月報 2014 7月

タイトルをクリックしてください        

「文は人なり」の講演を聴いて(1)ー聖霊のダイナミズムがストンと胸の内にー

 「文は人なり」の講演を聴いて(1)
 ―聖霊のダイナミズムがストンと胸の内に―
 塩 河 幸 子

 大門英樹氏の講演会「文は人なり」が高砂教会研修センターで開かれることを知り、その日を心待ちにしていました。
 大門先生は「文章を読めば、その人の志す方向が分かる。」とおっしゃっていました。また、手束先生が書かれた全ての著書を読まれ、分析された結果、手束先生の文章には①艶(つや)がある②明晰である。③余韻がある、と語られました。
 多くの著書の中でも、特に旅の見聞録は、あたかも上質の推理小説を読むような〝おもしろさ〟を感じると言われましたので、私も「続・聖なる旅」の中の、「中国・景教の源流を辿る旅」を再読してみました。すると、そこに書かれている文章から、大門先生のおっしゃる〝古人の求めたるところを求める〟手束先生の究道者としての姿勢が伝わってきます。聖霊、カリスマによるダイナミックなキリスト教(景教)への体質改善の必要性がくり返し記されており、この手束先生の高い志が、〝古代日本は、景教の影響を受けており、既に日本民族に植え付けられている福音の種を発見し、如何に芽を出させ花を咲かせるか〟という日本民族総福音化の運動へと繋がっていることを再認識させられました。また、学識豊かな手束先生の文章には、正確な事実、史実が多く提示されており、読む者を納得させてくれます。
 大門先生は、「読む相手を意識して書かれた手束先生の文章は、どんな立場の人に対しても対応でき、力は抜けているが気が込もっている。そして、①究める ②統べる(正確な事実、整った論理、明快な見解を常に提示する)③和らげる資質がうかがえる」と論評されました。
 「景教の源流を辿る旅」の中には、私の好きな文章があります。
―暖かい春の日射しを浴びながら、青龍寺の庭を歩いていると、多くの僧侶達と議論しながら、同じように庭を散歩しながら歩いている空海の姿が思い浮かぶ―
ここを読んでいると、タイムスリップして自分も青龍寺の庭を歩いているような気持ちにさせられます。
―恵果によって無上に評価され可愛がられた空海は、恩師の死後、深い虚脱感と空白感に襲われて、いたたまれず貪るように景教を求めていったのかも知れないと、ふと思った―
この文章によって章が締めくくられています。正しく、余韻の残る終わり方で、読後、いつまでも心地良さが残ります。
 このように、手束先生の文章は、確かな事実と文学的表現が絶妙のバランスで組み込まれており、知らず知らずのうちに引き込まれていくのです。大門先生のおっしゃる、〝艶(つや)のある文章〟とは、こういうものなのだと思いました。
 講演会後半では「続・キリスト教の第三の波」を例に、キリスト教の心髄がつかめる ①事釈(聖典に記されている事実)②理釈(事が成り立つ根拠)③歓心釈(事と理を自分の糧として活かす)、という三釈について語ってくださいました。
―過去の歴史上のキリスト(事釈)よりも、蘇って、今も生きて働いておられる命なるキリスト(理釈)こそが、私たちには決定的であるはずだ。…ここにはいない。では、どこにいるのか。私たちの内にである。キリストは聖霊として、私たちの内に生きておられる。私たちの命となって(歓心釈)―
この講話を聞いて、手束先生がくり返し書いておられる、キリスト教の真髄=聖霊のダイナミズムがストンと胸の内に入りました。
 今回、このようにして大門先生の講演をふり返り、手束先生の著書を再読する機会を与えてくださった主に感謝します。








