月報 2019 6

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新執事に任命されて(1)―伝道旅行随行の恵みの数々―

新執事に任命されて(1)
 ―伝道旅行随行の恵みの数々―

森 本 育 子

 勧士・執事一泊研修会の早天で証しをするようにとの依頼を頂いてから、執事としての働きが現実のものとなり、急に不安と恐れに見舞われ、頭の中が停止してしまって、証しを作ろうと頑張ってるのに、全く何も浮かばないまま数日が経ってしまい、初めての勧士・執事会はボーッとしたままでの出席となってしまいました。どうしょう・・・と只々焦るばかりでしたが、使徒行伝四章一三節には、「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いたが、二人がイエスと共にいたのだ、ということがわかってきた。」とあります。私の信じている神様は、無学の者を用いて下さる神様だったことを思い出すことができて、聖霊様によって自信を取り戻し、なんとか証しを完成させることが出来ました。そして一泊研修会の早天の証しと、祈祷会の証しと続きましたが、漸く無事に終わり安堵していましたら、今度は茨城県の結城市の伝道旅行のお話が入り、そしてこの月報証しと、執事になってから次から次へと試練続きで大変なのですが、恵まれた日々を送らせていただいています。
 私生活の方も大きく変化しました。テモテへの第一の手紙三章八節には「それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒をのまず、」とあります。執事は祈祷会と土曜日夜の祈り会に出席しなければなりません。知っている方もおられますが、実は私は大のビール好きなのです。なので、夜の集まりに出席出来る自信が全くない・・・と思っていたのですが、急に、職場で朝のアルコール検査が始まり、身の回りから聖別が始まりました。今や土曜日の夜九時、こんな私が聖堂の椅子に座って讃美しているのですから、自分でも本当にびっくりしています。
 余談となりますが、証しの文章をここまで作成し、残りは伝道旅行のことを書こうと思った途端、不安だった伝道旅行が楽しみになりましたので、ハレルヤ感謝です。
 六月十五日より、二泊三日の伝道旅行が始まりました。まず、お茶の水クリスチャンセンターに立ち寄って、朗読劇「逆転人生、三谷康人物語」を見させて頂き、そこで元鐘紡特別顧問の大門英樹さんとお話しする時間が与えられました。大中小企業で成功されている社長さんの共通点は、同苦の情を大切にしておられることだ。人の話はメモを取りながら良く聞き、「〜は、こういう意味と、とらえたらよろしいでしょうか?」と適切な質問をし、出された資料には真っ先に目を通して後回しにしないことが大切だと教えて頂きました。これは執事としても大事なことだと思いました。また、鐘紡元専務取締役三谷康人さんは、絶望の中で神に出逢えた体験こそが宝であり、自分の弱さを知って絶望する勇気を持ったのが私であると証しされ、信仰者の強みを学びました。
 結城リバイバルチャペルでは、午前の礼拝と午後の信徒研修会が手束元老牧師先生によって持たれ、「罪、呪い、悪魔、死」をすべてイエス様が十字架の上で解決されたので、私達はもう悲しむ必要はなく、解放されて笑うしかない。笑いが溢れる教会にすることにより、結城リバイバルチャペルはリバイバルすると解き明かされ、午後の研修会では、祈りと御言葉の解き明かしが教会の中心的な命であり、牧師はその御用に専心しなければならない。牧師に雑用ばかりさせてはならない。問題が起これば執事や教会のリーダーが取り計らうこと。牧師を神様の象徴的存在にすることで教会に癒しと奇跡が起こされると語られました。それらは神戸真理子先生の教会にピッタリな内容で、信徒の方々からの反響も良く、大変恵まれた集会となりました。
 その後、小山聖泉キリスト教会にも立ち寄り、手束牧師先生が病気の新村牧師先生に按手の祈りをされました。また、最終日には結城市の手束先生の御実家で先生の叔母様にお出会い出来たことは感謝でした。初めての伝道旅行でしたが、手束元老牧師先生のお陰で何処へ行っても最高のおもてなしを受け、高砂教会に植えられている恵みを改めて感じました。また、時間を無駄にせず必要な場所に赴かれる手束元老牧師先生の姿勢を学んだ伝道旅行でした。 





