月報 2015 11月

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何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(1)ー敬虔のための修練の大切さを知るー


 何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(1)
 ―敬虔のための修練の大切さを知る―
 田 中 カ ヲ ル

 アシュラムはプログラムがぎっしりで、全内容に参加ができるのかという不安と、聖書のみことばと向き合い、自分の内面を真摯に見つめられるかという不安とがあったのですが、終わってみるとすごく満たされ、有意義な時であったことを感謝します。
 「ファミリーの時」では、皆からの話を聞くことによって、他の方達が自分とは違った視点でみことばを受け、誠実に向き合おうとされている姿に、チャレンジを受け、自分も話してみることによってみことばの印象が深まり、良い機会であったように思います。
 「福音の時」では、手束牧師の著書「キリスト教の第三の波」からメッセージを頂きました。教えていただいた内容はどの箇所もすみやかに受け止められ、カリスマ運動について自分の中で整理ができ良かったと思います。そして、ここでは大きく目が開かれたな~と感じた部分が一つありました。それは、特別な場合を除いては、神様の働きは人間の霊の状態によって左右されるということであり、そのため私達人間には、早天祈祷、断食祈祷や徹夜祈祷、静止の時をもって、敬虔のための修練を積むことが必要だということです。私はこのところを教えて頂いたとき、頭の中がパッと明るくなりました。〝敬虔のための修練〟というものが必要であったのかということです。神の愛と恵みの中に浸って、神様の働かれるのをみて共にただ喜ぶ。カリスマ運動について、私はこのように一方的に解釈していたように思います。当然、断食、祈り等、すべてがただ必要に応じてといった感じでとらえていました。何故かというと、何事も神様が働かれなければ始まらないと漠然と思っていたし。また、わたしが変に断食や徹夜祈祷などをして、何かが変わってきたとしたら、自分の中にきっと傲慢な思いが現れ、何か自分が偉いことをしたと勘違いをするのではないかと思っていたからです。自分に必要があって早天に出ているときは続けられるし、恵みを受けます。しかし問題が気にならなくなると、そのうち、朝五時に目覚めるなら、神様が私に早天に誘っておられるのだと思うけど、目覚めない時は、神様の与えてくださる安息の時だろうと考えて朝の眠りを貪っていました。全くの私の勝手な解釈だったのです。神様の癒しであろうが、奇跡であろうが、これで祝福を逃していたとしたら全くもったいない話だと思いました。
 新改約マルコ六・四―五には、「イエスは彼らに言われた。『預言者が、尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった」。この箇所では、キリストは生まれ故郷では奇跡をあまりやる事ができなかったとあります。生まれ故郷の人々はキリストを肉の目で見てしまって怪しみ、それ以上の敬意や敬虔な思いを示さなかったため、キリストが奇跡を起こす事がなかったというなら、それはとても残念な話です。問題の中にあって神様を必要としている時だけではなく、普段から神様への敬意と愛を表し、早天も行くと決心したのならそのように務める。謙遜な祈りと行動を積んで、そのために時間を捧げるのは神様への献身であり、神様への敬虔の表現だと知りました。だからと言って、これからは早天祈祷会や断食など全て参加するとは言えないけど、普段から自分にできる最大限をもって神様にお仕えするべきなのだなと思わされました。
 また、最終日の夜は聖霊の満たしのために祈って頂きました。按手とともに倒れてしまいましたが、聖霊さまが私を満たしてくださっているのだと感じました。そして後で手束牧師から「癒しが少し進みましたよ」と声かけていただき嬉しく思いました。まだまだ少しずつ主に癒されながらですが、聖霊様によって満たされ、変えられ、敬虔を持ってこれまで以上に主に仕えていけたらと思います。






何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(2)ー贅沢な時間を存分に味わうー



 何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(2)
 ―贅沢な時間を存分に味わう―
 冨 尾 佳 子

