月報 2017 5

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「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(1)―まるで小説のような世界に引き込まれ―

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動 (1)
 ―まるで小説のような世界に引き込まれ―

 山 田 一 恵

 ひょんなことから、この本の校正をすることになった。毎月月報を読み、二回にわたり原稿の校正をし、私は結局この本を三回読むこととなった。
 「満州での母との死別」から「光と出会った高校時代⑩」までは、一気に読み進めることができた。自叙伝ではあるが、まるで小説のような世界に引き込まれていった。そして泣いた。真夜中の校正の途中、タオルを首にかけ私は幾度も、幾度も号泣した。
 臨終の苦しい息のなかで、母が祈っている声である「神様、あの子を守ってください。正昭だけは助けて下さい」と。よく「死に際の祈りは聞き届けられる」といわれる。
 この祈りなくして、今の手束牧師があり得たであろうか。私の母は一人子の私を、自分の分身だといった。臨終間際の母は、最後の家族を失わんとする私の頭を撫ぜながら、かわいそうにと呟いた。一人子を残し逝く母の気持ちがいかなるものか。想像に余りある。
 十六歳を迎えた誕生の日、誰も祝ってくれる人はいなかった。そこで私は一人で誕生祝いをしようと思った。(中略)「ハッピー・バースデー・ディア・マサアキ」というくだりにきた時、ドッと涙が溢れた。私は泣きながらケーキを頬張った。
 私は長く高校教師をした。十六歳といえば高校一年生である。まだまだ少年の面影を残している年頃である。また、母親の愛情を必要とする時でもある。父との同居もはかなく消え、孤独な手束少年のこの誕生会は生涯忘れ難いものであった。
 私を息子の一人のように扱ってくれ、しばしば私を「次男の正昭でございます」と冗談交じりに知人に紹介するのだった。大学一年生の時だったと思うが、(中略)私の部屋の汚れに汚れた掛け布団と取り替えていかれた。(中略)その時つい、もし母が生きていたならば、きっとこんな風にしてくれたのだろうなと思い、それまではあまり覚えたことのなかった母への思慕の念にひたったのであった。
 その田中恵満夫人が四十五歳で天に召されていった時の悲しみは、万感胸に迫るものがある。涙が止めどなく溢れ出た手束青年の肩を落とした姿が目に浮かぶのである。
 次の「真理を求め続けた神学生時代①~④」における、「パウル・ティリッヒのキリスト論」という修士論文の作成過程における内容は、やや専門的で難解であった。ここはさらりと読み流すべし。後半、高砂教会に赴任した手束牧師は、新会堂建設計画に挫折する。その苦悩の姿を松本美和姉は、このように述べている。
 今なお、わたしの心のうちにはっきりと焼きついている光景があります。机に頭を伏して、全身の力が抜けて、魂も抜けてしまったのではないかと思われるほど落胆しきった牧師先生のお姿。イエスがゴルゴダの丘へと十字架を背負って歩まれた哀れな姿にも似て。
 しかし、この屈辱は二倍の賜物となって返ってきた。高砂教会は現在、広大な土地やいくつもの建築物を有している。
 この書には、人の人生は失敗・損失・喪失に直面しても、神の恩寵に触れることができる証が述べられている。即ち、私たちの人生は感謝によって締めくくられるように創造主によって意図されているのであると。
私は昨年関西聖書学院で、あるご夫婦と知り合いになった。今春彼らは卒業し、東北の宮城県塩釜市で開拓伝道を始める。開拓伝道の道のりは厳しい。挫けることなく初志貫徹してほしいものだと願う。彼らの将来を祝福してこの自叙伝を送りたいと思う。この書は彼らに生きる勇気と希望を与えると確信しているから。