新執事に任命されて(2)―無理だという思いを乗り越えて―

新執事に任命されて(2)
 ―無理だという思いを乗り越えて―

冨 永 依 里

 教会定期総会を終えて、家に帰り、しばらくすると、新谷主任牧師先生から、「執事をしていただけませんか。」と、お電話を頂きました。物心がついた時には、もう教会に通っていた私は、私の記憶の中にある勧士・執事の方々から、今の勧士・執事の方々の姿を思い起こした時に、私には到底成し得ない働きだと思いました。「絶対無理!」と、心の中で呟きながらも、新谷先生の「祈ってみて下さい。」とのお言葉に「はい。」と返事をし、二日後までにお返事をしますという約束をして電話を置きました。
 定期総会の少し前、四月十九日、私の父が緊急入院をしました。入院後直ぐに、牧師先生方が代わる代わる連日父を訪ね祈って下さり、そしてたくさんの兄弟姉妹方がお見舞いに来て下さり、また、たくさんの方々が父の事を心配して下さり、祈り、私にも声をかけて下さいました。先生方をはじめ、兄弟姉妹方の祈り、お心遣いに、本当に励まされ勇気づけられました。
 私自身心身ともに大変な中ではありましたが、この教会を母教会として私に与えて下さった神様に、心から感謝の思いが溢れてきました。また、父の入院時の事を思い返しながら、「教会愛を深め具体的に実践する。」という今年度の標語から四月二八日の礼拝メッセージで語られたことが思い起こされました。
「先生方をはじめ、たくさんの兄弟姉妹方への心からの感謝の気持ちを、そして、神様への感謝の気持ちを、執事をさせて頂いて少しでもお返しが出来たら。」と、思わされ始めました。
 しかし、祈り、聖書を読む中で、執事にふさわしい人とはの内容が書かれてあるテモテへの第一の手紙三章八節から一二節を読み、『謹厳であって、きよい良心をもって、信仰の奥義を保っていなければならない。すべてのことに忠実でなければならない。子どもと自分の家をよく治める者でなければならない。」等々、記されていて、またしても、「やっぱり無理!」と思わされ…返事をさせて頂くまでの二日間、「執事をさせて頂こう!」「絶対無理!」この二つの思いを、行ったり来たりしていました。
 また、決めかねる思いの一つとして、仕事に家事にと、毎日を慌ただしく送っている私は、主人から「少し、仕事を調整してみたら。」と言われており、私は、「執事をさせて頂くとなると、ますます忙しくなってしまうな。」と思っていました。その事を主人に話すと「でもね、教会の働きは別じゃない?忙しいからと言って、調整する対象ではないんじゃないかな。」と、きっぱり言われました。そして、私自身も「不安もある、欠けだらけの、本当に小さな器の私だけれども、用いて下さい!」と、神様に祈りました。
 新谷先生に、「慎んでお受けします。」とお伝えさせて頂いた直後、ある姉妹から、励ましの文と共に、一つの聖書箇所がラインで送られてきました。
 『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(Ⅱコリント三章一八節)
 この御言葉を読んだときに、テモテへの第一の手紙を読み、「無理だ!」と思わされたことが思い起こされ、自分の努力だけでは成し得る事など到底無理なことだからこそ祈り、成長の目標として、御霊なる主の働きに依り頼まなければ!と、思わされました。
 まだまだ、執事とは何をするのか、何が分かっていないのかもわかっていない状態の私ですが、執事の原語である『ディアコヌス』が意味するように、「仕える者」として御霊なる主に信頼し、みことばに聞き従って日々歩んでいきたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。