 今回二回目の高砂聖霊アシュラㇺに参加させていただき、恵みをたくさん受けることができました。初めて参加した時にも感じたのですが、短い御言葉の箇所を一時間かけて読み解くというのは、とても贅沢な時間だということです。普段では、そのような時間を取ろうとしても、何かしらの誘惑に負けてしまい遮られてしまうことが多く、反省と悔い改めの日々なのですが、アシュラㇺの静聴の時は聖別されていて守られていると感じながら御言葉と向き合うことができ、贅沢さを存分に味わいました。
 今回の聖書箇所は黙示録だったので、あまり読んだことのない場所だったということもあり、読み解くのは難しかったのですが、神様の思いがたっぷりと詰まった箇所だと思いました。
「わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている。(しかし実際は、あなたは富んでいる)」              (黙示録二・九)
 この箇所では、私たち人間には苦難があり、その心は貧しい。がしかし、神様によって、豊かにしていただくだけでなく・天国に入らせていただける特権をいただいている者であると知り、心が感謝の気持ちでますますいっぱいになりました。
 又、今回のファミリーには九十七歳の姉妹が参加されていて、驚きました。そのたたずまいは凛とされていて、御言葉にふれ神様を信じる信仰を持ち続けると、このような年の重ね方ができるのだと、励まされました。「アルツハイマーになりたくなければ、教会に来て信仰をもちましょう」と手束元老牧師先生が常々おっしゃっているとおり、まさに真実を目の前にした思いでした。生きた証の姉妹の発せられる一言一言に感動し、そこに、神様がいつも一緒にいらっしゃるのだと感じました。私も、そのような年の重ね方をしたいと思いました。ファミリーのメンバー、一人一人がとても温かい人たちばかりで、福江牧師先生をはじめ、姉妹方の聖書を読み解く姿勢・祈る言葉・信仰生活において、このようにしていきたいと思わされました。お手本があるというのは本当に感謝なことで、こらからも祈り合う家族として交わっていきたいです。主は素晴らしいお方です!!ファミリーのメンバーに出会わせていただき感謝です。
 そして、手束先生の福音の時では、「神の霊と人間の霊との『神人協力・呼応共同』」について学びました。よく『神様の恩寵によって』と、神様頼みでおしまいにしてしまっているなと思うことがあります。クリスチャン生活はそれで終わってはもったいない!なぜかなら、『神の霊の働きは、人間の霊に状態によって左右される。聖霊の声を聴きながら自分が努力すべきところは努力する。そうすると、神様の働きが表されるのだ』ということなのです。私たちクリスチャンは受けるだけではもったいない!!神様の栄光を表す者・祝福の基となっていく者として歩むのです。その為には、「敬虔のための修練が必要」であって、その訓練は、早天祈祷が一番いいと聞きました。自分の霊の力を磨くため・聖霊様の御声を聞くためにも早天祈祷に行き、お祈りすることはとても必要であって、大切なのだと改めて学びました。
 今回学んだことは私自身にとって、これからの信仰生活の基礎となる学びがたくさんありました。ぜひ、この学びを教会のたくさんの人にも知ってもらいたいです。来年には、もっとたくさんの人を誘い、学んだことをみんなと分かち合いたいと思いました。今回、池端姉と、アシュラㇺが終わった後に分かち合いの時間を持てたことは感謝でした。姉妹との距離が一段と近くなったように思い、嬉しかったです。それは、ファミリーの方々に対しても共通します。高砂教会の兄弟姉妹だけでなく、他教会の方たちとも交わりが持てるこのアシュラムは、人と人とがつながり合っていく大切な機会だと思いました。このように、たくさんの恵みをいただけた高砂教会聖霊アシュラㇺに感謝です。ぜひ、来年も参加できるよう、参加者が増し加えられるよう、祈ります。一年後を期待します。



何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(3)ー『ごめんなさい』そして『ありがとう』ー



 何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(3)
 ―『ごめんなさい』そして『ありがとう』―
 高知クリスチャンセンター 橘 元 太

 手束正昭元老牧師からのご自著『キリスト教の第三の波』による福音の恵みについての学びは、アシュラムの静聴の時をきちんと方向付けされ、ファミリーの時を有意義に過ごさせていただきました。また、招きの時の按手による聖霊のバプテスマでは満ち溢れる愛を授かりました。感謝いたします。
 私は、今年の七月二十日〜二十一日に開催された「第四十一回高知アシュラム」に初めて参加しました。ほぼ何もわからないような状態での参加でしたが、福江義史牧師による『アシュラムの心得と原点』のレクチャーにのみ、すがり信じて、侭に日程をこなしていきました。そこで一番に深く受けた事は、高知クリスチャンセンターの聖書の時間で田村隆明牧師が選ばれた賛美の曲でした。『心にもだえあらば』です。そこには、

心に悶えあらば イエスに話せ
よき友なる イエスに話せよ
思案せずに 何事をも イエスに話せよ
涙のせきくるとき 恐れに囲まれなば
死ぬるに安きなくば イエスに話せよ
悲しみ憂いあらば 隠せる罪を持たば
明日の日気にかからば 惑えるその心を
イエスに話せ イエスに話せ イエスに話せよ
思案せずに 何事をも イエスに話せよ