「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(2)―高砂教会で洗礼を受けて良かった―

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(2)
 ―高砂教会で洗礼を受けて良かった―


北 田 一 男

 読後にひと言、あー洗礼を高砂教会で受けて良かったなあと…涙ぐみながら強く思った。最近涙もろくなったのは歳のせいかとばかり思っていたが、気づくと教会に出入りするようになってからの事だ。いつも泣ける泣き男になってしまった。唯一違っているのは涙を流した後の爽快感がたまらなく気持ちいい。手束先生の人生物語には泣くところがいくつも有り、人生を共感出来る所が多い。七十歳以上の方々なら尚更感じる所があると思います。
 手束先生の人生物語の中に流れている引力とでも例えるしかない神の力。万物に働く万有引力のように、すべての事柄に隅々まで影響を及ぼした主の導きを感じずにはいられなかった。決して堅苦しくなく、自由な文体が、より物語を身近に感じられるところが素晴らしい。私自身シオン会(月報味読会)のメンバーでありますが、遅れて来るなら帰れ!と怒られると聞いていたのですが、とても今の職場環境では毎回出席は不可能。にもかかわらず遅れてもいいからおいでなさいと優しく誘ってくださいました。この手束先生のどこにも怖いところはなかった。昔から知っていたかのような気易さと温かさを感じてしまった。会社の上司ならどこまでもついていきたいタイプの人。今回拝読して手束先生の温かさの源がよく理解できました。神の言葉の担い手として素晴らしい足跡を残して行かれていることにも神から選ばれし者との思いを強く感じました。
 とにもかくにも、よくぞあの満州から帰りけり。連れて帰って下さった従兄弟殿にお礼を言っても言い尽くせない気持ちにならざるを得ませんでした。今の教会があるのも、彼の死に物狂いの頑張りの結果が有ったからです。手束先生の原点はここからやったんだなあと感じ、奇跡では片づけられない神の導きが有った事を知るに至りました。当時満州からの引揚者は何万人と居て、それぞれの人々にそれぞれの人生物語があったのです。筆舌に尽くせない出来事があったのです。神の導きはすべての人々に働いていたと思いますが、当の本人がそれと気づいているかどうかはわかりません。少なくとも平和な今になって振り返ってみて初めて気づくことでもあると思います。その当時クリスチャンであれば、神を信じていれば身の回りに起こるすべての出来事は、たとえどんな残酷な事であっても嘆くことはない。それらは神の導きであり、そして神は次の扉を必ず開けて下さる。そう結論付けたい。
 神を信じる上でわかっているようでわかっていないイエスキリストの十字架による罪の贖いの意味、本当に罪責感で苦しむ人々の多いこと。私も含めてであるが、罪責感が人の中にある可能性を封殺する、つまり明るい未来に進めなくなる。頭でわかっているのに本当に理解できていない。この壁を乗り越えることで幸せを手に入れられるんだよ、とこの本では強く訴えかけてくれる。幸せとは希望に満ちて生きることである。普通は死んだら終わりやがな…でもキリスト教では死んだら始まりやがな…それなら受洗するしかないなあ、と手束先生はメッセージを流しだして下さっていると感じてしまった。
 恥ずかしながら、大泣きしてしまったところは手束正昭十六歳のバースデーの悲しさは神も見て涙したでしょう。手束先生の前に神が遣わせたとしか見えない人々の多いこと。すべてが必然であった。手束夫妻の結婚記念日はなぜか僕の誕生日でうれしかった。そして最後にどうしても言いたかったことは、高砂教会のメンバーすべての人々に恩寵燦々とが息づいている。自分はクリスチャンとして何一つすごいことはできないんだ。まだサクセスストーリーを完結できてない人間なんだと思い悩むことはない。親愛なる兄弟姉妹達が側にいてくれるではないか。少なくとも、手束元老牧師率いる高砂教会にたどり着けたことが奇跡。いや愛する神からの恩寵の証であると思った。これほど確かなことはない。



「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(3)―〝あまりの深き 感動ありて〟―

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(3)
 ―〝あまりの深き 感動ありて〟―

 沖縄聖書福音聖川教会牧師 當 銘 由 正

 「恩寵燦々と」を読み終わって、その内容の凄さに驚嘆し、深く感動したことのいくつかを記して、感想文に変えたいと思います。
 まず第一は、手束先生の記憶力の凄さです。中学時代から始まって、現在までに出会った多くの人が出てきますが、その時、その場での会話を鮮明に覚えておられ、素晴らしい文章力で克明に書かれているので、引き込まれるように読み進みました。しかも、出てくる人についてよく説明がなされているので、読者にもよく解ります。
 多くの自叙伝は、出てくる人について何の説明もなしに会話が書かれていて、部外者の読者にはさっぱり解らないものです。わたしは数冊の自叙伝を持っているが、結局、数頁読んで後は本棚に「ツンドク」となって収まっている状態です。
 第二に、どの本でもそうですが、手束先生の文章力、表現力の凄さに驚かされます。
 ことわざに「物は言いよう」とありますが、手束先生は名文豪であり、言葉の芸術家です。文学的表現力が凄いので、ある所は心温まり、また、涙なしには読めないような出来事の記事もあり、これは小説にしたらベストセラーになるのではないか、と思いながら読んだ箇所もありました。(初恋物語等)
 第三は、多くの書物の引用力の凄さです。神学は言うに及ばず、文学、哲学、心理学、精神医学の書等から自由自在に引用されていることです。先生の知識の深さ広さにはいつも驚嘆させられます。しかも、分かり易く説き明かされるので、よく理解でき、読み進むことが出来ます。
 第四は、知的霊的洞察力の凄さです。人生で起こるすべての事柄の中に、恩寵の神、摂理の神の意図があり、目的があるという一文で、読者は大いなる慰めと励ましと希望が与えられます。「はじめに」で手束先生は「私のこれまでの人生を振り返りながら、そこに燦々と注がれ続けていた神の恩寵の尊さと偉大さとを感動を持って証していきたいと願って、筆を執る決意をしたのであった」と書いておられますが、読者に充分伝わりました。
 ほとんどの自叙伝は業績を羅列するだけで内容も浅く、読者にはつまらないものです。「恩寵燦々と」は知識においても深く広く、霊的洞察力も凄いので、他の追随を許さない自叙伝で、ただただその素晴らしさに驚嘆するばかりでした。まさに「読み応えのある自叙伝」です。
 先生の自叙伝を読み終わって「わが時はすべて聖手(みて)にあり」(詩三一・一五)の聖句を思わされました。
 最後に、手束正昭先生との出会いを与えてくださった恩寵にして摂理の神に深く感謝します。

