月報 2016 11

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アシュラムは人生をバージョンアップする(1)ー「主に求める祈り」ではなく「主を求める祈り」をー



アシュラムは人生をバージョンアップする(1)
 ―「主に求める祈り」ではなく「主を求める祈り」を―

 高 井 美 恵 子


 高砂教会に来て二十六年になりますが、「アシュラム」には一度も参加したことがなく、今回は断る理由も見つからず、気が進みませんでしたが、勧められるまま申し込むことになりました。そして「アシュラム」が、いよいよ始まるという直前になって、今まで無理やり心の奥に追いやっていたものが、前面に押し出されてくるようになりました。今年の六月に亡くなった夫の葬儀を家の宗教(真言宗)でなく、キリスト教式でしたことを巡って、義妹達から非難され、関係もギクシャクしたものとなってしまいました。妹達を愛し、その関係を大切にしてきた夫の気持ちを思い、これからも仲良くしていきたいとの思いを伝えると、彼女たちも了承してくれました。その時は、彼女たちが本当に救われてほしいとの思いで一杯になっていて、そのためにも、さらに祈りを強めていこうと決心させられていました。しかし時と共に、そのような義妹たちに対する思いは、どんどん冷めてきて、このまま交際をやめてしまいたい、とさえ思うようになりました。でもやっぱり気にかかり、ずっとモヤモヤした気持ちでおりました。そして、このことのために神様は私を「アシュラム」へと導いて下さっていたのだ、と気付かされ、感謝と期待をもって、「アシュラム」へと参加させていただくことになりました。
 私は第一フアミリーでしたが、「開心の時」を通して、フアミリー全員が「伝道」という課題を持って、「アシュラム」に臨まれていたことを知り、驚くと共に大きな励ましを受けることが出来、感謝でした。
 「静聴の時」に与えられた聖書の箇所は、すべて、イエス様の十字架の場面からでした。正視に耐えない十字架上のイエス様が、これでもか、これでもか、と迫ってきました。六月に亡くなった夫と、三年前に亡くなった父の死に際が生々しく思い起こされました。十年前に救われた夫と、死の直前に救われた父は、二人共、ほとんど苦しむことなく、眠るように安らかに天に召されていきました。死は勝利に呑み込まれた、この事を二人は、はっきりと証ししてくれました。今更ながら、イエス様の十字架での苦しみがあったから、救われ勝利が与えられたのだと思い知らされました。
 ただの罪人でしかなかった私が、イエス様が主である事を知り信じることが出来たのは、ただ主の一方的な愛と聖霊の働きによるものであったことを「福音の時」における講義を通して再確認させられました。そして聖霊様は、救いの確信を得させるだけに留まらず、「神の国の実現と拡大」というビジョンを、人生最大の目的として意義深く握らせてくださいました。そして、その聖霊に日々満たされ続けることがいかに大切なことであるかを思わされ、そのためにも「主に求める祈り」以上に「主を求める祈り」を日々、祈り続けていくことがいかに大切な事であるかを思わされています。
 私は今まで、自分の「信仰」が、このまま固まってしまうか、年と共に先細りになっていくものと思っていましたが、講義を通して、聖霊により「信仰」は、さらにバージョンアップ出来るという希望が与えられました。
 来年の「アシュラム」は、イヤイヤでなく喜んで申し込もうと今から楽しみにしています。




