月報 2017 9

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修養会にて決意新たに (1)―遂にできた献身の表明―

修養会にて決意新たに (1)
 ―遂にできた献身の表明―

谷 元 延 幸

 誰にも言ったことがないのですが、私には、長年思い続けている事があり、その思いは年々強くなっています。そのことは、仕事を終えてからと考えていましたが、将来の自分がどのような状態なのかわからないし、それからスタートするのではなく、その時にはすでに立っていなくては…と考え始めていました。
 修養会へ向かう朝、突然、数年前に預言された内容が頭をよぎりました。気になったので、録音していた預言の内容を聴き直しました。「あなたは今いるところより更に深みに漕ぎ出しなさい……。手放しなさい……」その預言を受けた当時と現在の状況は違いますが、〝献身〟について迫りにも似た思いがきていたので、この言葉で更に背中を押されるような思いに駆られて家を出ました。そして、数年前に千葉から高砂に移った時のことを思い返しました。千葉の教会を離れるとき、熱い祈りによって送り出して頂いたこと。「キリストの弟子を作る弟子を育てなさい」と派遣の祈りをもって送り出されたこと。感謝なことでした。その時祈られたことは今でも私の支えの一つです。その祈りもあってのことでしょうか、現在、教会学校のお手伝いをさせて頂いています。
 そして、駅に向かう最中、意識していたわけではないのに、なぜか過去に参加した聖会のある場面が思い出されました。その聖会の中で献身の促しの時に応じることができなかったことを。献身の思いがあって立ちたかったのに、主の前に立つ恐れ、お前が立つのはおかしくないかとか、単なるノリで立つのではないかとか、献身表明って人前ですることではないだろうとか……一瞬立ち上がりかけたのですが、私は勧めに従って前に進むことが出来ませんでした。しかし後になって激しい悲しさと悔しさが入り混じった気持ちが湧いてきました。主の前に正直になれなかった自分が情けなくて悔しかったのです。そして、決めました。次は立つ。私が傷つくのは、主の前に正直に立てない自分の情けなさにだ。資格があるなしじゃない。献身の思いがあるかないかと問われたらあるのだから立つ。その後は主の領域だ。その道が開くなら進む。献身の促しのある場面には立つのだと。朝に聴いたこの預言は、思いを持つだけではなく、決断しなくてはと私に強く迫ってきました。そんなことを心の片隅に留めながら、修養会に臨みました。まさか、第四聖会で献身の勧めがあるとは思わずに。
 第四聖会での献身の促しは、これまでにあったような促しではなく、より厳しい内容のものでした。講師の万代先生を通して、主はふるいにかけ始められたのだと思いました。正直なところ、一瞬躊躇しました。結婚・命・子ども・家族・お金など手放せるのかと。命については、私は生まれてすぐに手術をし、大人になるまで生きられないとも言われていました。また、救われる前にもこれまで何度か命の危機を体験してきた中で、自分は別の力によって生かされていると感じていましたが、クリスチャンになった現在は、この命が主のものであるとわかります。そしてふるいは続きます。ドキっとするような内容ばかりでした。結婚も主のもの。結婚する前に妻は私との結婚を主に捧げると言っていましたので、これについてはクリア。一番願っている子どもも主のもの。ふるいの内容は全て主のものでした。執着してもすべて主のものだ。手放す。緊張を覚えつつ、頭の中で思考しました。万全な状態で新しいことに臨むことなんてなかった。何を待って進むつもりでいるのか。いつまで風を見ているのか。想いがあるのなら立て。ここから先は主の領域だ。私は立ち上がりました。聖会後、妻とお互いの献身について確認しあい、もっと先だと思っていたけれど、牧師先生方に相談してから神学校に行こうと思うと告げました。そして、修養会後の夕拝で思いがけず背中を押されるように、先生に相談する前でしたが、献身表明をすることになりました。また月報でも報告となりましたので、更に押し出されるような思いでいます。未だ先生に相談する前ですので今後どうなるかはわかりませんが、道が開かれるなら進む所存です。



