月報 2015 10月

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受洗して良かった(1)ー聖霊の風の吹くままにー


 受洗して良かった(1)
 ―聖霊の風の吹くままに―
 松 本 妙

⑴ 苦渋の日々
 四十九才で亡くなった母のお葬式を加古川の教会でして戴いた関係で、私も三十五才の頃、教会の集会に時々参加しておりました。その頃、教会からは再三礼拝に出席するように言われましたが、主人の猛反対で行けませんでした。勿論集会に行くのも家に来て戴くのもすべて主人には内緒にしておりましたので、子供達にも口止めせねばならず、唯々苦しいだけの勉強会を続けておりました。そのような中で、牧師先生よりイエス様の十字架の救いについて教えていただいたのですが、すぐにはピンと来ませんでした。それでも、導かれるままに「信じます」とはお答えしたものの、後々後悔の念に苛まれました。本当に私は信じているのだろうか。心ならずも先生に義理立てして言ってしまったのではないだろうか等、悶々とする日が随分長く続きました。
 しかし、〝求めよ〟との御言葉通り、その時は突然やって来ました。今から三年前、家族旅行で名古屋に行くために乗っていた新幹線の車中での事でした。不思議と言えば不思議な事ですが、長年捜し求めていた真理がまるでブレイクスルーのように、一瞬の内に心の中にすっと入ってきたのです。
 決め手となったのは、主イエス様の御言葉でした。「人が、その友の為に命を捨てる程尊い事は無い」「私はもはやあなた方を僕とは呼ばない。あなた方は私の友である」。ああそうだったのか。キリスト様は友である私の為に命を捨てて下さって私に対する愛を全うして下さったのだと、その時初めて理解できたのです。

⑵ 教会に行き始めたわけ
 私が教会に行くようになった直接のきっかけは、鐘楼付きの荘厳な造りの高砂教会を一目見た瞬間、あっこれぞ私の教会だと勝手に思い込んだのと、来る日も来る日も、一日に五十頁ずつ文語訳聖書を読み続けるのがいい加減しんどくなってきたからなのです。
 今も朝三時半には起きて通読していますが、冬の朝は寒くて、さすがに体にこたえる様になりました。そこで正当な理由を設けて、せめて丸一日、堂々と休める方法は無いものかと考えあぐねた末、教会行きを思い立ちました。お陰様で、今では礼拝にも出席でき、聖書も楽に通読できるようになりました。

⑶ 洗礼の前と後
 以前より私は、洗礼については形式的なものだから、信じてさえいれば別に受けても受けなくても良いのでは…と思っておりました。それと言うのも、主人の強硬な反対に遭い、受洗を願っても叶わず、洗礼に対する熱い思いもいつしか無くなっていたからです。けれど、今回は良い機会でもありますので、勧められるまま受ける事にいたしました。
 受洗前の私にとっての一番の関心事は、受洗前と後では何がどう変わるのだろうか。一体私にどのような事が起きるのだろうかと言う事でした。そしてまた、受洗後の私がどうなるのか楽しみでもありました。
 受洗後の今となって思うのは、やはり私は変わったと思います。何が変わったかと言えば、それは、私の周りに風を感じるようになった事です。難しい事は分かりませんが、これこそが聖霊の風なのだろうと思います。
 生まれたばかりの私にとって、これからの教会での信仰生活に不安が無いと言えば嘘になりますが、それでも聖霊の風の吹くまま、あるがまま歩んでみようではないかというのが、私の今現在の心境なのです。教会の皆様、今後共ご指導の程、よろしくお願いいたします。






受洗して良かった(2)ー頼れる最高の存在に気が付くー



 受洗して良かった(2)
 ―頼れる最高の存在に気が付く―
 齋 藤 健

 なぜ私が高砂教会で受洗しキリスト教を信仰するようになったのか? 正直申しますと、今この文章を書き始めても自分自身よく判っていないのです。ただ、こうして月報の原稿依頼を受けたので、頭を整理する意味も込めて洗礼までの流れを書いてみたいと思います。
 私は、仏壇が家にある平均的な仏教家庭で育ちました。しかし、この年になってもお経を理解できず、挙句の果てには家の宗派も知らないままに生きていました。ただ、それでも未知の宗教を信仰するよりは、現状維持に安全を感じていました。ある時、キリスト教系(あえて系という表現を使います)の信仰をもつ知人の葬儀に参列し、キリスト教系の信仰について触れる機会がありました。でも、それは自身に安全を感じさせるものでは無かった為、特にそれ以上踏み込むことはありませんでした。
 それから年月が過ぎ、家族の病や持病の悪化などで気が落ち込んでいるとき、何故か図書館で聖書について書かれた本が目に留まり、再び聖書や教会に興味が沸き始めたのです。そこで、既に高砂教会で洗礼を受けていた猪澤姉に教会について質問してみたところ、「教会はどんな人でも受け入れてくれますよ。一度教会へ行ってみてはどうですか?」とアドバイスを受けました。しかしその時は、距離的な問題もあって高砂教会へ向かうことなく、地元赤穂の教会へ向かいました。
 赤穂の教会では、持病のことや聖書への興味について、牧師先生がとても親切に対応して下さり、聖書の勉強会に参加させて頂くことになりました。そこでは、キリスト教への理解を少し深めることが出来ました。しかし個人的な事情により、その教会へ足を運ぶことを止めることにしました。
 その様な中、新谷先生にお会いし、教会での学びについて相談する機会に恵まれました。そこで先生から一言、「では、年明けからこの高砂教会で学びを始めてみませんか!」。その瞬間、今まで感じていた教会への距離的な問題などが自分の中から吹っ切れたことを覚えています。
 そこで、二〇一五年の一月からGNC(グッド・ニュース・コースの略)を始めることになりました。GNCでは、私の宗教や教会への疑問に対して、新谷先生から適確な回答を頂き、更に聖書への理解が深まるにつれて、聖書に書かれている内容が自身のこれからの人生に大切であると感じる様になり、「なんと人間が生きる上で必要な事が書かれている書物なんだろう!」、「今までこの書物に触れることも無く勿体ない事をしたなあ」と思うと同時に、神様の存在を意識するようになりました。
 GNCが修了するかしないかのタイミングで、洗礼についてどうするか迷っていた最中に参加した聖日礼拝のときのことです。偶然その日は聖餐式がある日で、そこで北村兄からの一言、「とりあえず行動を起こしてみないと始まらんよ」の一押しで、聖餐式の場へ進み出ました。そこからはもう、キリスト信仰に対する個人的な問題の解決を待つのではなく、とにもかくにも前に進みさえすれば、信仰そのものが問題を解決してくれるという気持ちに切り替わり、五月に洗礼を受けることとなりました。
 今思うと、ここまで誰に強制される訳でもなく、洗礼を受けるまでには、重要なターニングポイントが所々にあり、またそのポイントでは、必ずトリガーを引く誰かが居て、全て準備されていたかの様なストーリー展開だったと思わされています。これは正に神様が私に準備して下さっていたストーリーだったと、今は理解しています。
 今では、どんな時でも頼れる最高の存在に気が付く事ができ、とても平安で安全な場所を得ることができたと思っています。又、これからの人生においては、神様を賛美し、神様と共に歩む人生を送り、残る家族についても、いつか一緒に神様を賛美する機会に恵まれることを願いつつ、信仰を深めていきたいと思います。














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