手束正昭牧師メッセージ集

「聖霊の新しい時代」の到来を肌で感じ取っている人々や、
自らもまたそれに与りたいと願いもとめている人々に、
この説教集が何がしかの参考になり、刺激になるならば幸いである。

赦しに秘められたカリスマ的力


赦しに秘められたカリスマ的力(1)

        だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、

        御名があがめられますように。

        御国がきますように。

        みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

        わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。

        わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、

        わたしたちの負債をもおゆるしください。

        わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

        もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、

        あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

        もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、

        あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

                       (マタイによる福音書 6:9-15)


 『今、アメリカで何が起きているか-誰もが誰もを訴える―』という興味あるテレビ・ドキュメントがあった。

 この番組は今日アメリカにおいて頻繁に起こっているところの「訴訟」という問題を取り上げ、

 この"誰もが誰もを訴える"という風潮がアメリカ社会全体に蔓延して、

 一つの社会現象ともなってきている現状を報告している。人間同士の信頼関係の構築や、

 互いに赦し合い助け合うという事が極めて難かしくなってきたというのである。

 人々は直ちに他者を法廷に訴えるために、互いに疑心暗鬼となってしまい、

 他者に対して気をゆるせなくなってしまっている悲しい現実があるという。

 例えば、人々の集まる所どこへ行っても必ずそこには、

 「このところで起こる一切の出来事について当方は責任を負い兼ねます」という

 警告の看板が掲げられている。

 その所で事故や事件が起きると、必ず誰かが誰かを訴えるからである。

 そして困ったことには、教会の中にもこの看板が貼られて、

 今やアメリカ中あらゆる所で訴訟を未然に防ぐための警告看板が目に付くというのである。

 更に、その訴訟を代理する弁護士を訴える専門の弁護士がいて、

 しかもその弁護士もまた訴えられているという笑い話のような事が実際に起こっているというのである。

 これは人を赦すということを忘れ、誰もが正義漢となり、そして被害者となっている、

 "病めるアメリカ"の姿が浮き彫りにされていて大いに考えさせられた番組であった。


  この事に関して私は、一九八七年四月に来日したアメリカの「内なるいやし」の専門家、

 べティ・タップスコット女史から聞いた意味深い一つの詩を思い起こした。

 その詩は、私達カリスマの恵みに与かった教役者の参加の下に行なわれた

 聖霊セミナーの講義に先立って引用されたものである。


    「もし私達の最も大きな必要が知識であったなら、神は私達に教育者を送ったことでしょう。

    もし私達の最も大きな必要が技術であったなら、神は私達に科学者を送ったことでしょう。

    もし私達の最も大きな必要がお金であったなら、神は私達に事業家を送ったことでしょう。

    しかし、私達の最も大きな必要が赦すということであったので、

    神は私達に赦し主を送られたのです」。


赦しに秘められたカリスマ的力(2)