修養会にて決意新たに (2)―日本基督教団に対する使命と責任を知る―

修養会にて決意新たに (2)
 ―日本基督教団に対する使命と責任を知る―

則 竹 幹 子

 今年は聖霊降臨四十二周年の年にあたり、様々な行事が進められていく中での修養会となりました。祈祷会やみとろ荘の集会では、四十二年前に修養会で起こった聖霊降臨によって教会が変わり、霊的にも教勢の面でも著しく成長していったことが、兄弟姉妹によって証されました。四十二年前に体験することの出来なかった私たちも、その恵みを知ることができました。
 今年は「再び聖霊で満たして下さい!」のテーマをいただき、教会員の方々の期待が修養会にも大きく寄せられているのが感じられました。
 万代先生は高砂教会の歴史について、その霊的な意味を詳しく解りやすく語ってくださいました。一九〇〇年代から聖霊の注ぎが始まり、一九六〇年代から世界のキリスト教会に起こった聖霊様の顕著な働きのなかで、高砂教会にも聖霊が注がれたことがわかりました。私は若い時日本基督教団静岡教会で洗礼を受けました。メッセージで恵まれ、教会での交わりも暖かいものでしたが、聖書に載っている癒しや奇跡のお話は、イエス様の時代に起こった過去の出来事と私は認識していました。「活きて働く神様」とは無縁のクリスチャンでした。全国各地に教団の教会はあります。その多くは昔ながらの信仰を守り、高齢者によって支えられており、やがて三分の二の教会は消滅すると言われています。ペンテコステ、カリスマの教会ではなく、日本基督教団の教会に聖霊が注がれたことは、高砂教会に特別な使命と責任が与えられていることを強調されていました。
 また、万代先生はクリスチャンが絶滅危惧種になっているのではないかと案じられ、聖霊が注がれた高砂教会の大切さ、使命、責任の大きさを自覚するよう促してくださいました。そして、聖霊様の力を受けて、万代先生の教会は外側から、高砂教会は日本キリスト教団の内側から、共に日本のリバイバルのために働いていこうと熱く語って下さいました。
 私は二〇〇三年に高砂教会に転会させていただき、その翌年から修養会に参加させていただきました。日常から解放されて恵みの中で過ごせる修養会には毎年期待して参加させていただきました。やがて修養会委員としての大切な役割を与えられ、その年毎に大きな恵みをいただいてきました。
 修養会の一ヵ月前から断食祈祷が始まります。祈るなかで、「聖霊があなたがたにくだる時あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となるであろう」(使途一・八)とのみ言葉が何度も浮かんできました。第三聖会でこのみ言葉から語っていただけたことは感謝でした。神様の愛、恵みは十分にいただいていますが、なかなか流し出すことができないということが私の長年の課題です。私の実家は、お寺の檀家として長いお付き合いをしており、母は先祖から受け継いだ家を守るという責任感から、教会とは一線を引いていました。静岡という遠い地ではありましたが、不思議な導きによって、亡くなる数ヶ月前、母は新谷先生より信仰告白を導いていただきました。聖霊様に働いていただいたら、不可能と諦めていたことも実現するとの思いを強くしました。母が亡き後、残された家族にも友人にも恵みを流し出したい、そのための力を受けたいと祈りました。
 聖会の讃美も恵まれました。讃美の流れの中で声を合わせていくときに、聖霊様に導かれて聖霊様とひとつになっているような高揚感に包まれます。麗しい御国で憩わせていただいているように感じました。第四聖会では私たちは先生方から按手を受け、聖霊様に満たされました。
 これからも神の国を体験する素晴らしい修養会になりますように!聖霊様の力をいただいて高砂教会が日本のリバイバルのために豊かに用いられますように。