アシュラムは人生をバージョンアップする(2)―デボーションを習慣化したい―

アシュラムは人生をバージョンアップする(2)
 ―デボーションを習慣化したい―

北 村 理 菜

 今回アシュラムに参加することにした動機は、誰かに言われたからという理由ではなく、日々の仕事の忙しさの中で、デボーションに何度も挫折していたからです。これからもし、人生の重要な決断をしないといけないという時に、私のうちにみことばがなかったら、何を判断基準にしてよいかわからない、危機感にも似たような不安があり、参加を決めました。
 静聴の時というのは、一時間かけて与えられた聖書の箇所を読み、自分自身が直接御言葉から神様の語りかけを聴き、応答していくという訓練の場でした。今回与えられた箇所は、イエス様が十字架にかけられる場面で、一回目からとても重いなぁと感じました。黙想している間は、以前に見たことある映画「PASSION」の十字架のシーンを思い返していました。二回目の与えられた箇所も十字架の場面と知った時には、少し行き詰まりを感じ、分かち合いの言葉に困りました。福江先生がなぜこの箇所を何度も選ばれているのかということを考え始めると、集中力が切れてしまいました。この時間は逃げられないし、聖書と向き合う自分自身との格闘でもありました。しかし、その後、ファミリーの皆さんの分かち合いを通して、聖書箇所の読み取りが広げられ、いろんな角度から読むことが出来る恵みを受けました。イエス様が十字架にかけられているときの群衆心理や、その場面で自分はどこにいるだろうかと、ストーリーの中に入り込んで、目の前に思い浮かべるという読み方の発見もありました。
 四回の静聴の時は、結局、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四福音書の同じ十字架にかけられる場面からの黙想で、あぁまたかと思うと同時に、これまでのイエス様の十字架と私との結びつきがなんて薄っぺらいものであったかと思わされ、悔い改めに導かれました。十字架に対して感じるものがない者になりたくないと思わされました。私の罪を背負って下さり、神様との関係を断絶させられた、苦しみのどん底まで引き落とされた方、十字架のイエス様に感謝しかない。もう一度、何度でもイエス様の十字架のもとへ立ち返って、どれだけ大きなことを成し遂げて下さったかを感謝して心に刻む、そこを原点としていきたいと思いました。
 また四回の福音の時というのがあり、「キリスト教の第三の波」を書かれた著者である手束元老牧師先生ご本人から直接講義を聞くことができたことも感謝でした。その中で特に「意識が存在を決定する」と、「私の内側から神の国が始まる、それはデボーションで神様のみことばをいただくことを通してなのです」と語られていたことばが印象に残っています。
 毎日わずかな時間の御言葉を食べる行為が健全な心をつくり、そしてそれが積み重なって、神の国が広がっていき、イエス様に似た人格にまで引き上げられ、成長できるのですから、しっかり蓄えたいと願いました。
 毎日の生活の中で、誘惑はいっぱいあります。仕事や家の事に追われ、テレビや携帯や友達としゃべったりと、そのような中でも、何とか工夫してデボーションを続け、習慣化していきたいと思います。御言葉に聴いて御言葉に従うという、シンプルなことを実践して、成長していくクリスチャンになっていきたいと思います。



