へーそうなんや!

『おもしろクリスチャン』うら話(クリスチャン新聞より転載)

「サケの人工ふ化事始め」の話


  九代目・林家正蔵を襲名する林家こぶ平さんがテレビで語っていた。

 落語家を志し、父三平さんのもとへ入門したとき、先輩に言われたという

 「孝行したね。男親は息子に認められるのが一番うれしいものなんだ」。

 客席喝采に慣れた昭和の爆笑王も、胸にかざしきた仕事への誇りを

 わが子と分かち合う喜びは、格別であったろう。「父の日」がある6月の声を聞くと、

 思い出す歌がある

 「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色(こんじき)の獅子と映れよ」

 (佐佐木幸綱)…。

 どの仕事にも光があり、影がある。それを知り抜いた親心には複雑な思いもよぎろうが、

 子供の目に「金色の獅子」と映っていたことを確認する貴重な瞬間に違いない

 神戸の火災で崩れた屋根の下敷きになり、消防士13人が命を落とした。

 その一人石丸佑介さん(23)は親子二代の消防士である。

 父一彦さん(51)は大阪の消防署に勤務している

 日夜、危険と隣り合わせに身を置いて、市民生活の安寧を守る…。

 父親の使命感と誇りを仰ぎ見て育った子は、自らもいつの日か

 「金色の獅子」たらん、と念じていたことだろう

 息子から消防士になると告げられた父は、小さな事故ならば覚悟していたという。

 「命まで持って行かれるとは…。夢ならさめてほしい」。

 夢なら―無念の情がその一語に尽きている。

 幼きわが子の目に「金色の獅子と映れよ」とはすごい願いです。

 でも、お父さんなら心のどこかでこの願いをもっているのではないでしょうか。

 少し前、妻が性懲りもなく私達の結婚式のビデオを子供達と一緒に見ていたのです。

 すると娘(2歳)が「ママ、お嫁ちゃんダメ。

 アブちゃんがお嫁ちゃん」と言いながら妻を叩いたそうです。

 何とも可愛いことです。以前に書きましたが、息子は母親に、

 娘は父親に恋をしながら育っていくものなのだと再確認致しました。

 娘の目には私は世界でたった一人の

 全幅の信頼を寄せられる男性として映っているのでしょう。

 40歳を過ぎ、お腹もプックリ出ているにも拘わらず…。

 さて、息子(6歳)の目には私はどんなふうに映っているのでしょうか。

 牧師家庭という特殊な家庭の中で、息子は私を見ています。

 教会学校などではコメディアンのように面白い私を見ています。

 週日は聖書研究や祈っている姿だけでなく、カメの世話をしたり、掃除をしたり、

 寝っ転がってテレビを見ながら寝ている姿を見ています。たまに夫婦喧嘩も…。

 あヽ金色の獅子とはほど遠い…。しかし、息子が将来何になりたいと問われ、

 「イエス様のお仕事」と答えたと聞き、親ばかにも嬉しく思いました。

 それにしても「金色の獅子」とはどういう姿のことをいうのでしょう。

 私なりに考えてみました。

 勿論、髪を金色に染めることではないですよね。ではどういう姿でしょうか。


 ①健全な誇りをもって生きている姿です。雄ライオンはプライドの動物です。

 男性も同じなのです。男尊女卑というのではありません。

 お父さんが、家族・仕事・人生に健全な誇りをもって生きていることが

 大切ではなのではないでしょうか。


 ②ヴィジョンを向かって生きている姿です。人が最も輝いているのは、

 目標やヴィジョンに燃えて前進している時ではないでしょうか。

 自分と家族が良い生活ができればいいというだけではなく、日本のために、世界のため、

 後世のために、貢献するヴィジョンを持ちたいものです。


 ③勇敢に毅然として生きている姿です。失敗のない人生なんてありません。

 生きていく先々に失敗や恐れが待ち構えています。

 失敗することは失格者になることでは決してありません。

 失敗とは、勇気をもって何かを成し遂げようとした勲章なのです。

 ですから、失敗を恐れずに何かを成そうとしている姿は感動的です。

 もっと感動的なのは、失敗してもそこから教訓を学び取り、

 再び立ち上がって人生に挑んでいく姿です。

 お父さんとてスーパーマンではありません。

 手痛い失敗を喫して失意落胆している姿を子供達にさらけ出す時があるかも知れません。

 しかしそこから立ち直り、愛する者のために戦い始める姿は、

 子供達の心にどんなに感動を与えることでしょうか。

 金色の獅子…。ちょっと重たい言葉です。

 でも、お父さんの生き様は子供達の心に生き方の原型して焼き付き、

 強い影響を及ぼしていきます。

 共に頑張りましょう!(テモテ)