特別早天祈祷週間〝病める者癒され〟(1)―がんとの戦いに勝利して―


特別早天祈祷週間〝病める者癒され〟(1)
 ―がんとの戦いに勝利して―

北 村 隆 志

 私は、ある日突然がんの宣告を受けました。体全体がだるいし、食欲もなく、体重がどんどん減っていくし、これは体に何か異常事態が起きていると感じていました。様々な検査をして後「悪性リンパ腫」と判明したのです。病名がわからないうちは具体的にどう祈ってよいかわかりません。しかし「がん」と知らされて、かえってほっとしました。訳がわからずに体が衰えていくより、その原因がはっきりしたので、その「がん」を撲滅さえすれば、元に戻れる。ただそれだけのことです。たとえ「がん」であっても、万軍の主に向かって焦点を合わせて一生懸命祈れば癒やされます。最近は、医学が驚異的に発達しているので、「がん」の撲滅はそんなに難しい事ではないのです。私は、このがんと正面から立ち向かい戦う決心をしました。抗がん剤の苦しみに歯を食いしばって耐えました。力が入らなくなり、思考力が弱くなり、体全体が痛くなり、相当の体力と気力がいります。「主よいつも共にいて下さい。悪魔に打ち勝つ信仰を与えて下さい。」神様は私たちを癒したくて癒やしたくて仕方ないのだと受け止めました。神の子である人間の体は、これごときの「がん」に負けるほど弱くはないはずです。ぐっと奥歯を噛みしめて主に祈ります。「いやして下さい」ではなくて「感謝します」です。「あなた様が共にいて下さって感謝します。この苦しみを通して生きていることの喜びを確認できますことを感謝します」 「あなた様が生かして下さっていることを感謝します」「この体を通して、あなた様が働いて下さり、奇跡を起こして下さる光栄を、受ける恵みを感謝します」祈りがどんどん出てきます。体は息が出来ないほどしんどいけれど、祈りと共に気力が湧いてきます。「あなた様が与えて下さった命です、この命をあなた様のために用いて下さい。あなた様の栄光のために用いて下さい」そして、今でも覚えています。素晴らしいことが起こりました。
 礼拝の祈りの中で手束先生が癒しの宣言をされた時、奇跡のみわざと明らかな証明が有りました。先生が癒しの宣言をされたとき、聖歌隊席にいた佐川姉が見ました。先生の唇と指先から発せられた、聖霊の透明な光が、一直線に私の左鎖骨部にバシッと当たったのが見えたと教えてくれました。これはちょうど、「がん」が転移していたその場所です。完璧です。そして、その約一週間後の、ペット検査で「がん」が完全に癒やされたことを確認しました。画像から「がん」の映像が完全に消えていたのです。一点の曇りもなくすっきりした画像でした。私は 主によっていやされました。生きて働かれる主が私に触れて下さいました。主の栄光があらわされました。早天祈祷週間のメッセージで語られた、初代教会では礼拝の中で癒しの儀式が行われていたというその通りのことが起こったのです。それは現代においても続いて起こるのです。(使徒二十八・三十~三十一)
  私は、長い長い、苦しい苦しいがんとの戦いに勝利しました。病床にあっても、いつも主が共にいて下さって勝利の信仰を与えて下さいました。教会の兄弟姉妹が祈りを合わせてくださいました。心から感謝します。生きて働かれる神は存在します。全能の神は確かに存在します。ハレルヤ。主に感謝します。
 今回の癒しの連続メッセージの内容は、私の身に起こった事実とぴったりと一致します。マルコ一・四十~四十一らい病人に対して「私の心だ、癒されよ」と言われたイエス様の癒したいという心を、完全に受け取る事が出来ました。そして癒す側の牧師先生が確信をもって祈ってくださる。そして牧師先生の祈りを通して癒されると確信することができたのです。元老牧師先生が「癌がいやされる教会になる・認知症患者がいない教会になる」を教会のスローガンとして宣言されました。「地上においての癒しは一部であるけれど、それは天国での完全な癒しを表すものなのだ」と。高砂教会においてそのような癒しがどんどん起こればそこはまさに天国を彷彿とさせるでしょう。そして高砂教会は神様が働かれる癒しのパワースポットとして多くの魂を引き付けるところとなるでしょう。高砂教会につながっていれば必ずいやされる。がんを示す数値が高くても、神様がいやして下さっていると信じて、神様を賛美し、感謝する生活をおくれば、いやされるという確信があります。神様は、神の子とされた私たちが、幸いな人生を歩むことを願っています。だから、病気にかかっても、必ずいやしを与えて下さいます。 私たちの教会に、癒やしの賜物を持たれた、元老牧師先生、主任牧師先生がおられます。イエス様の癒したいと思われている「御こころ」を、通りよき管として、お二人が流しだして下さるのですから、私たちがしっかりと、その「御こころ」を受け止めていきましょう。 目の前の症状に振り回されず、神の癒しは完全で、癒されたと告白するのです。必ず癒されるという信仰を持ちましょう。その信仰が、私たちを元気にし、癒しの業が進むのです。それが、確信となるとき、癒されます。ハレルヤ!