 先生(きみ)の書(ふみ) 読みて溜息
  つくばかり
   あまりの深き 感動ありて

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(4)―これほど面白く熱中して読むとは―

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(4)
 ―これほど面白く熱中して読むとは―


建築家 石 田 恵 美

この本を知ったきっかけは、高砂教会から送られた手束先生の新著のご案内からでした。これまで、高砂教会のコンペや改修の際に『信仰の表現としての教会建築』など拝読させていただいた著書はありましたが、建築という職の頭で何気に読ませて頂いておりました。
その後、『朝早く主に叫べ―早天祈祷の意味と力』では読書の楽しみとして読ませて頂きました。その際は本の厚さの手軽さもあり鞄に忍ばせ、電車の移動の際に読み続ける中、時々本を伏せ「やばい…」と必死で涙をこらえることもありました。以前から、夜明けの早い朝の時間が好きでした。朝活ということで、記事として取り上げられることも多くあったかもしれません。一人静かに好きなことをしていられる時間として、時には仕事に充てたりもしましたが、その本を拝読後はなるべく自分と向き合う時間として使うようになりました。
 今回の「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」では、自叙伝ということで「高砂教会との歩みかな」くらいの軽い気持ちで読み始めたのでしたが、これほど面白く熱中して読ませていただく事になるとは思っていませんでした。
《人生は、「自己発見の旅」だといわれている。自分とは何なのか。自分はなぜこの世に存在し、どのような意味と目的を持っているのか。このことを探し求める旅路こそ、人生にほかならない。それは、今日の言葉でいえば「アイデンティティの確立の旅」ともいえるであろう。人間である限り誰でも、それを意識するかしないかに拘らず「自己発見」や「アイデンティティの確立」を求めてさまよいつつ生きているのである。》《真のアイデンティティというのは、神から来るのである。》
 はじめの数行ですでに心を鷲掴みにされた気分でした。人生という一つの軸の流れから、そこから根や枝のように広がるいくつものお話や言葉の引用で構成され、また、難しい内容を平坦な言葉で読みやすく、わかりやすく書かれている内容に、ぐいぐい引き込まれ、自叙伝が届いてからの早朝は、私の心は高砂教会の周りを歩いていました。まだ読み終えていないそんな中、偶然にも籠谷裕美さんから連絡を頂きました。勢いあまり、友人と映画が終わった後に語らうような気分で、わーっと話をしてすっきりした後に、「その感想をぜひ、手束先生に直接どうぞ」ということで、その後高砂教会で手束先生にお会いすることになりました。その時は、楽しく感想をお伝えして、サインもいただいて嬉々として帰ったのでした。が、それだけでは終わらず感想文をお願いしますということで、困ったなという思いもありましたが、先生に感想をお話ししている際に喜びと共に言われた、「どうしてそんなに興味を持ったんでしょうね」という言葉に、自分自身もよくわからないところもあり、「いい機会なので書いてみようかな」と思い、子供時分以来書いていない感想文を書くことになったのでした。感想文を書くにあたって、自分の子供ためにと以前に保存していた「低学年の子供に読書感想文をかかせる方法」というネットの記事を読みました。自分の気になった文や言葉を書き出していくうちに、分類できる興味のあるいくつかのまとまりが見えてきました。
 その中でも私が手束先生の自叙伝全体に感じた感想を表したものとして、著書の中で「神学って何だろう」という問いに対してパウル・ティリッヒによって見出した下記の文章がありました。
 『神学とは、キリスト教信仰という特殊真理を普遍概念を持って語るということであった。それゆえに、ティリッヒ神学は、哲学や文学だけでなく、心理学や社会学さらには、歴史学や自然科学をも駆使して、キリスト教の真理性を弁証していくという壮大なスケールの元に展開されていたのである。「これは面白い」と私は思った。というのは、私のようにキリスト教と無縁な環境で育ったものにとっては、クリスチャンになるというのは、きわめて特殊なことであり、そのことを周囲の人々に説得的に弁証するのには、どうすべきかという課題に直面していたからである。』実にこの文章そのものが、私自身の手束先生の自叙伝に感じた感想を表したものでした。
 私は、大学卒業後デンマークに留学し、そのままデンマークで設計事務所に勤めていた際に、初めて自分がデザインを担当させてもらったのがプロテスタントのキリスト教会でした。色々と近代的な教会建築を見学し学びながら、設計を進め、基本設計は終了していましたが、資金的な問題からいつまでもその先に進まず工事に着手しませんでした。何年も待ちましたが、独立と結婚を機に日本に帰国した次の年に動き始めました。摂理というのはこういうことをいうのかなと思いました。心残してきたキリスト教会建築の設計の思いが高砂教会のコンペへとつながっていきました。またそのつながりから、京都シオンの丘キリスト教会のコンペなどとつながっていきました。しかしまだ、キリスト教会建築の夢が残っているのです。教会を設計したいという思いはあるのですが、その後に続いていきません。そのような中で拝読させて頂いたこの著書がたくさんのヒントを持っていました。私のようにキリスト教と無縁な環境で育った者にとって、これまで知らなかった教会について、神学について、牧師について、わかりやすく理解できる言葉で書かれた著書は目から鱗でした。同じキリスト教でありながらも、人間中心の信仰(人本主義)か神中心の信仰(神本主義)かの違いから見えてくる日本のキリスト教会のかたちがおぼろげながら見えました。
 ご自身の人生を裸眼・複眼で見ながらも、広がる根や枝の先にまで一貫して通った聖霊論からの理解は、私に気づきを与えて下さいました。この著書を読んでいる時に思い出した好きな映画のシーンがあります。ヴィムヴェンダース監督の「ベルリン天使の詩」という映画の中で、ドイツの建築家ハンス・シャロウン設計のベルリン州立図書館の美しい近代的な建物の中で、人々には見えない黒いコートを着た天使が本を読んでいる人に耳元でささやいているシーンです。まさにこのシーンのごとくいろいろな気づきを与えて下さった著書に感謝を申し上げたいです。また、下巻の上梓を心より楽しみにしております。