「一万円札のあの人」の話


 5千円札にクリスチャンの新渡戸稲造が出ていたのに樋口一葉に代わるとか。

一万円札は福沢諭吉のままなので不公平感が残るが、

この慶応義塾を興した明治の教育家、案外知られていないのだが、

キリスト教と深い関係にある。

今から130年も昔のこと、英国からA・C・ショーという宣教師が来日、

宿泊先に困っていたこの青年にすっかり惚れ込み、

なんと住居まで建てあげたのが福沢諭吉だった。

場所は現在の東京都港区芝三田、慶応義塾の敷地内にある。

★従来キリスト教排撃論者と言われていたのに、福沢諭吉はショーの人格を信頼し、

その宣教師館でキリスト教を教えることを許可したばかりか、

長男一太郎や2人の娘の家庭教師も依頼。

その影響で、子ども達のうち3人は成人してクリスチャンとなった。

★ついでに言うと、ミッションスクールでも何でもない慶応義塾の敷地内の

その宣教師館で明治8年、8人の青年が洗礼を受け、

そのうちには尾崎行雄ら3人の慶応義塾生がいたことも驚きである。

★福沢諭吉と宣教師ショーとの篤い交友は晩年まで続いたという。

ところで、宣教師ショーといえば、

あの長野県軽井沢の名を世界中に知らしめた人物としても知られている。

1885年(明治18)、伝道旅行の途次、

たまたま立ち寄った軽井沢の美しさに魅せられた病弱のショーはこの地を避暑地と定め、

宣教師仲間にも広く紹介したことから「軽井沢」の名は避暑地として国際的に知られるようになった。

「お寺に泊まっていた宣教師」の話


 横浜にある成仏寺は、

日本のプロテスタント教会の歴史を語る上で欠かせない場所である。

幕末から明治にかけて、

廃仏毀釈の嵐は各地の仏寺の存亡を危うくしたが、

それ以前にも時の権力者は海外からやってくる外国人要員の宿泊先に、

時代が軽視した仏寺を提供した

★日米修好条約が締結した1858年以後、

来日した医療宣教師ヘボンや、ブラウン、フルベッキなどは

横浜の成仏寺に宿泊している

★少し遅れて来日したアメリカのオランダ改革派教会のバラ宣教師も

最初に成仏寺を宿とした。

今は、建て直されて立派な仏閣となっているが、

残っている写真を見ると当時は、わらぶき屋根の粗末なお寺に見える

★バラ宣教師は日本最初のプロテスタント教会を設立した人物として

歴史に名を留めている。

その伝記にふれて感動するのは

日本を愛する宣教のスピリットであり、その祈りの姿勢だ。

最初の横浜海岸教会も、

初週(旧暦の正月)祈祷会から生まれたというが、

その群れを指導したバラ宣教師の祈りの生活は胸を打つ

★バラ宣教師の日課は、

成仏寺から南へ1時間ほどの所にある小高い丘まで毎朝、

散歩に出かけることだった。

今は捜真学園が建っている付近のその丘には当時、

大きな老松がそびえていた。

バラは、その根元に座り、

日本の救霊のため毎朝祈り込むのが常であったという。

今は、宅地となって、老松もなくなっているが、

その丘に立つと横浜の市街が一望できる。

牧師になった新撰組隊員

幕末のころ、京都の治安を守るために組織された新撰組は、

明治維新となるや存在理由を失い、隊員の多くは路頭に迷った。

愛知県の武家の名門に生まれ、

剣道の名手とうたわれた鈴木寿一もそんな一人だった

★幸い、鈴木は1875年(明治8)に知遇のあった愛知県知事の推薦で、

宝飯郡の長に任命されるが、

部下による公金費消事件の責任をとって私財で弁償、

再起を期して出てきた東京では相場に手を出したが失敗した

★失意のうちに、取引所からの帰り道、

にわか雨を避けて飛び込んだところがキリスト教の教会だった。

「罪が支払う報酬は死です。」

集会からきこえてた牧師のメッセージは、鈴木の人生を変えた

★1878年(明治11)、クリスマスに日本基督芝教会で洗礼を受けた鈴木は、

明治学院の前身の神学校に入学した。

40歳を超えて、千葉を皮切りに大阪、堺で牧師として奉仕。

引退したのは71歳だった

★明治期に60歳を超える現役牧師はめずらしく、

1907年8月発行の「福音新報」では養老問題特集で、

60を超えた元気な牧師として紹介された

★確かに、堺教会を10年間牧会した後、

一度は引退を表明したが、即隠居したわけではない。

なんと、大阪は八尾の地で72歳で召されるまで開拓伝道を続けたのである

★若き日の鈴木は剣術の達人だった。

だが、一度も人を切ったことはなかった。

後に、そのことは神の守りであったと感謝したという。

勝海舟とクラーク