アシュラムは人生をバージョンアップする(3)―「神の国は私たちの内に」を体験―

アシュラムは人生をバージョンアップする(3)
―「神の国は私たちの内に」を体験―
 伊豆高原イエスキリスト教会  丸 田 操

 高砂聖霊アシュラムに参加できましたことを感謝申し上げます。私の住まいは静岡県伊東市なのですが、三島市の加茂川教会の聖会に手束先生が講師として来られるということを聞いて、是非参加したいと思いました。と申しますのは、「先生が祈られたとき、聖霊が激しく降り、会場の中に煙が満ちた」と息子から聞かされていたのです。しかも、日本キリスト教団の先生ということ。私は、日本キリスト教団は聖霊も神癒も異言も否定されていると聞いていました。ですので、そのような中で、聖霊体験をなされた先生は、どのようなお方なのか、是非そのお話をお聞きしたいと思ったのです。加茂川教会聖会の日、実は別の団体のサマーキャンプが御殿場であり、そちらの方に参加していました。その団体は、聖書をヘブル的視点から正しく学ぶこと、聖書の正しい学びこそ、日本の霊的覚醒を起こすものだ。というコンセプトの下、ほぼ全メッセージがネットに無料配信されており、私は熱心な視聴者でした。それでとても期待してそのキャンプに参加したのです。結果は、ただ学びがあっただけという印象で、何かいまひとつ満たしのないまま加茂川教会に向かったのです。聖会は既に始まっており、そっと扉を開けて中に入りました。そして手束先生のお顔を拝見した瞬間、何とも言えない魂の平安を感じたのです。自分でもなぜかわかりませんが、本当に不思議な安心と安らぎを感じ、心からリラックスしていくのを感じていました。この聖会でアシュラムのチラシをいただき、今回、このアシュラムに参加することが出来ました。主の導きに感謝申し上げます。
 今回参加して一番学ばされたことが、「みことばの黙想」ということでした。約一時間、二十数節のみことばについて黙想するということは、日常生活の中ではほぼ不可能に近いことです。ここに来て、みことばと向き合う姿勢を学ばせていただいたことは、とても感謝でした。
 ロゴスからレーマとなるみことばとして神からの語りかけを聞いていく、その交わりの方法を学ばされました。新約が交わりの原理によるという教えのごとく、もっと聖霊様との交わりの中でみことばを読むべきなのだと思わされています。〝充満の時〟のメッセージでも手束先生が言われましたが、黙想は全世界的にも勧められており、心理学者もその効果のすばらしさを認めているということ、それはみことばに対するキリスト教的内観法ともいえ、みことばと自分との深い対峙をもたらし、それが自己の悔い改めへの導きとなり、結果として信仰のバージョンアップが可能となっていくということは深く納得させられたことでした。黙想という神との交わりを実行していく歩みを始められたことを感謝します。また「福音の時」の学びもとてもすばらしいものでした。四回の学びがあったのですが、五回くらいあってもいいのでは、と要望しておきます。この学びの時に、強く心にささったことは、「あなた方のただ中に神の御国がある。」ということでした。日々の生活に追われ、つい周りの環境に振り回されてしまいがちな自分ですが、聖霊様との交わりの時を持ちつつ内なる御国に心を向け、サタンに騙されてはいけないと勇気をいただきました。
 〝招きの時〟には手束先生に按手の祈りをしていただき、聖霊の満たしを受けることが出来ました。感謝はつきません。
 開会礼拝の時に三つの質問がありましたが、アシュラムが終わってその三つの答えを得ることができました。質問一「なぜここに来ましたか」、それは聖霊様の働きを知るためです。質問二、「望みは何ですか」、それはキリストの証人となる人生を生きることです。質問三、「本当に必要なことは何ですか」、それは聖霊様の働きです。それこそが神様の御心を行う力です。使徒の時代のように私にも神様のみわざが起きると信じます。最後になりましたが、手束先生を始め、教会員の方々には本当に親切にしていただき、お世話になり、ありがとうございました。

アシュラムは人生をバージョンアップする(4)―「意識は存在を決定する」の真理に目覚める―

アシュラムは人生をバージョンアップする(4)
 ―「意識は存在を決定する」の真理に目覚める―
 峰町キリスト教会  伊 藤 賢 治

 三年前、ミルク配達を隔日で早朝にやっていましたが、それを辞して、また、昼間の仕事もそれを休みにしての参加でした。いつしか、生活リズムを壊し、デボーションタイムをわずかしか持てなくなり、集中力も健康も害して、心底、心身を造り直していただこう、そうして新しい良い出発を始めよう、と思ったのでした。
 けれども、それがそのように順調に参加できたのでもありませんでした。なんと九月下旬、三度にわたって車の衝突事故を起こしたのです。二度目は、相手方が救急車で運ばれたり、車の損傷は、修理に一か月もかかるものであったり、むち打ちが長引きそうであったりと、家族は聖会参加を引き留めたものでしたが、私の渇きは収まらず、予定通り、四泊五日(一泊は車内)でこれに臨みました。
 三つお伝えしたいことがあります。1つは、「静聴の時」。四回とも同じ内容のイエス様のご受難の場面を、毎回異なる福音書から静聴(一時間)しようというもので、実にこの時、大変な内なる変化を遂げたようです。「何て、私はイエス様を忘れていたのだろう。なんて、イエス様と共に過ごしていなかったのだろう。主よ、過去のすべての隔たり、過ちをお赦し下さい」涙が流れてなりませんでした。また、分かち合いの時、皆さまが真実に語り、新しい発見、決意を述べられ、そうしてファミリーだけの秘密。嬉しく、その交わりの素晴らしさに、只々、胸は熱い思いでいっぱいになりました。
 二つ目は「福音の時④」で、手束元老牧師が語られた「意識は存在を決定する」という説です。このことに関しては、今日まで私自身、母教会中心に生活を始める中、はっと驚き、感動し、何度も主を見上げては、聖会から帰宅後、自身の意識が大変革を、わずかずつではあるが起こしてきていて、明白に、意識が変わってしまっていると知りました。できないことが出来るように、起こりえないことが起こるようになってき始めたのです。結局、私という個人に、自我という自己中心の霊ではなく、聖霊様(イエス様)がどれだけ広がっていただくかで、そうした不思議や奇跡が起こってくることを体験するようになっていったのです。
 三つ目は、「福音の時③」で語られた、アルビン・トフラー氏の言葉です。「一万年前は、農業が人類の生き方に革命を起こした。四百年前は、産業革命であった。西暦二〇〇〇年からは、第三の波が人類の生活様式に革命を起こし、世界、生活は一変する」また元老牧師のお言葉、「神のいのちとしての聖霊が、人間の深層部分を満たすことで、真実の男女関係、真の交わりが起こるのです」
 私は興奮しました。何故なら、幼児期から通常の生育が歪み、人間らしい愛の世界の広がり、心・魂の成長が思うようになされず、中学一年をピークに、闇の世界へと下降してしまったものでしたから。
 それで、五十年の歳月を乏しい日々にされてしまったことで、少しずつその修正、回復に躍起になりだしたのもつかの間、時代は第三の波が世界を席巻し、情報の変革を個人に求めてきて、私はもう、否が応でもその変化に対応せざるを得なくなり、別の苦しみを負い始めたのでした。一方で、神のいのち「聖霊様」が満たしてくださるなら、真の喜び、素晴らしい男女の交わりが出来るのだ。このことは、大変な希望と大きな癒しとなりました。