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(5)―手束師の大きな働きの秘訣を知る―

「恩寵燦々と―聖霊論的自叙伝」の感動(5)
 ―手束師の大きな働きの秘訣を知る―

 レムナント主筆 久 保 有 政

 波乱万丈の生涯を送ってこられた手束師であるが、高齢の今も、宣教と啓蒙への強い情熱を失っていない。その秘訣がこの本の中に読み取れる。
 とかく自叙伝は自画自賛的になりがちだと思うが、この本にはそういったものが感じられない。むしろ「自分の生涯をこのような目で振り返ることが大切だ」ということを教えられる。
 人の人生はそれぞれに異なっている。しかし自分の生涯をどのような目で見るのがよいか、それを教えてくれるのがこの本である。
 手束師は戦争末期の一九四四年、中国上海で生まれた。戦争直後の一九四六年には、ソ連の侵略を受けた満州において、父親と離別。さらには母親とも死別して、孤児になった。
 しかし母親はその臨終の苦しい息の中で、「神様、あの子を守ってください。正昭だけは助けてください」と祈ったという。
 「死に際の祈りは聞き届けられる」といわれる。母はクリスチャンではなかったが、幼い手束師はそののち、奇跡的に日本に帰還することができた。
 そののち成長した手束師を通し神は、日本のキリスト教界に必要な、新しい霊的啓蒙活動を起こされた。
 この本には「聖霊論的自叙伝」という副題がついている。目に見えない神が、いかに自分の人生にかかわって恩寵を注いでくださったか―そこには神の聖霊の深い導きがあった。
 ただし、恩寵は多くあっても、いつも順風満帆とはいかないのが人生である。手束師も教会形成の中で、何度も深い挫折や苦難を味わっている。しかし挫折や苦難があっても、それを乗り越えさせてくださるのが神の恩寵である。
 そのような人生の起伏が、名文とともに克明に記されている。
 手束師の牧会する教会は、兵庫県の高砂市にある。鉄道の駅を降りても、ほとんど何もないような田舎町だが、そこに大きな教会がそびえ立っている。
 しかし手束師は、自分の教会を大きくすることだけを考えてきた人ではない。いつも日本全国の宣教拡大と教会成長を願い、祈り、手を差し伸べてきた。
 全国規模の聖書及び聖霊の啓蒙活動を行ってきたのも、そのためである。そこには、神に与えられたとしか思えない大きな知恵や愛が常にあった。
 私はつねづね、そうした師の秘訣はどこにあるのだろうかと思っていたが、その理由をこの本から知ることができた。






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