クラークといっても、あの「青年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士ではない。

1871年、静岡学校で英語教師が必要になった時、

友人のグリフィスに頼まれてアメリカから来日したのが、

教育者で信徒のE・W・クラークだった。

ちなみにグリフィスに要請の声をかけたのはあの勝海舟だった

★クラークは、契約書の中にキリスト教宣教を禁じる一項があったが、

日曜日には自宅に学生を招きバイブルクラスを開いた。

その宣教への情熱は4年後に一旦、アメリカに帰った後も消えることなく、

神学校に学び牧師の資格を得、1894年には宣教師として再来日する

★そのクラークが終生、注目してきた日本人がいた。

それが勝海舟である。

幕末明治の政治家として開国日本におけるその影響は計り知れないものがあるが、

勝海舟自身、キリスト教の宣教師から多くの人格的影響を受けていたと言われる

★宣教師クラークとの交友も影響の一つと言われるが、

クラークが勝に幕府興亡の由来を正したことが

「幕府始末」執筆の端緒となったと言われている。

「キリスト者ではなかったが、

彼以上にナザレ人イエスの人格を備えた人物を見たことがない」とは、

身近でクラークが見た勝海舟評である

★勝海舟は1871年、「耶蘇教黙許意見」を発表、

信教自由論をいち早く提唱、

東京の自邸を耶蘇教講義所として開放、

息子梅太郎の嫁にクリスチャンのクララ・ホイットニーを迎えた。

変わった結婚披露宴


 20世紀に活躍したわが国の代表的日本人といえば

賀川豊彦の名を挙げる人も多い。

戦後、ノーベル平和賞の候補者にもなったこの社会運動家は、

もともと、キリスト教の伝道者として神戸・新川の地でその活動を開始した。

1909年(明治42)9月ごろである。

 苦悩の中で神の愛を知った豊彦は、

クリスマス前日、荷車にふとんとわずかの衣類と書物を積んで、

新川の当時「貧民窟」と呼ばれた地区に引っ越した。

人々の困窮は予想以上に深刻だった。

豊彦は、不景気からもらい子殺しが頻発している実情を知って、

見るに見かねて、嬰児の一人を引き取った。

 その地域は人間の矛盾と苦悩に満ちていた。

だが、自分の弱さを痛いほど知っていた豊彦自身、

人間の罪を負って十字架に付けられたキリストの愛にうながされて、

この地に留まる決心をしたのである。

その孤独な青年に、これ以上ないという助け手が与えられた。

1913年、豊彦は、神戸基督教会で、芝はると結婚式をあげた。

その席ではお茶一杯も出されなかったが、数日後、キリスト教の施設に、

新川に住む障がい者や貧しい人々を披露宴に招待した。

そこで出されたのは、三宮の一流の料理屋から取り寄せた寿司の折り詰めだったという。

豊彦はその披露宴の席で「私はお嫁さんをもらいました。

皆さんの中で病気や人手のいる時には遠慮なく申し出てください。

お嫁さんはお宅の女中になって働きます。

皆さんの女中さんをお嫁さんにもらったのです」と度肝を抜くあいさつをした。

明治8年の神田川事件


 南こうせつの歌う「神田川」は、

貧しい若い男女のラブストーリーが切ないほど心に響いてくる。

だが、曲があまりにロマンチックなので、

神田川を訪れたりするとがっかりしてしまう。

最近は、しゅんせつ作業で少しはきれいになったが、

それでも水の汚れはなくなっていない。

 ところで、キリスト教の歴史を紐解いている間に、

この神田川が重要な意味をもっていることが分かった。

なんと、日本の最初の浸礼式がこの川で行なわれたというのである。

時は、1875年、明治8年のことである。

 もっとも、100年以上前の神田川である。

水清く流れていたことも想像できる。

そこで内田はまという女性が、

バプテスト派のアーサー宣教師によって、ざぶんと水に沈められた。

驚いたのが、神田川沿いの往来を通る多くの群集だった。

 この異様な光景を見て人々は、日本人と西洋人が情死したとか、

西洋人から折檻されたとかうわさがうわさを呼び、当時の新聞にも報道された。

実際は、キリストを信じた証しとして、

水に体を沈めるバプテスマ(浸礼式)が行なわれたのだが、

未亡人だった内田はまは、

28歳の若さで衆人環視を省みず、堂々と信仰を告白した。

 普通、洗礼というと頭に水を垂らす滴礼と体ごと水に浸す浸礼があり、

滴礼による洗礼式は、すでに横浜などでアメリカ人宣教師などによって行なわれていたが、

浸礼となると、この内田はまが最初の浸礼者と記録されている。

パン、ミルク、コーヒーの朝食付き