アシュラムは人生をバージョンアップする(5)―楽しくまた苦しい四日間が私を変えた―

アシュラムは人生をバージョンアップする(5)
 ―楽しくまた苦しい四日間が私を変えた―
 
 加茂川キリスト教会  塩 崎 裕 二

 今回始めて高砂聖霊アシュラムに参加しました。そもそもアシュラムとは何なのか知らない状態で参加してしまったのですが、振り返ってみるとアシュラムは私にうってつけだったと思います。というのも、神様と深く交わり神様の語りかけに耳を傾ける必要を常々感じていたのですが、なかなかそれを実行に移すことができずにいたので。アシュラムの四日間、仕事や生活のことを考えることなく、ひたすら祈り聖書に向き合うことができたことはとても感謝でした。
 一つ一つのプログラムが充実しており、有意義なものでした。特に「福音の時」における知的な興奮を伴う『キリスト教の第三の波』の講義の面白さは、ちょっと他の集会では味わえないものがあります。ただ、あまり質問できなかったことは後悔しております。もう少し予習しておけば良かった。
 また、私にとって良かったのは、自分の教会以外の兄姉と交わりを持つことが出来たことでした。「ファミリーの時」や食事、フリータイムの時に多くの方々と信仰の話ができたことは励みになりましたし、自分の凝り固まった考え方から解放される良い機会となりました。
 とても充実した楽しい時でしたが、自分自身が変わることを迫られた少し苦しい四日間でもありました。「静聴の時」は、ただひたすら聖書に向き合うことのできる喜びがありましたが、それと共に自分の中の罪と葛藤する時でもありました。三日目の夕礼拝後に按手の祈りをしていただきましたが、その時強く示されたのは自分の職場で犯した罪でした。次の日の「静聴の時」でもやはり同じ罪が示されたので、卑怯者の自分をさらけ出すのは嫌だったのですが、仕方がないと観念しつつ「ファミリー」の時にそのことを話しました。その節はファミリーの皆様励ましてくださってありがとうございました。嬉しかったです。私もファミリーのメンバーお一人おひとりのために祈っています。
 職場で犯した罪が強く示されたのには、いくつか理由があったと思います。私は職場でクリスチャンであることを公言してはいましたが、聖書や信仰の話をほとんどしたことがありませんでした。職場でそのような話をすると奇異な目で見られてしまうのではないかという恐れがありました。また言わなければ露見することのない自分の失態をあえて話すことは、社会人として信用を失うのではないかという思いもありました。神様は、塩気の無い塩のような私の考えや生き方を変えようとされていたのだと思います。
 罪が示され悔い改めることはきついことですが、礼拝のメッセージで、手束先生が「罪が示される時こそバージョンアップの時である」と語られたこと、また福江先生が「矛盾、対立、プレッシャーがある時こそ飛躍の時」と語られたことが、励みになりました。今が自分にとってバージョンアップの時、飛躍の時なのだと確信することが出来ました。










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