせたら、との配慮によるものでしたが、何かを学びたい、との願いをもって参加した方々には充分に生かし
切れなかったかもしれない、と感じました。
 しかし、限られた時間と1グループの人数のバランスの中で自己紹介の範囲を超えれなかった分団もあったことと思いますので、これからも分団の生かし方については継続意的な課題であろうかと思います。
 以上、帰りの飛行機の中で、又、新千歳空港から小樽までの列車の中で、いろいろと思い巡らせた事柄の一端を記させて頂きました。




聖霊刷新第8回全国大会に参加して(3)ー「聖霊がほしいですか」「もちろんです」ー

 聖霊刷新第8回全国大会に参加して(3)
 ー「聖霊がほしいですか」「もちろんです」ー
 元カネボウ薬品社長 三谷康人
 荻野由紀


 べテル清水教会で初めての受洗者として大切に育てていただき、子どもたち3人と共に信仰生活を送っています。育児を通し知り合った友人を招きホームチャペルを我が家で開いています。家を用いることで祝福していただきたいという思いで始めたものでしたが、神様は次第に友人の救いを願う思いを持たせてくださいました。身近な人になるほど伝えることの難しさを感じ。なかなか救われる人が現れない現状に、何が足りないのだろうか?とノウハウの試行錯誤ばかりしてきました。自分の生活も忙しく肉体も疲れている中、友人の救いの為にもよく動いているのにどうして!と行き詰ってきました。追いつめられて出た結論は、聖霊が働いていただかないと救いはないということでした。どうしたら聖霊は働いてくださるのか?聖霊の働きを妨害しているのは私なのか?と聖霊様を切に求めだしたときに聖霊刷新の開催を聞き、行ってみようという気持ちに動かされました。
 べテル清水教会の誕生とともに成長してきた私は、教会の祈りの課題が自分の祈りの課題と同じく思え、教会をまるで兄弟のように感じています。そして今、私に与えられた聖霊を求めるという段階も、べテル清水教会にとっても必要なことでありました。井上牧師、櫛谷姉、中川姉、藤井兄と5人で聖霊を頂きたいという熱い思いで臨みました。聖霊はどのようにして私に触れてくださるのだろうか?こんな私でも?という不安と焦り。ここへ来て聖霊を頂けなかったらもう後はないとまで追いつめられていましたから、分団での分かち合いの時間も表面上は落ち着き払いつつ、その時はいつ来るのだろうかと探っていました。私たちはこの聖霊刷新の中で聖霊をいただきたいと焦っていました。礼拝の献金の時には、「神様!このままの私で帰すなんて納得しませんからっ!」と神様の前にたたきつけるような祈りと共に献金箱に入れたほどです。
 そして祈りのとき。讃美の中、先生方に按手の祈りをしていただく列に私たちは期待を持って並びました。しかし私の心にはまた最初の不安が起こります。こんな私でも?という思いが。その思いを察して中川姉妹が後ろから肩を抱き「緊張しないで!大丈夫!」と励まし続けてくださいました。いよいよ順番となり、手束先生の前に立つと先生の顔がまぶしく感じました。「聖霊がほしいですか」という問いに「はい」(もちろんです!)と答え按手していただきました。するとまるでお酒に酔ったように体がまっすぐに立っていられません。自分に起きていることがにわかに信じられず後ろへ引っ張られる力に抗いましたが、耐えきれずに後ろに倒れました。このまま眠りたいと感じながらふらふらした足取りで席に戻りました。これが聖霊様?その後祈りの時間が終わるまで感謝の涙が静かに流れました。
 不思議な体験に夢うつつになりながら立ち上がり、今日の目的は達成したと席を立ったところへ、神様はまたすばらしいことを起こしてくださいました。分団で私たちのグループのリーダーをしてくださった小森先生が、まっすぐ私たちに向かって駆け寄り、止まるやいなや唐突に「異言の祈りはできますか!?」と問われました。あまりの勢いにあっけにとられました。また、異言を頂いたことはあり時々祈りはしていましたが確信が持てずにいたので、どう答えたものかと口はぱくぱく、目は泳いでいました。落ち着きを取り戻してそのことをお話しすると、小森先生は聖書の箇所を示して「それは異言です。疑わずに祈り続けてください。」と熱く語ってくださいました。今まで確信が持てずに疑っていた異言の賜物を力強く肯定していただいて、もやもやとしていたものが晴れ、喜びに満たされました。「今からあの部屋で祈りましょう!」その小森先生の一言に櫛谷姉、中川姉、藤井兄の私たち4人は待っていました!と返事よりも足よりも早く体がドアへ向かっていました。神様が聖霊を求める私たちの執念に対して小森先生を遣わしてくださったこと、そして4人ともが聖霊の働きを求めて一瞬の戸惑いもなく小森先生の背中についていったことにも感動していました。
 皆で異言での祈りをし、これからが始まりだという期待感で胸がいっぱいになり、帰りの車中もこの日の出来事を分かち合い皆の心が沸き立っていました。
 これから異言での祈りが楽しくなりそうだ。今年中に何かが起こるかもしれないという私たちの期待は、あまりにもちっぽけなものだったと1週間も経たないうちに思い知らされることになります。聖霊刷新から数日のうちに、何年もホームチャペルに来るだけで満足していた姉妹が自ら洗礼を受けると告白する場面に立ち会い、また異言で祈る時間が多くなる不思議を体験しました。私たちの力や考えで押しても引いても動かなかったことが、神様が与えてくださった聖霊を喜びだした途端に動きだしました。あまりにダイレクトな聖霊の働きを目の当たりにし、ありえないと思う私たちの理性が聖霊様の働きを制限してきたのだと実感しました。次々と人の力ではおよばない霊的な経験をし、聖霊刷新からの日々がとても濃い内容となっています。この導きに感謝します。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして天の父は求めるものに聖霊を与えてくださる。
 ルカによる福音書 11章9節~13節





