月報 2018 11

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これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(1)―たくさんの気づきが与えられ―

これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(1)
 ―たくさんの気づきが与えられ―

冨 永 依 里

 アシュラムの四日間は、静聴の時という、与えられた聖書箇所をじっくりと読む時間。また、その読んだ箇所を毎回同じメンバーと分かち合う、ファミリーという時間。「キリスト教の第三の波」を書かれた元老牧師先生から直接講義を受けることができる、福音の時など、本当に盛りだくさんのプログラムで充実していました。
 今回、四日間を通して与えられていた聖書箇所は、ピリピ人への手紙一章と二章。パウロが、獄中からピリピ教会の人たちへ宛てた感謝の書簡です。これは今まで何度も読んだことのある箇所ですし、心に刻まれている御言葉も多くある箇所でしたが、静聴の時、改めて、一時間をかけてじっくり読むと、たくさんの気づきが与えられ、またファミリーの時にも、同じ聖書箇所で、それぞれの姉妹方を通して語られたことを分かち合い、御言葉をより深く様々な角度から読み、理解することのできる恵みを頂きました。
 そんな中、アシュラム三日目を終え、家に帰って主人とソファーに座りくつろいで話をしていると、携帯にメールが届いたのです。それは、以前から若干私たち夫婦とは相性の悪い方からで、今回のメールも、文面が少しカチンとする内容だったので、主人と二人で「はぁー」とため息をつきながら見ました。私は、「せっかくアシュラムで恵まれて帰ってきたのに」と心の中で思っていました。しばらくして、その日の静聴の時に与えられていた聖書の箇所、ピリピ二章一節から一八節のところを思い出し、主人に「今日の聖書箇所は、ここだからちょっと一緒に読んでみない?」と誘い、一緒に読みました。そして読み終わった後、主人と、「私たちはどうしても、自分の感情や価値観だけで、人に対してイラっとしたりするけど、そんな時に、その人を自分よりも優れた者とするのは難しい。でも、この聖書箇所のイエス様の姿を思うとき、イエス様が人の最善を思い、神という地位を捨ててしもべの地位に下り、人間の姿になられて、神様のためにさらに腰を低くし、十字架にかけられるまで従われた。
神の地位から人間のところまで降りて来て下さった、そのイエス様の、月とすっぽんのようなふり幅を思うと、私たちなんて、人のちょっとした言い回しにカチンときて、それだけでイライラしてしまい、目くそ鼻くそだね」と、話しました。アシュラムで日常の雑事から離れ、聖別されたときの中で、どっぷりと聖書を読み、御言葉を胸に刻み、神様の御心を聞いて、恵み豊かな時間を過ごせたことに感謝しつつ、〝この現実世界の中で、その恵みを生かしていくんだ〟ということを、ほんのささいな事柄でしたが、主人と共に実体験することが出来たことも、また感謝です。
 そしてもう一つ、私には、〝この高砂教会に植えられた〟ということに対して、大きな感謝の思いが与えられました。ピリピ人への手紙は、パウロが獄中からピリピ教会の兄弟姉妹方に送った手紙ですが、もともとはキリスト教徒を迫害していたパウロが、神様を信じたことにより、今度は逆に、クリスチャンという理由で投獄されたにもかかわらず、厳しい環境の中にあって、ピリピ教会の人たちに感謝と愛をもって書き送ったもの。この手紙を受け取ったピリピ教会の人たちは、どんなに励まされ力づけられたことだろう。こんな信仰の仲間、信仰の友がいるということは、本当に幸せだろうな、と思いました。実は、私は八年前アメリカから日本に戻って来て、この高砂教会にもう一度通うことになったときに、心に堅く決めていたことがありました。それは、〝人とは深くかかわらない〟ということです。アメリカに行って間もないころ、数回連れて行ってもらった日系の教会で、人間関係に辟易としてしまった経験があったからです。今になって思えば、私の未熟さもあったんだと反省するのですが、その時はもう、人間関係の煩わしさから、何のために教会に行っているのかもわからなくなり、教会に行くのをやめてしまいました。そんな経験から、人と深くかかわらない!と決意して高砂教会に戻ってきて八年。今では、すっかりそんな決意を忘れてしまうまでに変えられました。
 アシュラムで頂いたたくさんの恵みと気づきをしっか
りと覚え、これからも、高砂教会の秩序の中で、神様に私のやるべきことを聞きながら、従い、神様に喜ばれる者として成長していきたいと思います。




これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(2)―神の願いが私の心に植え付けられる―

これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(2)
 ―神の願いが私の心に植え付けられる―

秋 山 功 子

 「子育ては一人でしてはいけませんよ」アシュラムに参加する前日の朝、子供達を学校に送りだした後、台所に立っていた時、私の左側に人影を感じました。満面の笑みで私の目線に合わせ、イエス様は語りかけて下さいました。「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」(詩篇四六・一)。私の中で、アシュラムは既に始まっている、神様は生きておられるという熱い思いがこみ上げてきました。実は、今回初めてアシュラムに参加できました。約十年前に出産してから、日々忙しく、アシュラムに行ってみたいけど行けなかった現実がありました。今年チラシをいただいた際も、「やっぱりスケジュールが無理」と思い、チラシを捨てていました。しかし、参加したいという思いがなぜか今年は強かったのです。
 ある日、心に語りかけが聞こえました。「アシュラムに参加してもいいんじゃない?」。すると、アシュラムの日程の中に、教会学校の遠足が入ったり、主人の予定が調整されたり、母が子供たちを一日見てくれることになったり、どんどんと心配だった子供達、夫の日程がうまく都合がつくようになりました。夫も快く「行きたいのなら行っておいで」と送り出してくれ、感謝でした。
 開会礼拝では、アシュラムの心得を聞く中で印象的な言葉がありました。〝アシュラムという言葉は「ア」という言葉と「シュラム」という二つの言葉からできた言葉です。「ア」という言葉は「何でもする」という意味と「何もしない」という二つの相反する意味があります〟はっとさせられる言葉でした。私は約十年前から我が家でファミリーセルをしています。伝道するために、お互いの信仰成長の為に、憩いの場、祈りの場、笑い合える場、力をいただく場として。祈りつつしてはいるものの、しっかり神の声を聞いているだろうか? もっとしっかり神の声を聞いて行動したいと思ったのです。
 アシュラムでは、皆さんと同じ御言葉を静聴し、ファミリーというグループに分かれて、分かち合いをします。「ファミリーは天幕のようなもので、ここで語ったことは口外しない、意見を言わない、直接神様に聞いて下さい。」と、私のファミリーの家長である谷元教育主事が言われました。私は与えられたファミリーのメンバーの愛によって、御言葉を分かち合い、子育てで葛藤したこと、子と親の人間関係が回復・発展していること、普段なかなか話せないことを話すことができ、心が癒されていきました。また、メンバーの皆さんとの分かち合いでは、執り成しの祈りの大切さ、力強さ、励まされて生きている幸せを感じました。また、アシュラムでは、子供のように毎回お食事の時間が楽しみで、美味しい料理をいただき、ご用意して下さった全ての奉仕者の方々に感謝でした。日々の肉の糧、心の糧を同時に味わうことができました。
 福音の時では、手束元老牧師先生から「キリスト教の第三の波」を学び、一度は読んだことはありますが、もう一度集中して学べたので、感覚だけの信仰ではなく、聖霊様を知るための体系的、論理的な講義は、聖霊を信じ、カリスマ的信仰を養うにあたっての基礎が深められ、土台が大事であると思いました。結婚当初アメリカに住んでいた時、多くの教会を訪れましたが、高砂教会のように、聖霊を重んじ、感覚的、神学的にバランスがとれているな教会はありませんでした。母教会でアシュラムに参加できたことは大変な恵みでした。
 御言葉を通し、私にとっての救いは、二つありました。①受洗による救い ②伝道を通しての私自身の救い よって天国に行くまで救いの達成に努めること、それは伝道し続けることであると思いました。その原動力は、神の願いが私の心に植え付けられていることです。時には辛いこともある。しかし、するどい神の感覚をいただいて、人の話に傾聴し、行動していきたい。主は私を見捨てない、この信仰を握り続けていきたいです。


これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(3)―「本当に神様は生きて働いておられる」という実感―

これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(3)
 ―「本当に神様は生きて働いておられる」という実感―

