月報 2015 2月

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気乗りしない参加のアシュラムだったが(1)ー「第三の波」は霊の家族のルーツだー

 気乗りしない参加のアシュラムだったが(1)
 ―「第三の波」は霊の家族のルーツだ―
 籠 谷 裕 美


 数年前から毎年アシュラムに参加していますが、いつも参加前に葛藤を覚えます。主から聴くことは楽しく恵みにあふれていて期待を裏切られることもありませんが、なぜかアシュラムは行きたくなくなるのです。年末年始の慌ただしさの中で信仰が落ちているのか、家でもディボーションはできるという傲慢があるのか。だからこそ、アシュラムに参加する必要を感じています。頭の中では行かない理由が渦巻いていましたが、重たいお尻を打ちたたいてファミリーの部屋に向かいました。
 例年のごとくバラエティー豊かなメンバーが集まっていました。アシュラムの他と違う、特異性はまずここにあると思っています。私たちはついつい「いつものメンバー」で交わりやすいものです。教会を愛すると言いながら、いつも小グループの関係の中にだけいるのです。居心地のいいメンバーは信仰も似ています。そこには愛がありますが刺激はあるでしょうか。その点、アシュラムはとても刺激的です。同じ聖書箇所なのにまったく違うことを掴む、いえ「何もわからなかった」という分かち合い?もあったり。なんとバラエティーに富んでいる一人一人を主は招いてくださるのでしょう。そして小さくても大きくても求めに真摯に応えられる方です。静聴ではあまり聴けなかったのにファミリーの分かち合いの中で語られた、という方もおられました。主によって家族にされているということは群れ全体で聴くということなのだと教えられます。
 また「キリスト教の第三の波」講義の中で主から語られたこともあります。第三の波は、高砂教会という霊の家族のいわばルーツが記された本。成長の中で霊の家族がわからなくこともある、そんな時はルーツに帰ればいい。講義を聴きながらそんな記録が遺されていく、ということに感謝しました。これも特異性です。アシュラムのというより、高砂教会の、ですが。
 主との個人的な時間は命の水だと思います。イエス様の持っているものではなくイエス様ご自身を求める事、全領域を捧げる告白、その祈りと礼拝がなければ乾くしかない者なのだと自覚します。主に心を向けてお迎えして行こう、その土台を今年もしっかり求めて行こうと思わされました。その上で静聴の時間に主が語ってくださったのは、「求めよ、さがせ、門をたたけ」という私にとって特別な御言葉のさらに新鮮な発見でした。それは、その門はとても小さいということです。教えられなければ前に立てないということ、前に立たなければ叩くことが出来ないということです。はっとしました。一人でも多くの人を門の前まで手を繋いで連れてこよう、それが私に主が与えてくださったミッション。そのために私の行くところ行くところで、まず自分自身の門を開けておくことを求めておられるのです。霊の家族の中にいるときでさえ。その中にも門がわからなくなっている人がいる、いえ、私もわからなくなるかもしれない。内なる門を開けておく鍵は、祈りと礼拝と御言葉です、やはりこれに尽きる。シンプルに語ってくださり、主の前へ帰らせてくださったことに感謝です。今年は個人的にさらに外へ、新しいところへと出ていく年になりそうです。何のために出ていくのか、祈りと礼拝を忘れたら、主は用いにくくなるでしょう。どこにいても何をしていても、まず主に捧げ、お迎えし、御霊の声に耳を澄まそう。
 今年もアシュラムでとても大事なことを語られました。また来年も、葛藤しつつかもしれませんが参加しようと思います。









気乗りしない参加のアシュラムだったが(2)ー「アホな信徒」代表の私にも愛が注がれていたー

 気乗りしない参加のアシュラムだったが(2)
 ―「アホな信徒」代表の私にも愛が注がれていた―
 山 本 加 奈 子


 洗礼を受けてちょうど十三年になります。でも高砂教会にわたしをご存じない方は大勢いらっしゃるでしょう。なぜなら、わたしはいわゆる「アホな信徒」代表だからです。
 早天祈祷にも行きません。祈祷会にも行きません。教会のイベントはことごとくパス。それどころか家では聖書も開きません。祈りません。これだけ並べただけでも、わたしがどれだけ優秀なアホ信徒かお分かりいただけますね。わたしを見かけるのは辛うじて日曜日のみ、それも一番イキイキしているのは礼拝後のおうどんタイムなのですから。
 ここまでアホな信徒代表となるに至った経緯には、救われた当時の喜びにあふれた熱心で真面目な信仰生活を経て、やがてさまざまな疑問や不信感、劣等感、罪責感、猜疑心などに苦しんだ葛藤がありました。神様に対しても、兄弟姉妹に対しても、牧師先生に対しても、素直に心を開けないような時間が十年近く続いたでしょうか。長くて暗くて苦しい時間、いっぱい悩んだ時間。そんなわたしを「大丈夫」と信じて支えてくれた友人たち、そして何よりもわたしの長~い反抗期を笑って見守ってくれる神様。どんなに背を向けても、わたしの小さな一日の歩みのなかに神様からの祝福が託されていて、逃げても逃げても神様の愛が追いかけくるような日々でした。そんな深くて大きな愛に観念して、やっぱり愛されている…と心から受け取れるようになったのは昨年のことでした。
 それはわたしには十分すぎるほどの恵みで、これ以上はもう何も必要ありませんと満足していました。でも昨年のクリスマスくらいから、「このままではあかんような気がする」ようになり、神様がわたしにご用意してくださった祝福はこんなものではないのでは?もっともっと神様の御心を受け取りたい。そんな思いが湧いてきました。じゃあそのためには?御言葉や!!聖書や!!という思いがきました。長らく礼拝以外では開こうともしなかった聖書。でも神様の御心を受け取りたいのなら、やっぱりここは聖書でしょ!と。
 そういうわけで初めて参加した高砂聖霊アシュラム。参加表明をしただけで、たくさんの方から「ありがとう!」と喜ばれたり驚かれたり。完全に放蕩息子状態(笑)。
 四回の静聴の時には、一回ごとに神様からテーマが与えられ、感動して震えるような体験ばかりで、ファミリーの方たちとの分かち合いでさらに深く濃く受け取ることができました。
マタイ五章二五節『あなたを訴える者と一緒に道を行くときには、その途中で早く仲直りをしなさい。』は一回目に与えられた御言葉で、「訴える者」は他人ではなく自分自身と感じました。子供の頃から自分が大嫌い。自信もなく、結婚しても、子供が生まれても、自己否定感は強くなるばかり。救われたあとも劇的に変化しないことが苦しくて、クリスチャンでありながらそんな思いにとらわれる自分にダメ出しをして、また自分が嫌になる、という悪循環でした。御言葉を通して神様はわたしに「自分自身との和解」を促してくださったのです。「まずはここからやで」と言われたような気がしました。今も一〇〇%自分が大好きとは言えませんが、そんな自分にもOKを出せるようになりました。
 そのあとの「福音の時」の中で牧師先生が、「聖書には何万という約束の御言葉が詰まっている。私たちクリスチャンはこの約束を楯にして神様に祈り迫ることができる。これこそが信仰の醍醐味。受け取らないなんてアホです。」とおっしゃったとき、「あ~~!そうやったんや!だから牧師先生はいつもアホな信徒になるなとおっしゃってたんや!」.アホな信徒という言葉を聞くたびに、自分を否定されたような気持ちになって拗ねていたことがバカらしくなりました。私たちが余すことなく神様からの祝福を受け取って欲しいと、心から思ってくださるからこその愛の言葉だったんだと。本当に感謝でいっぱいです。















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