「文は人なり」の講演を聴いて(2)ー牧師先生の文章の魅力の理由が分かったー


 「文は人なり」の講演を聴いて(2)
 ―牧師先生の文章の魅力の理由が分かった―
 上 瀧 美 奈

 大門英樹氏を高砂教会へお迎えし特別講演会が開催されることを知らされ、たいへん心待ちにしていました。それは、手束牧師先生の本を読む信徒の一人である私自身が、いつも感じ取りつつも曖昧になっている部分を、はっきりとさせながら共感することが出来るという思いからでした。大門氏と同様に私も手束牧師先生の文章を心地よく感じていたのです。特に本が好きだという訳ではなく、最後まで読み通すことが出来る本に出会うことはなかなかありません。そんな私が最後まで読みきり、然も何度も読みたいと思うのは何故なのだろうと思っていました。中でも「日本宣教の突破口」は、難しい内容も沢山盛りこまれた厚い本であるにも拘わらず、手束牧師先生の歴史に対する知識と視野、見解の広さや、人間理解の深さを学びながら、そして常に一貫したものが流れていて希望につながっているというものを受け取りつつ、どんどん読み進んでいったのです。そして文章に、明快ですっきりとした印象の快適さを感じていました。ですが私には分析するすべもなく、その感覚を言葉に表すことが難しいと思っていました。その様な私にとって大門氏の講演会はとても有り難いものでした。
手束牧師先生の文章は「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く書かれている」とのこと。そして有益な情報を伝達したい(啓蒙)、ウィットに富み良いリズム感がある(共感)、学ぶ意欲を刺激する(啓発)、これらが整っているということでした。
本当になるほどと頷きました。難しいことを誰もが理解しやすく面白く快適なリズム感をもって書かれている。だから、私でも読み切ることが出来る上、啓発を受け取って、もう一度読み、学びたいと思わされるのです。この様な完成された文章に加えて、その時に示される聖霊の働きが文章の中に入り込み、この本を覆う時、更に活きた本として用いられていく。そして信仰をもって読む私たちは感動し、励まされ、力を受けることができるのでしょう。説教集は勿論ですが、「信仰の表現としての教会建築」「続・聖なる旅」からも特に私自身その恵みを多く頂いています。
あらゆる文章を研究されてこられた大門氏の見識の深さに本当に驚き、学びを頂けたことを感謝しました。又、聖霊体験や早天祈祷に至るまで、深い理解を示され、そして手束牧師先生の性質を率直に語られた事は、とても面白く、あっという間に時間が過ぎて行きました。それは、一信徒である私の立場からは、ある一面から部分的にしか知ることができないのですが、その中で感じているものを重ねて、大門氏が読み取られる手束牧師先生の性質に大いに頷かされると同時に、更に深い洞察を伺うことが出来ました。文の中には書いた人の心が現れ、どんな人かが解る。これ程までに洞察し分析されることがあるのだと驚きました」。
 「統べる」「和らげる」という普通では収得することが出来ないような資質についても教えていただきました。天与の資質と余裕がなければ「和らげる」(力は抜けているが気がこもっている)ことは、出来ないのだそうです。ここでもまた、改めて手束牧師先生の賜物を再認識させて頂けたことは、私たち高砂教会員にとってとても大きな恵みでした。全てを導き治めておられる神様は、手束牧師先生になんと素晴らしい資質を備えられたのかと感動を覚えます。主なる神様は手束牧師先生の中にあるその素養を最大限に用いたいと願われ、その歩みをどれ程祝福しておられることでしょうか。その中に全ての出来事や経験、出会いが含まれ、この大門氏と手束牧師先生との出会いの意味の大きさには、正に神の意図と恵みを感じさせられています。そして神の御手の中で用いられ、これからも更に手束牧師先生の中にある潜在能力が引き出されて開花し、神のご計画の前進がどのような形になって実現されていくのかと思うと、期待を覚えて私たちの思いは祈りに変えられるのです。












日本キリスト教団 高砂教会  
〒676-0015 兵庫県高砂市荒井町紙町1-34  TEL-079-442-4854 FAX-079-442-4878
Copyright (C) 2010 Takasago Church Corporation. All Rights Reserved.