 人間にとって何よりも大切な必要は赦しであり、赦されることである。

 それ故に神は、この世にイエス・キリストを送って下さったのである。

 かくて、文豪トルストイもその代表的著作「復活」の終わり近くに書いている。

 「常にすべての人を赦さなければならない。

 何故なら自分自身まったく罪を持たぬ人間はいないのだし、

 他人を罰したり矯正したりできる人間もいないからだ」。

 この古典的名作に秘められたトルストイの主張は、

 実に人間にとっての最大の必要は人を赦すことにあるということであり、

 赦すことのみが人間をしてよみがえらせ、復活させていく力であるという

 聖書のメッセージなのである。


  マタイによる福音書六章九節から一五節は、クリスチャンが日毎に祈る「主の祈り」の原型である。

 主イエスはこの祈りの後に、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、

 あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。

 もし人をゆるさないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さらないであろう」と語られている。

 主が「主の祈り」の後につけ加えて赦す事の大切さを言われた事は何を意味しているのか。

 「主の祈り」と赦しは、どう関係づけられるのか。

 多くの聖書注解者は、赦すという事こそが主の祈り全体についての解釈の鍵であり、

 主の祈りは実に赦しという事を目ざし、赦すという事を目的としているのであると説明する。

 かくて「主の祈り」の中心は「わたしたちに負債のあるものをゆるしたように、

 わたしたちの負債をもおゆるし下さい」という箇所であり、

 これが「主の祈り」の最も重要な中心部分を構成しているというわけである。



  私達は普通この所を「われらに罪を犯すものを、われらがゆるすごとく、

 われらの罪をもゆるしたまえ」と祈るのであるが、

 ギリシャ語原文から見ると、この箇所は、新共同訳聖書の訳文の方が原文に忠実である。

 そこには「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、

 わたしたちの犯した罪をゆるして下さい」と訳されている。

 ここで私達は、わたしたちに罪を犯した者をゆるしたからと告白する時ためらわないだろうか。

 何故なら、私達が赦しを受けるためには先ず人を赦さなければならないという先行条件が、

 ここにはあるかのように見えるからである。

 私達の救われたのは、一方的な神の恩寵による。

 にもかかわらず「主の祈り」においては、十字架の赦しが、他者を赦すという条件つきで

 はじめて有効になるかのように見なされるのである。


  この問いかけに対して、今世紀の優れた説教者アラン・レッドパスは適切にも語っている。

 彼によると、ここで問題になっているのは神の子となった者、つまりクリスチャンの罪なのであって、

 まだ神の子となっていない者の罪ではない。

 つまり、主の十字架の赦しはすべての人の前に無条件で与えられているが、

 その赦しをすでにいただいているにもかかわらず、もし私達が他者を赦さないならば、

 せっかく受けた主の贖いによる赦しの恵みが、私達の内に無効になってしまうことになるというのである。

 逆に他者を赦していくならば、主の赦しの恵みが更に豊かに私達の内に働いて、

 私達自身の罪を一つ一つ消し去り、自由にされるというのである。

 そして更に、私達が赦していく時、私達の祈る祈りは主の御手によって受け入れられ、

 神の祝福にどんどん与かるようになるというのがこの箇所の意味である、

 とレッドパスは解釈するのである

                        (アラン・レッドパス「勝利の祈り」参照)。


赦しに秘められたカリスマ的力(3)