修養会にて決意新たに(3)―高砂教会に聖霊の実を見た―

修養会にて決意新たに(3)
 ―高砂教会に聖霊の実を見た―

神のみことば教会牧師 杉 本 樹 里

 「修養会に来てください」と手束先生に言われて参加した高砂教会修養会は、私の想像以上にすばらしい三日間でした! 私が高砂教会修養会に参加することになった理由は、私には、イエス様から「あなたにして欲しいある事がある」と言われて始めた「神の仕事」があって、七年間取り組んできましたが、その監修を手束先生がご承諾くださり、それについて、やっと直接先生と検討する段階になったからでした。
 【聖霊降臨四十二周年『主よ、再び聖霊で満たしてください』】と銘打った〔二〇一七年度高砂教会修養会〕において、特別講師の万代栄嗣先生は、「四十二年前の高砂教会修養会に、なぜ聖霊が降臨されたのか?」について明快に開示されました。
 「聖霊のご存在を感じられなくなったキリスト教界に、神は二十世紀前後から激しく聖霊を教会に注がれ、多くのクリスチャンが異言を伴う聖霊のバプテスマを受け、カリスマ運動が盛り上がっていきました。隆盛になったきっかけは、伝統的な聖公会の司祭が、異言を伴う聖霊のバプテスマを受けたことが新聞に載り、方々の保守的なクリスチャンたちが同様の体験を告白したからでした。
 この現象は日本でも同じであり、日本の伝統的なキリスト教界にあって、四十二年前に聖霊降臨を受けた高砂教会は、『聖霊が教会を導かれている』ことを証する存在として、神からその使命を託されたのです! だから高砂教会は、この神の真実を、日本中に世界中にはっきりと伝える使命を授かったと言えます」と万代先生は断言されました。
 この四十二年間、実際に聖霊が導かれた高砂教会員には、御霊の実が結ばれていきました。教会員の皆様の立ち居振る舞いからは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の御霊の実が溢れ出て、豊かに実が結ばれていることを知りました!
 それが実証されたのが「聖会④」のフィナーレで、幼児から八十代までが一緒に大笑いし喜ぶ「お楽しみ会」において、また、多くの方々が「献身の意志」を表明された場において、高砂教会にある聖霊の実を見ました!
 献身の意志を表明された方々は、エペソ:四・十一で、「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになった」と言われている「神の五つの奉仕職」に身を奉げる意志を表明されたのでしょう。
 しかし、「神への献身」はこの「五つの奉仕職」だけではなく、ローマ十二:六-八にある「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい」と言われている教会への奉仕も含まれます。さらに広義の場合、「自分が自己実現していく生き方」から「神の御心実現の生き方」に変えるのも、“献身”と言えるでしょう。
 そのような歩みをする方々は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ二:二十)を実体験なさるのでしょう。
 「海行かば・・・」、そこにはイエス様が共におられ、大嵐には船のへさきに立たれて、「静まれっ!」とご命令なさいます!私たちも信仰によりイエス様の名によって、そのように命令できます!「山行かば・・・」、私たちの信仰によって、イエス様が険しい山を低くされ、深い谷から立ち上がらせてくださいます!
 御父、イエス様、聖霊様を褒め称えます!