涙が溢れ、イエスに初めて本当の悔い改めと罪の赦しを求めたのです。そうです、「ごめんなさい」と罪の許しを乞うたのです。
 その経験を持って参加出来た高砂聖霊アシュラム。『静聴』と『聴従』を繰り返し、主の前に砕かれ、ひれ伏した。今回学んだ〝与えられるものではなく、求める具体性と積極性〟によって、三日間ほぼ寝る事なく敬虔のための修練に努め、自分がどこで愛から離れ、何が理由で曲がったのか、その場所を、時を探し遡りました。そしてそれを見つけた時の嘆きと罪の告白。許しを乞い、赦されて、『元太よ、生きなさい。わたしと共に』と主が私に語りかけてくださったとき、こころが、からだが解け始め、解放されていきました。恐れは消えました。その途端にすべての世界が明るく光り輝き、愛に満ち溢れたのです。ハレルヤ!私自身が神の愛から離れていた罪の証しについては、原稿の枚数も足りませんし、何と言っても、私のファミリーの家長であられる美智子先生から優しいお声でたしなめのお言葉を受けてしまいますので…(笑)。また別の機会に告白しますね。
 高知クリスチャンセンタ―に帰ってからの私の生活ぶりは一変しました。手束先生お勧めの早天祈祷を、次の日から今日まで休む事なく続けています。恵みが多すぎますね、早天には。また、教会における兄弟姉妹に限らず、この世の人間同士の交わりによるたくさんの友も出来ました。数えきれない程の愛や奇蹟を受けております。
 十一月二十九日には天狗高原祈りの家の「作業(閉山)アシュラム」が行われました。その時の聖書箇所はぺテロⅡの三章でした。私は八節のみ言葉にこの間のすべてを知ったような思いでした。「主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日のようです」アーメン。私は十一月五日で五十一歳になりましたが、これまでの私の五十年のすべてはこの間の一ヶ月のようであり、また、この間の一ヶ月はこれからの五十年のようです。そしてわたしは思います。聖書とは、主からこの命を授かり、お預かりした『誕生』という私達の祝福の時からすでに主により私達の内なるところに内包されて生まれたのだということを。私の過去と未来が、主によって〝聖書〟というかたちで、戒めや悔い改め、告白と赦し、祈りと賛美がすでに用意されているのです。
 あぁ〜感謝します。『ありがとう』アーメン。
『ごめんなさい』そして『ありがとう』。







何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(4)ーファミリーが楽しくて癒されたー



 何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(4)
 ―ファミリーが楽しくて癒された―
 ジーザスハウス(滋賀県守山市) 渡 邊 あ ゆ み

今回、初めてこの高砂聖霊アシュラムに参加しました。参加して感じたことは、初めての時と場であるのにもかかわらず、とても居心地が良いということでした。それは、プログラム全体を通してそうでした。「ファミリー」においては、特にそうでした。
 ファミリーとして八人の方と時間を共にし、さまざまな思いや聖書から感じた感想を分かち合いました。私にとって、ファミリーのメンバーの方は、以前に一度お会いしたことのある方、もしくは初対面の方たちでしたが、「ファミリー①開心の時」から、とても、心が穏やかになり、何でも話しやすかったです。それは、この高砂聖霊アシュラムの約束事として、ファミリーで話したことは他言しないということと、相手の方の意見をまず受け止め、批判はしないという原則にしっかりと立っているという安心感があるからだと思います。それと、高砂教会の教会員の皆様の温かさと、他を受容することの出来る優しさのおかげだと思います。
 現在、私の通っている聖書学院の授業でも、分かち合いやディスカッションの機会は多くありますが、一旦、他の人からの「批判」や「攻撃」を恐れると、何も話せなくなってしまいます。高砂聖霊アシュラムでは、自分の心の中のことを包まず飾らずに出すことができたので、私自身癒やされました。どのプログラムよりも、ファミリーの時間が一番楽しみで、「あ、次はファミリーだ!」と思うと活き活きとしました。お互いの意見をしっかりと聞き合い、お互いのために祈り合うことができて本当に良い時間を過ごすことができました。信仰の助け手を得られ、祈りのパートナーを与えられたことが本当に嬉しいです。そして、アシュラムが終わった現在でも、同じファミリーのメンバーであったお一人お一人を覚えてお祈りをしています。名の通り、本当の家族のように支え合い、いたわり合い、理解し合えたことは、何よりも素晴らしい宝です。ありがとうございました。
 そして、手束牧師先生の著書「キリスト教の第三の波」を用いてなされた「福音の時」の講義も大変良かったです。ファミリーの中でアウトプットするだけでなく、福音の時ではしっかりとインプットをし、大変バランスの取れたというか、相互リンクがしっかりとなされ、この四日間という時がより充実した時となりました。しかし、実は、私にとって耳に痛いことも多く、「どうしてもできない、どうしよう。」と思うことが多々ありました。講義の内容が分からなかったということではありません。テキストも牧師先生のメッセージも大変分かりやすかったのですが、自力で何とかしようとしてしまう自分と、自力ではどうしようもならないもう一人の自分がいることを感じました。憤りが心に出てきたり、落胆してしまったり、頑固になってしまったり…しかし、三日目の夜の賛美夕拝の最後に、手束先生が、「私の努力ではない。聖霊による。聖霊による可能性だ。」と言われたことは、私にとって、大きな慰めと励ましとなりました。福音の時に、テキストの中でも仰っていましたが、この聖霊による変革、聖霊による力の付与があるという事実こそ、大変重要なことであり、まさにこの高砂聖霊アシュラムの特色の一つとされている通りです。自分の力で変革を試みるならば、どうしたって律法主義的に陥ってしまい、自分を追い詰め、他も追い詰めることになります。そして何より、自力での変革は不可能なことです。しかし、聖霊さまが共にいて力を与えてくださると知れば、〝インマヌエル神は私たちとともにいる〟という、この偉大な約束と恵みが体験できます。
 この高砂聖霊アシュラムに参加して、多くの祈りのパートナーを得られたこと、そして聖霊さまが共にいてくださり、力をくださるという恵みを体験できたことは、本当に感謝でした。聖霊さまの恵みを知ることは、イエス様が言われた「たましいに安らぎが来ます」というみことばの通りだと思います。たましいに安らぎが来る、たましいが楽になる、この福音を、多くの人に伝えていきたいです。




