月報 2014 2月

タイトルをクリックしてください        

「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(1)ー内なる人が聖霊の取り扱いを受けるー

 「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(1)
 ―内なる人が聖霊の取り扱いを受ける―
 塩 河 幸 子


 「祈りは問題解決の最善の方法である」このことが心の内にあるのに、なかなか祈祷会に行けないでいたのですが、娘が体調を崩したことがきっかけで水曜日の祈祷会に行きました。
 その日は、アシュラムについての証しがありました。アシュラムの『ア』には二つの意味がある。一つは「自分では何もしない」もう一つは「神様の御心であれば、聖霊様を通して与えて下さる力によって、何でもする」ということです。この証しの後、病と闘っておられる姉妹が、笑顔で何でもないかの如く、祈りの課題を言われたのです。(実は、大変なところを通っておられた)その姉妹の姿を見て、娘の病で落ち込んでいる自分とその姉妹の信仰の違いを思わされました。
 祷告課題を出されたこの姉妹には、神様への揺るぎない信頼があり、主に委ねる信仰がある。それに比べ、私にはまだ、試練に遭うと動揺してしまい、自分の力でなんとかしようとする、信仰の弱さがあることに気がつかされました。
 アシュラムの証しと、病の中におられるこの姉妹への祈り中で、アシュラムに参加しようという思いが与えられました。
 仕事の都合で途中からのアシュラム参加でしたが、多くの恵みをいただき感謝でした。
 福音の時、手束先生が御著書「キリスト教の第三の波」の中から〝内なるいやしの提示〟について分かり易く語って下さいました。
 神の霊が人間の霊を包み、浸透し、人間の無意識の領域が変化していく。そのことが、人の精神や肉体に変化を及ぼしていくことを図示しながら語って下さいました。この講義を通して人の心の深層部分にある無意識の領域に対する聖霊の取り扱いの必要性と聖霊に満たされ続けることの大切さを感じました
 ロゴスとレーマの峻別では、神の意志である御言葉が聖霊と一つになって人に臨む時、その人にとって特別な意味を持ち、深い聖なる感動を与える。その時、その御言葉はレーマであることを学びました。
 後日、聖日礼拝で手束主任牧師先生は、これまでのご自身の歩みを通して、レーマをいただいたら ①これは神から来た言葉だと確信する ②レーマとしての御言葉を目につく所に掲げ反芻する ③感謝の祈りを捧げることを証しして下さいました。先生のメッセージを聴いて、先生の生き方がブレないのは、いただいたレーマをしっかりと握っておられるからだと思うとともに、レーマとして御言葉をいただくことの大切さに気づかされました。「これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である」そのようなファミリーの兄姉でした。多くの試練を越えてこられ、今輝いておられる兄姉は「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す。希望は失望に終わることはない」という御言葉の証し人でした。御言葉を通して働かれる聖霊様からの力を得て、どのようにして試練を乗り越えてきたかを証しして下さいました。この分かち合いの場に聖霊様が臨在して下さり、これまで問題として私の心に重苦しくあった事が問題ではなくなり、神様から与えられた恵みとして受け止めることが出来ました。
 アシュラムに参加して、レーマとしての御言葉をいただき、内なる人が聖霊の取り扱いを受け新たにされたことに感謝しています。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」
         (エレミヤ二十九・十一)













「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(2)ー感謝の思い溢れて、涙とまらずー

 「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(2)
 ―感謝の思い溢れて、涙とまらず―
  新 谷 園 子