特別早天祈祷週間〝病める者癒され〟(2)―何故、今日の教会に癒しはないのか―


特別早天祈祷週間〝病める者癒され〟(2)
 ―何故、今日の教会に癒しはないのか―

秋 山 ひ ふ み

 四月二十二日から毎年恒例の春の早天祈祷週間が始まった。今回は「癒し」をテーマに手束元老牧師先生がメッセージを取り継いで下さった。
 二年前民族総福音化運動協議会主催の台湾リバイバルツアーが計画され、誘われるままに参加した。そこで、台湾市内の教会を数カ所観させて頂き、神様が介入され聖霊様の働きの及んだ教会の成長ぶりを眼のあたりにして、これがリバイバルと驚いた。その一つに台北真理堂があったのだが、「私たちの教会には癌患者が一人もいないことが大きな誇りです」と主任牧師の揚先生が言われた。今日日本では二人に一人が癌に罹ると言われており、抗ガン剤の開発研究が急ピッチで進められている。しかし、台湾は食物には沢山の農薬が使われており、日本に負けず劣らず癌患者が多いと聞いていたのに、これはどういうことなのか?良く聞いてみると、まず食物に注意するように厳しく指導がなされていた。教会で無農薬の野菜を育て、今回私達にふるまって下さった食事も全部それらで作って下さったようである。しかしこれだけではなく、もっと信仰的な裏付けがあるように思う。
 「キリストの体なる教会を大切にするというのが教会の理念の一つであり、それが単に霊的精神的領域だけでなく、物質的肉体的領域にまで及んでいるのは凄いことである」と、手束師は月報に書かれていた。今回の特別早天での癒しのメッセージは、「真理堂」のように、やがてはこの高砂教会も癌が癒される教会として日本中にその名を馳せることになると、その希望を抱いて語られたことと思わされる。
 癒しはイエス様の心であり、神様は癒すお方、癒したくて仕方のないお方、キリスト教とは病を癒す宗教であるとも言われる。イエス様の公生涯のお働きはほぼ病の癒しと悪霊追放の業であったと行っても過言ではない。ひとたび祈られるなら、死人が生き返り、長患いの病いが癒される。しかし現代のキリスト教会はそのことを信じようとせず、「癒し」は過去の出来事とし、無視し葬り去ってしまっている。何故か?「癒し」に対する信仰がなくなってしまっているからである。眼の前にある具体的な生の人間的な求めに応じようとはせず、むしろ社会的運動に力を入れている。
 信仰がなくて癒しは起こらない。それは祈る側にも祈られる側にもである。幸いにも、私たちの教会ではどんどんと癒しがなされている。癒しの信仰が働いていることを喜びに思う。
 次に、癒しを妨げる原因として私たちの心の在り方に注目する。マタイ九章一~八節には、中風の者が癒やされたいと願っているのに、イエス様は罪が除き去られるように祈られた。癒しの妨げとなるもう一つの原因は、私たちの持っている罪責感(自己処罰)にある。よってそれから解放されることが必要であると言われる。良心的な人ほど罪責感を持ちやすい。だから十字架の救いが必要だ。
 夫が四十代の頃、ノイローゼにかかった。原因を色々と探ってみると、幼い頃ちょっとしたイタズラで友人のお兄さんにこっぴどく叱られたことがある。それは完全に忘れていたことであるが、大人になって突然無意識から飛び出してきたのであった。心の病の原因は案外こんなところにあるのかもしれない。
 最後に一つの疑問が起こってきた。それは、病の癒しの信仰を持ち、罪責感から解放されているにもかかわらず癒されないケースがあることである。その場合には、自分は神様から特別の使命を与えられているから、「たとえそうでなくても」の信仰に導かれるなら幸いである。〝神様のご計画は一人ひとりに完全に働いて下さり、祝福でしかない〟私たちはこれからもその希望を抱いて歩みたいものである。