何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(5)ーみ言葉の鏡によって自己の姿を写し出すー



 何と大きな「高砂聖霊アシュラム」の恵みよ(5)
 ―み言葉の鏡によって自己の姿を写し出す―
 日本キリスト教団江別教会 佐 藤 根 恵

 聖霊アシュラム「聖霊よ、御言葉を通して」をテーマに、日々祈り、黙想、分かち合いをいただきました。更に、手束正昭牧師の講演で福音の時「キリスト教の第三の波」の著書より、キリスト者として真の霊的成長にかけがえのない生きた学びに与ることができました。その中で印象的な言葉がありました。「敬虔のための修練」と「弟子の形成」の講義です。
 今日更にキリスト者として、キリストの高さ、深さ、広さにまで聖化され栄化される霊性の成長、成熟を勧める具体的実践が重要なことと思いました、キリストの救いから迷い出さず、更に確信と神様のみ心をなす喜びの日々の生活の実践へと進むことです。たとえばそのプログラムの中には、早天祈祷、また断食祈祷、徹夜祈祷、静止の時などです。日々の中で、第一にすべき事は何か真摯に向かうことを問われております。私は、マルタとマリアのどちらの行動をしているのでしょう。言い分はあり、言い訳はあります。でも、イエス様のもとへ駆け寄り、静止していたいのです。天の喜びの中に。​
 次に、マタイによる福音書二八章「大宣教命令」より、教会が他の方々のために祝福の存在とされ、すべての人を弟子とせよとのイエス様のお言葉によって、自分を捨てる弟子としての十字架の道は、肉によれば険しく無理とも思えますが、聖霊が豊かに働き、内側を豊かに満たして行く時、それが現実となるのです。イエス様の歩みに倣うために、試練、苦難、などの取り扱いには深い意味、奥義があり自己を練り清められる時と受け入れられますようにと願う者です。なかなか受け入れにくく、環境や他人のせいにしやすい弱い者です。自分を謙虚に受け止め、このように教えを頂き神様の臨在の時を与えてくださり本当に感謝しております。
 第三グループメンバー八名と共に、黙示録二章から黙想し、祈り、分かち合うのは、聖書と真摯に向き合い、み言葉を鏡として自己の姿を写し出させていただく貴重な時間となりました。最近私自身の課題となっていた、聖書箇所黙示録二章四節「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だからどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ、もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところに行って,あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。耳あるものは、霊が諸教会に告げる事を聞くがよい。勝利を得る者には,神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」私の心に、このみ言葉が深く響いて参りました。初めの愛、十字架によって贖われ、赦されたイエス様の大きな愛、多くのことを赦された感謝と喜びのときを思いめぐらす、とても大切な時となりました。聖霊様が告げてくださることを聞いて、今立ち戻り命の木の実をいただこう、と強く願うことを与えられ、喜びが満ちあふれてきております。私は危うく、燭台を取り除かれることにも気づかぬところだったのです。分かち合ってくださった皆様に心から感謝します。

《母 小梨ルツ子の感想》

 ハレルヤ。先日は御教会においてご聖霊のお交わりに与ることが許されまして、霊的喜びに満たされて帰ってまいりました。本当にイエス様によって信仰の励ましを頂き、新しくされた喜びに包まれております。
 黙示録二章一七節「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている」と、イエス様の救いに与った上に白い小石を与えてくださると信じます時に、なんと言う光栄でしょうか。このように、聖書の御言葉による喜びを伝えることが出来ますようにと願っております。毎週木曜日は、傾聴ボランティアの方々が来られるので、イエス様が救い主であることをお伝えするようになりました。どうぞ私に信仰と勇気とが与えられるようにお祈りくださいませ。御教会のみなさまのご親切に深く感謝を申し、益々祝福されますようにお祈りいたします。








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