月報 2018 3

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出版記念会直前に再び「恩寵燦々と」を読む(1)―ググッと心が惹きつけられる不思議な感覚―

出版記念会直前に再び「恩寵燦々と」を読む (1)
 ―ググッと心が惹きつけられる不思議な感覚―

佐 川 千 秋

 私には、大好きな作家がいます。私は子どもの頃、中学生の時から特に詩集が好きでした。多感な時期に出会った詩集は本当に印象に残っていて、今でも手元にあります。それは、武者小路実篤と高村光太郎の詩集です。
 また、私には大好きな文章というものもあります。それは、目の前にその光景が立体的に浮かびあがってくるもの、筋のビシッと通った信念、その作者のぶれることのない考えが伝わってくるもの、そして比喩表現の美しいものです。昔から、そのような文章に出会うと、どうしたらこんな文章が書けるのだろうかとよく思ったものでした。先程、名前をあげさせていただいた作家は、読んでいると本当に吸い込まれるような大好きな文章がたくさん散りばめられています。素敵な文章のオンパレードです。前世紀に書かれた作品を今もこうして読む事が出来るのは何て素晴らしい事だろうと神様に感謝しています。
 しかし、もっと驚いたのは、身近で大好きな文章に出会えた事でした。それが手束元老牧師先生の書かれた聖霊論的自叙伝「恩寵燦々と」でした。どこの部分を読んでも筋の通った信念というものが香り、目の前に立体的に光景が浮かび、内容によっては涙さえ出てくる程でした。ググッと心が惹きつけられるような不思議な感覚がありました。どうしたらこんな文章が書けるのだろうか。私は驚きと共にその文章の素晴らしさに感動せずにはいられませんでした。
 また、「恩寵燦々と」を読んで他にも感じたことがあります。それは、手束元老牧師先生は、この高砂教会の歩みの中で大転換期を担われたのだという事でした。高砂教会に聖霊降臨がなされて今年で四十二周年になりますが、人本主義から神本主義へと大転換がなされる過程で、どれ程それが壮絶な戦いであったことか。読み進める中で迫ってきました。そして強く思わされたのは、この大転換期を乗り超えることは手束元老牧師先生でなければなし得なかったということでした。パラダイムシフトというのは言葉で表すのは簡単であっても、その過程は先生のように強い信念、神様に対する絶対服従と油注ぎがなければ、つぶれてしまう苦汁もあると思うからです。歴史というのは時に神様が激しく介入される時がありますが、手束元老牧師先生の歩みは正にそんな時だったのだろうと、読んでいて実感せずにはいられませんでした。それを、この本があることによって後の世代にも継承することができるのですから、神様のなされる業のすごさを思わずにはいられません。
 主のなさることは時にかなって美しい、という聖書の御言葉の如く、これからの歩みも更に主の守りと祝福がありますよう、祈りをこめて、私の大好きな作家の詩を最後に書かせていただきます。

 道 程
             高村光太郎
  僕の前に道はない
  僕の後ろには道が出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため



出版記念会直前に再び「恩寵燦々と」を読む(2)―神様に依怙贔屓された人生を見た―

出版記念会直前に再び「恩寵燦々と」を読む(2)
 ―神様に依怙贔屓された人生を見た―

砂 山 ゆ か り

 以前、こんな事を聞いた事がある。人は生まれもって強運の星の下に生まれて来る人と不運の星の下に生まれて来る人が居る。しかし、いくら強運の持ち主でも、その運の良さにあぐらをかき、努力を怠ると、どんどんと運が低下していく。また、どんなに不運な星の下に生まれていても、それを相殺する良い運を必ず持っていて、努力や肯定的思考を持つ事によって、その運が開かれ、良い人生運に変わって行くと。 まさしく、手束先生は努力と肯定的思考によって人生を切り開いて行った運の持ち主だと思った。しかし、世間で言われている前向き、肯定的、俗に言うプラス思考と言うものだけではない。クリスチャンの特権である、神様の愛が全てを覆って下さっている安堵感の上に成り立つプラス思考である。
 私の周りに、いつも肯定的思考を口にする知り合いが何人かいる。確かに、聞いているともっともであり、それなりに成功を収めている。しかし、神を知らない自己啓発は何か物足りなく、己の力を誇示し、謙虚さに欠けているような気がしてならない。この本を通して、神様の愛を知っているという恵みは何という幸いである事かと思い知らされる。若いうちの苦労は買ってでもしろと言う諺がある。人生に挫折する経験は少しでも早い方が良いと、よく耳にする。
 しかし、手束先生の場合はあまりにも不可抗力な挫折が続き過ぎている。それは乳幼児期から始まり、その後の成長過程全てにおいてである。普通なら、ここまでの肉親との葛藤を経験すれば、人間不信に陥ったり、自暴自棄になったりと、自分の運命を呪ったりしても不思議ではない。しかし、手束先生は始めに書いたように、不運を相殺する幸運を決して見過ごしていない。辛い経験をしている最中にも必ず、感謝を見つけ、幸運を掴み取り、その逆境を跳ね返し乗り越えておられる。凄い精神力である。日本人が日本人精神をしっかりと持っていた時代に育って来たことによるのだろう。時代と環境が作り上げた精神力の持ち主である。そして、「私は依怙贔屓(えこひいき)の神である」と御言葉にある通り、神様から正しく依怙贔屓されている器であると思わされて仕方がない。本の中に子どもの頃瀕死の状態にあり、命を与えられた人は何か神様からの特別な使命を持って生まれて来たのだと書かれていましたが、私も生まれてすぐ肺炎にかかり、医師から今夜が峠ですと言われたが、何とか命を取り留めたらしい。しかし、私は今日までそれなりに平凡に暮らしてきた。やはり神様から特別な使命を与えられる人は、試練も並大抵ではない。私には到底これ程の試練を耐え抜ける精神力と知力、根性は持ち合わせていない。
 〝神様に選ばれる人というのは、やはり違う〟の一言です。神様に依怙贔屓される人生は何と苦しみ、悲しみが多く、また反対に、何と想像を越えた素晴らしい恵みと祝福が与えられる事かと、手束先生ご夫妻を通してそう思い知らされています。四十二年前、高砂教会に聖霊降臨の出来事が起こり、戦いに次ぐ戦いが何年間も続いた事は幾度となく聞いて来ました。何度聞いても心が震える思いがします。「神様からの一方的な恩寵により…」と、よく手束先生は言われて来ましたが、やはり手束先生に依怙贔屓の神様が託した大きな使命だったと思わされます。
 この使命を全うし、試練に打ち勝ち素晴らしい神様からの祝福を託され、今日の高砂教会があります。言うなれば神様から依怙贔屓された教会でもある訳です。一千人教会達成、日本民族総福音化運動、聖霊刷新運動、世界宣教と多くの働きを担っている教会です。私達教会員はその原点である四十二年前の神様からの大きな恵みである聖霊降臨の業を胸に刻み、測り知れない神様の偉大さに更なる期待を持って信仰生活を送りたいと思わされています。この本を通して、私達は神様の愛を見過ごす事なく、祝福に次ぐ祝福を約束されている存在である事を深く感謝して人生を歩んで行きたいものです。



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