特別早天祈祷週間〝病める者癒され〟(3)―癒しこそキリスト教の本質―


特別早天祈祷週間〝病める者癒され〟(3)
 ―癒しこそキリスト教の本質―

砂 山 ゆ か り

 今回の特別早天祈祷会は、手束元老牧師先生による癒やしについての連続メッセージでした。このところ、高砂教会においていつも宣言されている「癌が癒やされる教会」「認知症にならない教会」、この二つを掲げている教会にとって、癒やしのメッセージは、私達の信仰に尚一層癒やしの確信を与えてくれるものでした。イエス様の話された「私を見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四・九)との御言葉があります。福音書を読むと、イエス様の生涯はいかに多くの人々を癒やされてきた生涯だったでしょうか。イエス様を通して、天のお父様は本当に私達を癒やしたくて仕方がないお方であること、私達を本当に幸せにしたくて仕方がない方であることが、これでもかこれでもかというくらい伝わってきます。二年前「台湾リバイバルツアー」に参加させて頂いた時に、チョウ・ナタナエル牧師先生の牧会される霊糧堂において素晴らしい癒やしのカンファレンス(超自然能力、及び使徒的教会カンファレンス)がありました。多くの人々が心から主に癒やしを求め、会場が一体化し只ひたすらに「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ七・七)の御言葉通り、一人ひとり主を求め縋る思いをもって祈っていました。癒やされたい、幸せになりたいという思いを持って沢山の人々が舞台に上がり、按手を受け聖霊充満によって次々と倒れていき、そして癒やされていきました。(左右の足の長さが違う少年が瞬時に癒やされた・・・他々)それらの光景を二階席から見ながら、福音書に書かれている、イエス様に癒やしを求めて人々が集まってくる様子は、まさしくこのような光景だったのではないかと思いました。いつもイエス様に人々が群がり、そしてイエス様は沢山の人々を癒やしてこられました。今回の連続メッセージを通して、私達はもっと信仰を持って癒やしを求めなければいけないのではないかと思わされました。手束元老先生のメッセージで、癒やしはキリスト教の本質を示していること、本来の人間を取り戻していく宗教であること。また、癒やしの御業が行われる時に必要な条件として、祈られる側の期待と信仰が必要であること、祈る側と祈られる側が一つとなる必要があることなどが語られました。そのメッセージを聞きながら、まさしくあの台湾での光景はこれらのことが一致した時に起こされた御業であったなと思いました。しかし、癒やされる人と癒やされない人がいるという、もう一つの現実があります。以前のメッセージを通して〝信仰とは、疑う心と信じる心の表裏一体である〟と聞いたことがありますが、それによって、祈りながらも不安と平安を行ったり来たりすることのある私は少しホッとした気持ちになりました。癒やしを求めながら疑う気持ちが芽を出す時もあります。以前西神戸セルの折に信仰の大先輩である姉妹が言われた言葉を思い出しました。「神様に対して、なぜ?は必要ない」と。その言葉を聞いた時ドスンと胸に響いた(現代用語では〝刺さった〟と表現するそうですが)。でも、響いたものの、その時の自分にはほど遠い言葉でした。しかし、少しずつ、少しずつ、その言葉に慣れてきた自分がある(理解できるとまで言い切ることが出来ないのが辛いところですが・・・)。神様の偉大な叡智を、神様によって造られた人間の知恵で理解することなど、とうていできる筈がないのです。今回の連続メッセージを通して、高砂教会にキリスト教の本質である癒やしの業がどんどん起こされ、多くの人が神様を求めて教会にやってくることが現実のものとなりますように。そのためにも、私達一人ひとり、もっと癒やしが神様のも御心であることを求める者となりたいと思わされました。




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