1871年(明治4)、西本願寺を会場に開かれた京都博覧会は、

首都の地位を東京に奪われ、経済的危機に陥っていた西京(京都)の復興プロジェクト。

この博覧会は、展示品も336品と乏しく、骨董品が中心で、

到底、博覧会といえるしろものではなかった。

起死回生とばかり、翌年には西本願寺に加え、

知恩院や建仁寺も会場になり、

3万人を超える人々がこの博覧会に集まった。

それに加え、当時入京を禁止していた外国人に対しても、

博覧会の60日間の会期に限って、京都に入ることを認めた。

知恩院、丸山、下河原辺の19カ所に「外客相対宿」も設けられた。

ここで、京都府としては、外国人客が落とすお金を当て込んだふしがある。

なにせ、和式ホテル(?)の1泊が朝食付きとはいえ、パン、ミルク、コーヒーーのみ。

部屋代は、今なら豪華ホテルのスイートに泊まる値段に相当する。

この記念すべき博覧会には、結局、772人の外国人が訪れている。

その中に、京都の宣教を計画していたが、

それまで入京を阻まれていたアメリカン・ボード派遣の4人の宣教師の姿もあった。

当時の宣教師の報告によると、

宣教師達は胸高鳴る思いでこの博覧会に参加している。

事実、彼らの期待どおりに、この博覧会で京都府顧問の山本覚馬と出会い、

京都の宣教の門戸が開かれるのである。

次郎長の子分の回心


 清水の次郎長のこ分は大政、小政、森の石松だけではない。

その弟分にあたる子分に常世川(とせがわ)という狭客がいた。

幕末の時代、駿河(静岡県)一体を取り仕切る親分として名を馳せた次郎長も、

明治の代になると渡世人から足を洗い、

当時の子分達も多くはそれぞれの故郷へ帰った。

滋賀県大津市出身の常世川もそんな子分の一人だった。

 大津には当時、すでに組合教会が伝道をしていた。

常世川こと西村由之助がどのような経過で教会にたどり着いたかはさだかではないが、

ある日の伝道集会でキリストの十字架が

自分の罪の救いのためであったことを知った由之助は

おいおい泣きながら講壇の前に進み出たという。

この物語を、由之助の長男にあたる故・西村関一衆議院から聞いた。

「おやじは、渡世人のとき、組同士の抗争を収める仲介人になったことがあった。

理屈が通じる世界じゃない。

持っていたドスを自分の股に付き立て、

この傷に免じて、抗争をやめるように嘆願したそうです」。

 その自分が身をもって仲裁に入った体験があったから、

十字架の意味が身にしみるほど分かったのでは、という。

任侠道に生きた父親の思い出をそう語ってくれた西村関一氏であったが、

自らは父親のその信仰を受け継ぎ牧師となった。

大津市の堅田教会を開拓、後に政界にも進出、社会党代議士として、

牧師をしながら国会議員としての任務をも遂行したのである。

ヘップバーンさんの職業


高校時代に見た「ローマの休日」は生涯忘れえぬ名画となった。

王妃の悲恋を描き、愛することの切なさを味わったのも、この作品だった。

だが、どう考えてみてもヘップバーンという名前は響きが奇妙だ。

それだけに印象が強いのだが、

この名前にキリスト教の歴史の中で再会するとは思ってもみなかった。

ジェイムス・カーチス・ヘップバーンが正式な英語読みの名前である。

と言われても、この人物が誰なのか分かる人は少ないのでは。

オードリーの関係というわけではない。

だが、このアメリカ医師が1859年に来日したという事実は

プロテスタント宣教の歴史に大きな意味を持つ。

このヘップバーンさん。

ニューヨークで開業している時は名医の誉れが高かった。

もともと眼科専門だったようだが、

とにかく内科、外科問わず苦しんでいる患者の救済に奔走した。

当時の歌舞伎役者・沢村田之助の脱疽を見事治療したことで、

日本でも評判になり、その施療所には助けを求め、人々が殺到したという。

だがヘップバーンさんの本来の来日の目的は、日本語聖書の翻訳出版でだった。

医師としてだけではなく、言語学者としてもすぐれた才能を発揮。

ローマ字を作成した功績は計り知れない。

来日以来8年の日本語研究は聖書翻訳でも生かされ、

『和英語林集成』出版という大事業もあった。

ちなみにこの『和英語林集成』の版権を

丸善に譲って得た二千ドルを明治学院に寄付。

ヘップバーンさんの名前がついた校舎が建てられた。

もっとも、当時の日本人はHepburnという英語を正しく発音できなかったらしく、

みんな「ヘボンさん、ヘボンさん」と呼び、その呼称が今も一般的である。

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