脇本教会 副牧師 阿 部 晋 也

 主の御名を賛美いたします。この度の高砂聖霊アシュラムに参加出来た事は、私にとって本当に大きな恵みとなりました。私は正直に言って、牧師としてどこか信仰に悩みを抱えていた所がある者でした。しかし、手束元老牧師先生と役員の兄姉が遠路遥々脇本教会に来られてから、大きく事態が動かされたのです。手束先生が秋田で聖霊と悪霊についてお語りくださった時に、「そうだったのか」と、目から鱗が落ちる思いがしました。そして、是非高砂教会に行きたいという思いに駆られたのです。しかし、その時は、「いつか行ければ」という思いでありました。しかし、神様はすぐに事を成してくださったのです。今回、私と二人の姉妹が、教会から送り出されて、高砂教会に行く機会を与えられたのです。それが、「高砂聖霊アシュラム」への参加でした。
 まず、このアシュラムに参加して思わされた事は、高砂教会は本当に一人ひとりが喜びに満たされ、輝いている凄い教会だという事です。悲しいことですが、日本の多くの教会は元気を失っているのが現状であり、私自身何度もそのような教会を見て来ました。しかし、高砂教会は全く違いました。信徒の方々一人ひとりが確かな救いの証しを握っておられ、その喜びによって躍動的に突き動かされているという事実が、ひしひしと伝わってきたのです。本当に神様は生きて働いておられるのだな、と実感できました。アシュラムでは、手束先生の「福音の時」の学びで、教会にとって聖霊の働きがいかに重要であるかを学び、手束先生、福江先生、伊奈先生の聖霊に満ち溢れたメッセージを聴き、また、「ファミリー」では兄弟姉妹の聖霊に満たされた証しを聴き、そして充満の時では、聖霊の按手を手束先生に授けていただき、まさに聖霊漬けの四日間を体験しました。この四日間を終えた時、私と脇本教会の二人の姉妹方は聖霊に満たされ、本当に生きて働く神様を身近に感じることが出来るようになったのです。
さて、満たされて脇本に戻った私たちですが、このアシュラムでいただいた聖霊の力が、帰って間も無く、脇本教会に働かれました。まず、山形にいる私の家族を、主任牧師の中西先生とジャネット宣教師、そして二人の姉妹方が訪問してくださった事です。ノンクリスチャンである私の家族にとって、肉親がキリスト教に入り、かつ牧師になったという事に反発は全くありませんでしたが、戸惑いを覚えたことは確かな事でありました。特に私の母は、子どもがどんな世界に入ったのか不安を覚えた事かと思います。しかし、この度、中西先生を始めとした教会の関係者がお訪ね下さった時、母の口から「安心した」という言葉が聞かれ、また、是非教会の方々にお会いしたいとの言葉も出たのです。私にとっての本当の家族伝道がやっと始まったと思わされました。
そして、恵みは更に脇本教会に広がって行きました。脇本教会の関係者の一人に、「この人は信仰を持つ事はないだろう」と思われるような男性がいました。しかし、なんと誰もが「この人は無理だろう」と思っていたその人が、信仰を持ち、洗礼を受けたのです。あまりの展開に、教会員一同本当に驚きを隠せませんでした。そして更に、これもまた「信仰を持つのは無理だろう」と思わされていた教会員の息子さんが、急に教会に集うようになり、なんと大勢の前で「クリスマスに洗礼を受ける」と決意表明したのです。その息子さんとは、この度のアシュラムに参加させていただいた姉妹の息子さんだったのです。そして更に更に、クリスチャンが一人もいなかった教会付属の幼稚園の先生の一人が、「私も礼拝に出た方が良い気がして来た。」と、急に言い出して来たのです。今、このようにして脇本教会では次々と聖霊の働きが現れています。この聖霊の恵みが途切れないように、高砂教会の皆さまと共に祈ってまいります。そしてまた是非、高砂教会を訪れたいと願っています。




これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(4)―ただ主の栄光を求めて生きる者となりたい―

これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(4)
 ―ただ主の栄光を求めて生きる者となりたい―