聖霊刷新第8回全国大会に参加して(4)ーそれは「いのちの刷新」であるー

 聖霊刷新第8回全国大会に参加して(4)
 ーそれは「いのちの刷新」であるー
 鷹取教会牧師 上條 悟


 聖霊刷新全国大会に出席し、次のようなことを考えました。
 言うまでもなく、御霊こそ信仰の生命である。そもそも御霊の働きなくば、イエスをキリストとも告白し得ない。「イエス・キリスト」とは、イエスがキリストであることを表すばかりではない。ただ聖霊のみが、キリストの生命を人に宿すことを為し得るとの、厳粛な宣言の言葉である。聖書の御言葉とそれは示す真実は、ただ人間の知性をもってのみ弄くることを許さない。上よりの御霊をもって示され、御霊をもって刻まれた「神の言葉」の真実は、私たちが、ただ砕かれて御霊を仰ぐ時にのみ、その意味を明らかにする。
 信仰とは「いのち」である。うちひしがれ、うずくまり、倒れた人を再起させ、ふたたび生かす、「神のいのち」である。その「いのち」は、教訓の中にはない。ただ御霊の中にある。ゆえに主イエスは、聖霊によって宿られた。上より注がれるこの「いのち」なくば、「人はこうして生きるようになった」との創世記の言葉も空疎なものとなる。キリストと共に生きる、とはそういうことなのだ。それを私たちが、それぞれの人生において実感することなのだ。神によって吹き入れられる息こそ、霊的生命である。人はこれなくば死ぬ。単なる「土のちり」となって生きねばならぬ。人はその虚しさに耐えられない。耐えられぬように創られていることこそが、人の栄光である。死ぬとは、神との関わりを断絶せられた場所で我々が生きつづけなければならないことを言う。人は、いくらでも生きながら死ねるのだ。ゆえにその「いのち」は常に刷新されなければならない。聖霊を注がれない時、人は礼拝に出ていても死んでいる。
 御霊は「刷新」の霊であるとともに、「待ち望み」の霊である。我らが常にそれを待ち望むように。御霊御自身が我らとの出会いを切に待ち望んでおられる。そして御霊みずからが弱い私たちを励まして「待ち望み」を「教える」のである。私たちに「目に見えない事柄」を望むことを教えるのも御霊である。それを教えながら、我らに忍耐を与え続ける御霊。私たちはこの御霊に触れる時、「望み」と「忍耐」とが固く繋がっていることを知る。と同時に、信仰においては「喜ばしき忍耐」というものが存在する。それを「待ち望み」を通して教えられるのである。
 そういう働きを持つ信仰の「いのち」なる聖霊とは、どこから注がれ来るものであろうか。十字架である。十字架の福音あればこそ、聖霊は生きて注がれる。そもそも「十字架の福音」それ自体、御霊の働きなくして人に届くものではない。罪の贖いも復活も、ただ聖霊がその意味を明かす。私たちが教会に集う喜びはそこにある。この聖霊の注ぎを共に受ける交わりこそが、唯一、私たちの真の「交わり」である。なぜなら、それこそが私たちの真の「喜び」だからだ。その喜びは絶えず「刷新」されてゆかねばならない。聖霊は朝ごとに新しい。それに伴って御霊に生かされる自分の生命も、そして信仰も、常に新しいと、私たちは常に言えなければならない。
 同時に聖霊は、我々に、人間の分際ということを教える。私という、ただの「怒りを受けるための器」をいかに神が寛容に忍ばれたか。そしてそれを「憐れみを受けるための器」として下さったか。その事を教えるのも、十字架の何たるかを明かす御霊である。神がキリストを遣わされて、そのキリストが十字架という一番低いところに立たれて、それによって実は最も深く、「神が神であること」の真実を願わし給うたということ。それもただ聖霊が教える秘儀である。
 人間は、悔い改めれば「悔い改めたこと」が誇りになり、憐れみを注がれていれば「憐れみを受けていること」がまた誇りになる。そういったまことに厄介で複雑な生き物である。そして、いちばん砕かれにくいのは、実は私たち信仰者自身である。熱心な信仰者ほど世に砕かれにくいものはない。なぜか、みんな偉いからだ。立派だからだ。みんな選ばれているからだ。そういう〈自負〉を持って、みんなが義を求めて生きているからだ。常に十字架に出会わねばならないのは、むしろ私たち信仰者の側である。十字架の下で信仰を育てるためではない。逆である。キリストの十字架の下で、〈自分の信仰〉などという小賢しいものが、こっぱ微塵に、それこそ跡形もなく砕け散るためだ。そして、己の徹底して罪人なることと、信仰者として無力なること。これを、いやというほど示されるためである。神を本当には信じておらず、神の義に純粋にすがっていない自分というものを、十字架において暴かれていくためだ。そこから信仰の歩みは始まる。つまり、本当の、真実の刷新「いのちの刷新」は始まっていくのである。そのこともまた、ただ、聖霊のみが可能にする。

              






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