 今回の高砂聖霊アシュラムは、私にとって二回目のアシュラムでしたが、健康も環境も守られて、参加させて頂けた恵みを、心から感謝しています。
 アシュラムに参加する前に、私は二つのことを祈りつつ臨みました。一つ目は、日常生活から離れ、じっくりと静まりつつ御言葉をいただきたいということでした。私は、今年度娘が通う幼稚園の育友会の会長をさせて頂いています。多くの出会いが与えられ、証しさせて頂く機会が与えられたり、教会の集会に来て下さったり、少しずつ導かれている人も起こされ感謝な反面、慌ただしく一日一日が過ぎていき、デボーションの時間も、じっくりというより短時間で済ませてしまっている感じでした。ですから、アシュラムの時にじっくり御言葉を頂いていきたいと願っていました。二つ目は、教会がいろいろな面で変わろうとしている今、私に必要な御言葉を与えていただきたいということを祈りつつ、臨みました。
 アシュラムに参加して、一回目の静聴の時は、ピリピ一章三~十一節の箇所が与えられました。静まってじっくり御言葉を読んでいると、六節の〝良いわざを始められた方〟という箇所が心に迫ってきました。私にして下さった良いわざを思い巡らし、救われた事、救われてからの事を一つ一つ感謝していきましたが、そこから遡って、神様が存在して下さったこと、イエス様の救いがなされたこと、創世記の初めから聖書をたどるように、一つ一つ感謝の思いがあふれて、神様の御手に抱かれているような感覚になり、ずっとそこに留まっていたいような平安に包まれ、涙がとまらなくなり、とても感謝な時を過ごすことが出来ました。日々の慌ただしさの中では、なかなかここまでじっくり静まる時が持てていなかったので、とても恵まれた時を過ごすことが出来て感謝しました。
 静聴の後には、ファミリーの時があり、恵みの分かち合いがなされました。メンバーお一人お一人のお話しもとても恵まれ、共に祈り合う時が持てたことも感謝でした。
 祝福されたアシュラムの時を過ごさせて頂いていましたが、讃美夕拝の後に私の内側を取り扱われる出来事がありました。あることが心に引っかかってしまって、頭では捕らわれてはいけないと分かっているのですが、色々考えてしまい、また違うこともからんできて、どんどん否定的な思いに落ちこんでいってしまいました。夫も関係していることだったので、夫に対しても苛々した態度をとってしまっていました。そんな気持ちのまま最終日を迎え、静聴の時を持ちました。ピリピ四章一~九節の中で、四、五節の〝あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容をみんなの人に示しなさい。〟の御言葉が与えられました。状況や感情に振り回されてしまったことを悔い改め、いつも喜び、寛容でありたいと思わされました。聖霊様の助けを頂きながら、そうありたいと願っています。
 今回のアシュラムでも多くのめぐみを頂けたことを心から感謝しています。これからも日々御言葉を頂きながら、豊かに実を結ぶ人生を歩ませて頂きたいと心から願っています。







「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(3)ー邪魔されずに過ごす、心地良い時間ー

 「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(3)
 ―邪魔されずに過ごす、心地良い時間―
  ジーザスハウス牧師  山 本 祐 造


 昨年三月から、日本キリスト教団高砂教会と手束正昭牧師による助けによって、教会執事の研修会を開催してまいりました。教会員にとっては、目からウロコのような研修内容が多い中で、それを受け入れようとする結果、良い実りを見つつあります。
「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(列王記上十九章十一~十二節)
 神との語らい。私の普段生活で行っては居りますが、聖別された環境に身を置いて四日間、というのは非常に少ないのです。人から邪魔されずに過ごす、心地良い時間でした。また、祈りで聖められた高砂教会の聖堂で、祈りに費やす時間の恵みに感謝でした。私は聖地キデロンの谷の対岸から観る旧市街地のエルサレムが好きです。神が特別に扱われた町です。マタイの福音書二十三章三十七節と、ルカの福音書十三章三十四節で主イエスは、『ああ、エルサレム、エルサレム。…わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。』と嘆かれました。これを読むだけで、エルサレムに対し、どれほどに神のお心が注がれ、愛されたかを察せられるのです。彼らは、その愛に気付かなかったのですが、今の私たちは、それを知る者であり、神に向かって応答出来る者とされている恵みに、感謝します。
【沈黙の時】普段の就寝直前は、一日の全てを感謝し、また委ねて、「明日のために寝るぞ」ですが、このときは、違っていました。神に尋ねながら一人、静かに聖句に向かい合う。思い巡らしながら寝入りました。まるで、夢の中で天使に出逢うかのようで、静かな夜でした。
【静聴の時】各人が〈主のしもべ・主のはしため〉を告白する時でした。「主よ、お語り下さい・・・」。提供された聖句ではありますが、語りかけてくる。神が人に語られる時には、人と人の会話中に割り込んで語ることをなさいません。心を集中して静かに耳を傾けて聞きたいと、思いました。
【ファミリー】証しのときです。自分が置かれている環境や状況の中で、今の自分を露わに話され、隠し事が何も無いのを、ハッキリ知りました。それに加え、神様が働いて居られる様子がよくわかりました。まさしく家族です。愛をもって、互いのために祈りあいました。私のファミリーは、一番高い所の部屋でした。一番天に近い部屋でした。
【福音の時】「キリスト教の第三の波」から講義を頂きました。沈黙や静聴の時、各人は神のみ前に全く自由な時間を過ごすことを許されています。このとき、氷上スポーツのカーリングのストーンを思い浮かべるのです。ハウスに向かってストーンを滑らせる。点数を稼ぐために、作戦を練りながらストーンの方向やスピードをブラシやブルームを使って調整する。ストーンはフリーでありながら、全くのフリーではないのです。導かれているのです。全く自由な各人が、神の導きの流れに乗れるように感じました。主のご計画と、み業に感謝します。