修養会にて決意新たに(4)―神の愛はどんなものにも勝る!―

修養会にて決意新たに(4)
 ―神の愛はどんなものにも勝る!―

喬木教会 片 桐 貴 恵 子

 私の職場は保育園で、園長をやっています。毎年この八月の第四週は、長野県の中で大きな保育研修会があります。いつもだったら、職員を連れて先頭に立ってその研修に参加しなければならないところですが、この二年間は、職員には研修に出るように言いながら、私はこの素晴らしい修養会に参加しています。そのときには、霊的引きこもりクリスチャンのように、「ちょっと用事があって・・・」と言葉をにごして神の恵みの座『赤穂ハイツ』に来ています。万代先生だったら、「ばかもの!主を証ししなさい!信仰を公に言い表しなさい!」と言われるのではないでしょうか!本当に心の弱い者です。
 この修養会では、わたしの中の弱さ、情けなさと向き合わされる時となりました。
「私たちは、神から純真な信仰を賜物としていただき、また天から与えられた聖霊によって神の御計画の中で大きなビジョンをもって歩む。イエス様への純粋さや真剣さにおいては、過去のクリスチャンに遅れをとってはならない。本当に命を捨てるクリスチャンであってほしい。命を捨てる覚悟で福音を述べ伝えよ!福音のエネルギーを次の世代に繋げなければならない。」と語られました。私たちの喬木教会も、私を含め高年齢層がしめていて、若者が少ない苦しい状況にあります。
 万代先生はおっしゃいます。「日本カワウソは、絶滅種、クリスチャンも絶滅危惧種ですよ。そして聖霊で満たされたクリスチャンはもっと少ないのですよ。霊的引きこもりではいけない。神の住民にしてくださった事に大きな意味があるのだ」と。
 「神の賜物を燃やし・・・ガスコンロの種火、とろ火ではなく、大きなコンロの大きな炎を、ボンと音がするぐらいに燃えたたせようではありませんか。『神よ点火してください!』と祈り、長いクリスチャン生活でついてしまった癖や、よけいなものをそぎ落していただく。私たち自身が神から与えられた賜物であり、聖霊様の直接的な働きによって燃え立たせていただくように」と。想定外の神様の働きを体験していきたいと強く思わされました。
 ステファノとフィリポは、「神様からの霊的フルチャージを受けた時、聖霊によって『用いてください』と言うことができる。最初は給食係だったのですよ!目立たずしんどいけれど主はそういうところを見ている。そこに神様のカギがあるのだ。」とおっしゃいました。
 万代先生は激しい思いで大きな声で語られます。「主のために命を捨てる覚悟はありますか?」「教会は、命を捨てる本物の献身者によって支えられる!」「命を捨てる覚悟のある方は立ってください」と献身の招きがありました。私はいつも教会に救いの魂が沢山起こされ聖霊で満たされるよう奇跡の祈りをし、そのために自分を用いて下さるよう祈っていたのに、なんと立つ事ができなかったのです。立つ事が出来ない。『そんなずるい!今聞くの?こんなにびびらせておいて、いま?』私の脳裏にはイエス様の十字架刑とステファノの殉教、そして絵踏みをしなかったために竹ののこぎりで挽かれて殺されていく日本人の姿が生々しく映し出されていました。なんて私は、弱いのか。情けなさすぎる。本当に苦しくなりました。
 そして、あのペトロが、三度もイエス様を知らないと言ったシーンが思いだされました。本当に情けなくて泣けました。イエス様は、ペトロに語りかけます。「私を愛しているか」「私を愛しているか」「私を愛しているか」と三度も聴きます。「はい愛しています」。弟子としては、大失敗したペトロを一方的な愛で満たし、圧倒的な愛と強さを示して下さったのです。神様は、大失敗した私に語られました。
『これは、私の愛する子、私の心に適う者』(マタイ三・一七) 『私は、羊のために命をすてる。』(ヨハネ一〇・一一) 『恐れることはない。私はあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。』(イザヤ四十一・一〇)
 本当に弱くて情けない私ですが、人生の土台は、イエス様であるという事を再確認できて感謝します。イエス・キリストを通して私に注がれた神の愛はどんなものにも勝り、神が私たちの味方ならば誰が私に勝てるでしょうか。本当に弱い私ですが、伝道を頑張るぞ!!教会の為、神様の働きの為に小さな奉仕から献身して行こうと決意いたしました。そして、牧師先生をもっと愛し大切に思わなくてはいけないな…と思わされました。
 この場をお借りし素晴らしいメッセージをしてくださった万代先生と、手束先生、教会員の方々に心から感謝いたします。高砂教会に素晴らしい祝福がありますように。私も高砂教会の御婦人方のように笑顔が美しく目がキラキラ輝き信仰に熱くなれるよう、日々祈っていきたいと思います。