喬木教会 神学生 大 倉 学

 先日、高砂教会にて「聖霊アシュラム」に初参加させていただきました。以前から、手束元老牧師には喬木教会に事あるごとに訪問して頂き、有意義な時間を過ごさせていただいていました。故に、今回この聖霊アシュラムに参加させていただくにあたって、大きな期待感がありました。実際に高砂教会に赴き、観て、聴いて、感じる良い機会となると確信していた事が、事実となったのは言うまでもありません。
高砂教会にお伺いしてまず目に飛び込んできたのは、教会員の皆さんの明るさです。〝甲斐の虎〟と呼ばれた武田信玄も「人は城、人は石垣・・・」と名句を残しましたが、「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたるものの集ひなり」と、日本基督教団信仰告白でも述べられています。信玄にとって人々は城そのもの、主の視点から見るなら、人々(信仰者の集い)は教会そのものです。決して建物だけが教会ではありません。高砂教会に集われている皆さんは、本当に心から教会生活を愛し、楽しみ、主と共に過ごす喜びを体現しているようでした。こういった雰囲気が教会全体から伝わってきたのを覚えています。日本の多くの教会は、元気がない、活気がないと言われていますが、高砂教会は全くそういった表現に当てはまらない、活力と笑顔と聖霊に満ち溢れた教会でした。そういったものが、参加した者達にもまるで感染していくかのように伝わってきました。改めて教会を造り上げ、建て上げていくのは、そこに集う一人一人であるという事を実感させられました。
 集会の内容としては、「静聴の時」、「ファミリーの時間」、また聖霊の働きの理解をより深めるための手束元老牧師による特別講義「福音の時」があり、バランスのとれた、盛り沢山の内容で、非常に満腹感を感じました。個人的には、私どもの教会で集会最終日に先約があって早期退出した為、最終日の夜に行う礼拝の中での聖霊待望の招き、按手の祈りを体験できなかったのが残念でしたが、本当に恵まれた二泊三日間でした。
 全体の感想としては、私にとって新しい体験を伴う、とても良い時でした。私は「静聴の時」と「ファミリー」の時間がとても恵まれ、このような神学生である身でさえ、日々の忙しさにとらわれてしまい、じっくり聖書の御言葉と向き合うことが許されない時が多く、一時間もかけて短い箇所をじっくりと読み、神様との時間を持てるのは、とても贅沢な時間だと感じました。そして、不思議と毎回神様から多くのことを語られ、今までに無いほど御言葉の深みを味わうことができ、御言葉を自分のものとしていく作業が主とのより深い関係を築き上げる事を、肌で体験しました。聖書を読んでも何も語られない、そのように思ってしまうことも今まではありましたが、必ず主は私たちに語ってくださっていることを確信することができました。
 そこで大事だと感じたのは、主が語ってくださることを大いに期待すること、また前もって「私はこの分野において主に語られたい」と、ファミリーに宣言しておくことです。これは私にとって大きな助けとなりました。ただ漠然と聖書を読み、祈るのだけでは、一方通行の受け身の姿勢であり、主との関係における僕の分を果たせていません。「主との霊的会話を始める」には、双方の親しくなりたいという想い、そしてその思いを伝えるキャッチボールが必要です。ボールが来るのをひたすら待つだけ、もしくは願いや苦悩をぶつけるだけでは、キャッチボールは成立しません。まず、明確にどの分野において主と語りたいかハッキリとさせる。こうする事によって「私はキャッチボールする準備ができていますよ」と宣言する。そうすることによって、今度は受ける側の私たちの心も整えられ、主の恵みが受け取りやすくなります。
 最後に個人的な証となりますが、私は現時点で神学生であり、卒業を間近に控えています。果たして私はどの賜物を用い、どのようなミニストリーを行い、どのような教会に仕えていけば良いのか、という悩みを抱えていました。故に、召命の決意を具体的なものとして頂きたく、この聖霊アシュラムに臨みました。
 その中で主が与えてくださったのは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです(新改訳)」という、ピリピ一章六節の御言葉です。どの様にしてこれから仕えていけば良いのか、そう悩んでいた私ですが、「あなたの悩みは見当違いだよ」と主は教えてくださいました。主イエスは既に私たちの内に〝良い働き〟を始められた。そしてその〝良い働き〟とは、私たちがするミニストリーではなく、私たちが救われた時点から、いやその前から、二〇〇〇年前にイエスが地上にお生まれになった時から、もっと掘り下げるなら、父なる神が天地万物を創造された時から始まっています(「見よ。それは非常に良かった」創世記一・三一)。すなわち、この〝良い働き〟とは、私たちがどうこうして成り立つものではなく、むしろ主がなされる業であるということ。それを僕は目撃する者となる、喜んで僕はその主の良い働きを証しする者となる、ということ。「何も恐れる必要はない。わたしが成す業をしっかりと見届け、証ししていきなさい」と、語ってくださいました。
 今では若者の間で最も親しまれる賛美リーダーとなった長沢崇史師は、どの様に作詞・作曲されるのですか?という問いに対して、この様に証ししています。「私は、自分の作詞・作曲した賛美は、自分が作った曲、賛美だと思っていません。主が与えてくださったメロディーや歌詞を、誰よりも早く、一番最初に聞かせてもらった、幸福な者です」と。
 今までは、自分の栄光を気にして悩んでいたことに気付かされ、それを悔い改めると同時に、これからは何の恐れもなく、ただただ主の栄光を求めて行ける者として生まれ変わらせてくださったことを、主に心から感謝します。そしてそれらの〝良い働き〟を、主ご自身が終わりの日までに完成させてくださるのですから、私たちは何も心配する必要はありません。本当に感謝しかありませんね。全ての栄光を主にお返しします。アーメン。





これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(5)―恐れが喜びに変えられる―

これが「高砂聖霊アシュラム」なのか(5)
 ―恐れが喜びに変えられる―

宮崎ハーベストチャーチ 守 部 秀 一

 今回、初めて聖霊アシュラムに夫婦で集うことが出来心から感謝致します。高木頼幸牧師から案内を頂くまでは、このような集会があるとは知らず、アシュラムとは何だろうと思いつつ、参加するべきかどうか、夫婦で主の御心を求め祈っていました。経済的な不安や仕事など様々な思いがありましたが、私達に今必要な事は「主の御声を聴く」事だと示され、アシュラムへの参加を決心しました。
 参加を決心してからというもの、更に疑いや恐れが強くなってきましたが、しかし「この聖霊アシュラムには大きな神様の恵みが備えられている!」と信じ、主に期待して臨みました。「福音の時」「ファミリー」「静聴の時」、そして高砂教会での聖日礼拝、全てのプログラムを通して聖霊様に対する飢え乾きが与えられ、更に三つの事を教えられました。
①主の御声を聴く事の大切さ
静聴の時は、私達夫婦にとってとても新鮮なものでした。主の前に「静まる」という時間を今まで持てておらず、一方的な祈りの時間で終わっていました。今回、静聴の時を通して主の御言葉に耳を傾ける時、神様は必ず語って下さるという体験が出来た事が、私達にとって一番の収穫となりました。忙しい時にこそ、主に立ち止まって静まる事の大切さを教えられました。
②聖霊に触れられる体験
 福音の時では、手束元老牧師を通して聖霊様の存在・働きについて学びました。 聖霊様の存在は、とても大きく力強い働きをされる方が私達の内に内住しておられると語られ、私達も更に聖霊様の満たしを求め、大胆に主の働きの為に用いられたいと願います。
高砂教会の礼拝には初めて参加しましたが、静かな雰囲気の中であっても、神様のご臨在が満ち溢れ、とても感動いたしました。夕拝は、自由なスタイルで手を上げ賛美し、異言を語り、喜びに満ち溢れた集会でした。その中で聖霊の招きの時があり、飢え乾いて御前に出ていき、手束元老牧師に祈って頂きました。皆が次々と倒れていく中、夫である私は、自分は倒れないという思いが強く、委ねきれていない頑なな心があると、はっきりと分かりました。すると、地面が揺れている感じがして立っていられない状態になり、その場に倒れる体験をしました。その時、聖霊様が内側におられる事が分かり、喜びに満ち溢れました。ハレルヤ!
③一つ心で主に仕える事
 ファミリーの時では、お互いの為に祈り合ったり、教えられた御言葉を分かち合ったり、神の家族としての交わりが持てて感謝でした。その中で一番教えられた事は、神様の御心を知り、教会一人一人が心一つとなり主に仕える事でした。高砂教会の兄姉が喜んで仕えておられる姿を見て、私達も学ばされました。牧師先生に対して与えられた教会のビジョンを、信徒一人一人が自分のビジョンとして持ち仕える時に一致が生まれ、喜びに満ち溢れた教会へと成長していくのだなと教えられました。そのように、私達夫婦も揃って主に仕え、教会に仕えていきたいと、ビジョンとして与えられました。
 でも現実問題、普段の生活に戻ったら、先が見えず、不安が押し寄せました。自力で何とかしなければと考えた時、ピリピ二章二一節(新改訳)の「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」という御言葉が与えられ、自分で頑張って何かをするのではなく、神様が道備えをしてくれているので、その道を歩んで行こうと決心しました。神様を求める時、家族を愛し、喜びを持って教会に仕えられる。神様は良いものしか生み出しません。一つの御言葉が思い浮かびました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ五章一六~一八)。
いつも喜び仕え、一日一日を感謝し、神様に仕える夫婦として成長していきたいです。神様に栄光を御返しします。



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