「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(4)ー何かが変わる、何かが起こるー

 「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(4)
 ― 何かが変わる、何かが起こる ―
 伊那坂下教会 柴 政 則


 「あっ、こんなに大きいのか」、思わず青空の十字架を見上げた。大きな教会が片側二車線道路の大通りの前にたたずんでいた。日陰に雪がない、大地が暖かい。来た、ついに来た、遠かった、イエス様、杖一本で来ました。二人でなく一人で来ました。寂しかったです、我が教会でここに来るのを知っているのは菊地牧師先生夫妻だけですもの。でも、同じ主を信じる同胞が迎えてくれる。恐れることはない主が共にいてくれる。そう、そうさ、私の魂は知っている、ここに来る目的を。牧師先生を助ける者になるため、光の武具を身にまといサタンと戦える者になるため。何が待っているのか、私がどうなるのか分からぬけれど、主のお導きを信じて、ついに来た高砂教会へ、第十八回高砂聖霊アシュラムへ。
 聖書を読まない話さない話せない信者、さらに教会内部にも人間社会と変わらぬ争いがある。洗礼を受け十ヶ月の私はその実存を知り驚いた、これも真実なのか。そのような中、断食をしている人間を初めて見た。それは菊地啓示牧師先生でした。その後、八月礼拝での証奉仕と前後して、私の信仰生活は激変して行きました。いまさらなれど、聖書に書かれている癒やし、悪霊、異言、預言は、比喩や喩えではなく、す、すべて、みな真実なのか!
 さっそく聖霊刷新協議会の会報誌を取り寄せました。カリスマ運動! ?…う、受けとめてみようと思いました。そんな中、九月にペンテコステ派の研修会が、十月には礼拝へと導かれました。驚いた、この活気、この賛美、ギターにドラム!そして握手された。聖霊という言葉が普通に飛び交い歌い賛美し感謝する世界、聖霊のバプテスマ!?主よ、私に何をさせようとしているのですか、何処へ向うのですか?
 そして、菊地牧師先生から聖霊アシュラムにのことを聞いたのは、十一月二日でした。申し込み締切は十一月三十日。牧師先生は強要はしません。わ、わかっています、行く行かないを選択するのは私です。い~え、主の導き、聖霊の働きです。 『キリスト教の第三の波』と『続キリスト教の第三の波』を読みました。そうか、聖書は聖霊の導きのもと人間の知恵と力で書かれたのか、そうか、そうなのか、だから再読、通読が苦にならず、今まで読んだ文豪が聖書の中にいるような、全てが詰まっているような不思議な気持ちはこれだったのか。そうか、パウロが手紙を書いた頃は新約聖書はなかったんだ! 聖霊に満たされた三位一体の初代キリスト教信仰に感動したのです。これは、行くしかない、アシュラムへ、高砂教会へ。この気持、そうだ、あの時、あの時と同じだ、三浦綾子さんの書を読み「教会へ行くしかない」 と思ったあの時と同じだ。また、何かが変わる、何かが起こる。
 そんな中、ある事がきっかけでさらなる教会内部の実情を聞いたのでした。でも、そこには新たな風が吹いていました。ついに牧師先生が公に戦いを挑み始めていたのでした。それは、微動だにしない大きな岩のようでした。
 高砂聖霊アシュラムの恵みはたくさんありました。ファミリーという主と意を同じにする兄弟姉妹と、一年間祈り合える賜物を頂いたのが一番です。また 『忠実なしもべよ』 の譜面を頂いて帰り、それを菊地晴美先生がオルガンで奏楽し三人で賛美しました。 この賛美を大勢で歌える時が来る、必ず来る、涙しました。
 聖日最後の 「招きの時」 に按手を受けました。そして、水曜日夜に持たれている伊那坂下教会の祈祷会で、牧師先生の指導をいただいた後、異言で祈る事ができるようになりました。
 キリスト教信仰に、このような恵みがあるとは思いもよりませんでした。聖霊アシュラムに導いてくださった主に感謝します。そして奉仕してくださった兄弟姉妹に感謝します。「今度来る時は、一人ではなく二人三人で来ます」と宣言して高砂教会を後にしました。 ハレルヤー!
 また、いつも私を護り続けてくれておられる菊地牧師先生夫妻に感謝します。 「わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」 (一テモテ四・十三〈共同訳〉)。これからさらに、ロゴスとレーマ、聖霊様の働き、そして御霊の実を成長させていこうと思います。