修養会にて決意新たに(5)―信仰の喜びを伝えたい―

修養会にて決意新たに(5)
 ―信仰の喜びを伝えたい―

栃尾教会 手 束 実 結

 今回、本当にこの修養会が聖霊に満たされ、喜びに溢れた修養会であったこと、そしてこの修養会に参加出来たことを感謝します。私にとって初めての修養会でしたが、とても恵まれた時となり、今までに感じたことのない大きな恵みに満たされました。
 私は、今まで新潟で生活をしていました。そして、大学進学のために祖母の家がある加古川に引っ越してきて、当然のごとく、高砂教会に通わせてもらうことになりました。しかし、通い始めた頃は正直、戸惑うことばかりでした。なぜならば、YC(中高生会)に行くと、同世代の子たちが目をつぶり、手を上げて賛美をしていて、その姿を見て私は、この中に入っていくことができるのだろうかと不安になったからです。また教会の礼拝でも、聖霊様、聖霊様と、どうしてこんなにも聖霊様のことを話すのだろうと疑問に思っていました。
 このように、この教会に通い始めたばかりの頃の私は、今までの自分の教会生活との違いにとても戸惑っていました。私は牧師家庭に育ったので、小さな頃から日曜日に教会へ行くことは当たり前、日々の中でお祈りするのも当たり前でした。しかし、教会に行くこともお祈りすることも、私にとっては、ただしなければならないものになっていました。神様のことは信じているけれど、教会に行って礼拝を捧げることには喜びをあまり感じていませんでした。しかし、こんな私にも神様は働いて下さって、高砂教会での礼拝の中で受ける〝恵み〟を感じられるようになりました。そしてこの教会の聖日礼拝やYCの礼拝などを通して、私も聖霊様に満たされたいと思うようになり、聖霊様によって満たして下さいと祈るようになりました。このように祈るようになってから、礼拝を捧げることが喜びへと変わっていき、もっともっと神様に喜ばれる者へと変えられていきたいという思いが沸き上がってきました。このように私自身が変えられてきている中で、今回の修養会に参加できることになり、心から主に期待して臨みました。
 初めての修養会ということで、少しドキドキしていましたが、神様は私の想像をはるかに超える恵みを与えて下さいました。聖霊によって満たされると喜びが溢れてくるということを、この修養会で本当に感じることができました。私は今まですごく世の中の思いの中で生きていて、人間的な考えでしか物事を考えることが出来ませんでした。私は、人からどう思われているのだろうかとか、人と比べてどうだろうかとか、マイナスな思いや言葉にいつも苦しんでいました。しかし、神を信じる者は必ず勝利する。どんな困難の中にあっても私たちには神様からの圧倒的な恵みが与えられているということを、講師の万代先生を通して語られ、とても励まされ、心から神様に感謝しました。そしていつもイエス様が私たちと共にいて下さり、私たちを神様の愛から引き離すものはないのだということを、しっかりと握っていきたいと思わされました。
 また、聖会での万代先生のメッセージを通して特に思わされたことがあります。それは、私たち一人一人が主の証人として用いられるということです。今まで私は、自分はクリスチャンだけど、ノンクリスチャンの友人たちに神様のことを伝えていくのは私には出来ないことだと思っていました。そこには人間的な弱い気持ちがありました。けれども今回の修養会を通して、神様に選ばれ愛されている私たちには、使命が与えられているのだということを強く思わされました。同時に、救われているのに、生きた信仰の上に立つことが出来ない人のことも思わされました。私はミッションスクールの高校に通っていたので、クリスチャンの友人が何人かいます。今、その人たちのためにも祈り、聖霊によって満たされ、生きた信仰を持つことの喜びを伝えていかなければいけないと思わされています。





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