「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(5)ー動と静とがぴったりと融合しー

 「高砂聖霊アシュラム」とは何なのか(5)
 ― 動と静とがぴったりと融合し ―
 西明石福音ルーテル教会 高 橋 孝 美


 私は二十二年前に、高砂教会にて手束牧師先生より洗礼を授けて頂きながら、心の弱さ、信仰の未熟さ、鬱という心の病故に高砂教会での信仰生活が全うできなかった者ですが、神様の不思議な導きで、一昨年の手束牧師御夫妻牧会四十周年記念の聖地イスラエル旅行に参加させて頂き、またこの度のアシュラムにもお誘い頂き、神様からの恵みにただただ驚くばかりです。暖かく自然に迎え入れて下さった愛に心から感謝致します。
 高砂の教会員であった頃には、一度もアシュラムに参加することもなかった私が、時を経て懐かしい香りのする聖堂でオリエンテーションを待っていると、直ぐに開放された明るい空気を思い出しました。アシュラムの最初から最後まで聖霊様が豊かに働いておられるのを肌で感じました。今まで、静けさと御言葉なる主御自身の命と力だけを求め続けていた私の内に、今回礼拝やアシュラムのプログラムをひとつひとつこなす間に、静と動がぴったりと融合しました。とくに賛美をしていると、私の内側が喜びと感謝で躍動するのです。私の中の霊と会衆の皆様の周波数が響き合いひとつとなって主を讃える喜びに満たされました。静かに祈りをもって礼拝を待ち望み、豊かなメッセージと祈りの賛美で聖霊の動きを感じ、また静かな祈りをもって礼拝の恵みを内に留める静・動・静のリズムの中にある、聖霊のダイナミックな働きに感動しました。アシュラムの講義を通して、高砂教会で洗礼を授けて頂いてから二十二年間の私の信仰の歩みが、聖霊様の取り扱いを受けて一歩一歩進められ、今日に至ったことを総括でき、ひとつに繋がっている事に気づかされました。
 聖霊のバプテスマの後、内なる癒しが始まり、私は寝たきりの鬱状態になりました。二年目の修養会で講師をされた友納牧師の伊都教会で、転地療法の勧めがあり、私は一大決心をして、夫と息子を残し、信仰だけに望みを賭けて一年余り九州で過ごすことにしました。その一年の訓練と治療を通してレーマを頂いた体験を、この度手束先生の講義から確認できたことも恵みでした。ある日、詩篇の第二篇七節「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」という御言葉が私に語りかけてきました。私は何か大きな存在に包まれ、一体となったような、今まで体験したことのない次元の違う大きな歓喜に導かれ、涙が溢れ長い長い時間泣き止むことができませんでした。これがロゴスがレーマになる体験でした。今回のアシュラムで、その御言葉を信じ感謝し、紙に書いていつも目の届く所に貼り、反芻して咀嚼することを手束先生から教えて頂きました。
 アシュラムで与えられたピリピの御言葉を聴く内に、二章一~二節の「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」に導かれ、十一節の「『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父なる神を讃えるのです」という業に参与させて頂きたいという思いに至りました。
 夫が六年前に帰天してからというもの、体は礼拝に繋がっていても、何かが足りない、何をしても虚しく喜びがない閉塞感の中にいました。残された人生をどのように生きていけばよいか模索していました。このピリピの御言葉を頂いて、私は聖霊様に飢え渇いていたことに気づきました。夫が召される瞬間に垂れ幕のようなものが降り、様々な感情に覆い被されて神様が見えなくなる暗闇にいた私に再び生きる意味を思い起こさせ、新たな生きがいと喜びと招きの言葉として語りかけて下さった主に、心から感謝致します。底を突く辛い体験を超えて、より新たな深い神と人との絆を結ばせて頂いたことを主に感謝します。

日本キリスト教団 高砂教会  
〒676-0015 兵庫県高砂市荒井町紙町1-34  TEL-079-442-4854 FAX-079-442-4878
Copyright (C) 2010 Takasago Church Corporation. All Rights Reserved.