  先述した「内なる癒し」セミナーにおいて、講師のタップスコット女史が繰り返し語られたのも、

 いやすという事がいかに人間にとって重要であるかという問題であった。

 内なる傷がいやされない最大の障害は、人を赦されないという事にある。

 彼女は深い心の傷のために、うつ状態になったり、人間関係が壊れたり、

 また、そのために大きな不幸に見舞われている多くの人々を、

 その内なる傷からいやされ解放されるようカウンセリングをし、

 いやしのための祈りをされる霊的カウンセラーである。


  タップスコット女史は祈りをされる時、まず最初に、その人をつかまえている霊を縛ってから、

 一つ一つの傷をもたらす記憶を辿っていやしていくのである。

 しかしその際、もしその人が誰かを憎み、うらみを持って赦さないままであるならば、

 内なる心の傷も仲々いやされず、主の素晴らしい解放の御力、いやしの恵みは妨げられることになる。

 それ故、「内なるいやしの鍵は赦しにある」と、セミナーを通して何度も強調されたのである。

 そして、人の赦さないならば、私達は多くの代価を払わなければならないのである。


  その第一は、もし私達が人を赦さず、憎しみや怒り、うらみを持続するならば、

 私達の内側から、悪い酸のようなものが出て、

 自分の体の組織にさまざまな悪い影響を起こしはじめるのである。

 そして疲労や不眠に陥り、更にひどい時には病気を誘発するのである。

 どこも、とりたてて悪いところがないのに、いつも疲れる、なぜか眠れない、病弱である、

 という事の背後には、赦さないという内的問題が潜んでいる場合がよくある。


  次に、苦々しい思いや、怨みの思いというのは、人の心を頑なにし、冷たい心を形成していく。

 そして、その冷たい心は他者に向けられるばかりでなく、自分の家庭や、

 子供達にも悪影響を及ぼしてしまうのである。


  第三には、人を赦さない人は、父なる神の深い愛と赦しが信じられなくなってしまうのである。

 それ故、自分の罪責感をとり除くことができないので、自分で自分を有罪として断罪してしまうのである。

 人の罪を赦す事ができないというその事の故に、自分の罪をも赦さず罪責感に悩まされ、

 主に在る自由を得ることができないのである。


  かくのごとく人を赦さない事によって、私達はいかに多くの損失を自分の身に招き、

 代価を払っているかを見てきた。にもかかわらず、なぜ私達は、人を赦すことができないのであろうか。

 赦す事のできない最大の理由は何なのだろう。それはこうである。

 私達は不条理に我慢できないからである。「悪いのはあの人だ」と私達は思う。

 悪人は赦してはならないのである。ここで赦してしまったら、自分はいったい何なのか。

 自分は馬鹿をみるのではないか、損をするのではないかと思ってしまう。

 あの人はあんなにひどい事を私にしたのに、あの人は平気な顔をして、

 それに気付かず、否、気付いていても知らんふりをしている。

 そんな不条理が赦されてたまるか。あの人は罰せられるべきではないか。

 それが正義というものだ、と私達は思うのである。それ故、赦せないのである。

 不条理を赦すことは自分をバラバラにする事である。砕くことである。それは耐え難く痛いことである。

 しかし本当は、人を赦さない事で馬鹿をみるのは自分自身なのである。

 人を怨み、憎むことによって馬鹿をみるのは他ならぬ、この自分なのである。

 なぜなら私が自我を砕き赦すことを通して、私達の内側に神の赦しが実現し、

 神の恵みと祝福が注がれてくるからである。


赦しに秘められたカリスマ的力(4)

 神は私達が赦すことを待っておられる。

 赦すならば、素晴らしい祝福を与えようと用意して待っておられるのである。

 タップスコット女史はそのセミナーの中で、一人のアメリカの女性の内なるいやしと、

 その解放の証しをして神に栄光を帰された。


  その婦人は深い心の傷をもって、内なるいやしを求めてきた。

 彼女は結婚していたが、表情は暗く、やつれて、年齢以上にふけて見えた。

 彼女の母親は五回も結婚したので、彼女は連れ子として五人の父親に触れなければならなかった。

 そしてその内の一人の義父に、十一歳の時に犯された。

 この事が彼女の心を深く傷つけて、その義父に対する非常な憎しみは、

 彼女の人格と容貌にまで深刻な影響を与える事になってしまったのである。

 彼女はふさぎこみ、病気がちとなった。

 そこで、タップスコット女史はまず彼女を縛っている憎しみの霊を追い出し、

 その時受けた一つ一つの傷をいやしていかれたのであった。

 その後しばらくしてから彼女に会った時、彼女はまるで別人のように若々しく、

 美しい女性に変貌していたのである。

 彼女の内なる傷がいやされ、完全に彼女のうちから憎しみも悲しみも取り去られていた。

 彼女の夫は「私は新しい妻を得ました」と、喜び告げたというのである。

 その後彼女は、自分にひどい仕打ちをした義父がガンに冒され、孤独の中に闘病している事を憐れみ、

 彼を自分の家へ迎えて、その最後の日まで看取ったのである。

 義父の死を知らせてきた時、彼女は電話の向こうで泣いていたという。

 義父を赦し、愛し、その死を悲しみ憐れむ彼女の泣き声は、

 まさに神の愛の美しさを讃える讃美であり、涙であったのである。


  重要なことは、では、いったいどうしたら私達は人を赦す事ができるようになるかということである。

 その第一は主の十字架である。十字架の赦しを見上げる事である。

 主イエスが私達に何をして下さったかを明確に知る事である。

 旧約聖書においては、人々の罪を指摘したのは預言者達であり、律法である。

 罪を指摘された人々は、その審きの怖さにうちふるえ、

 多くの動物の犠牲をもって悔い改めたのである。

 その時祭司達は彼等に赦しを与えた。しかし、主イエスの十字架の赦しはそれとは全く異なる。

 主は私達が自らの罪を知らず、悔い改めもしない時に、一方的に十字架につけられ、

 その十字架の上から赦しを宣言されたのである。

 主は一方的に、ご自身を私達のために捧げて下さったのである。

 一方的に赦しの愛と贖いを、私達に注がれたのである。

 主がカルバリの十字架の上で赦しの祈りをされた時、

 人々はあざ笑い、着物をくじで分け合っていたのである。

 その内の誰が「ナザレのイエスよ、わたしの罪をお赦し下さい」と言っただろうか。

 それにもかかわらず、イエス・キリストは「父よ、彼らをおゆるし下さい。

 彼らは何をしているかわからずにいるのです」と祈られた。

 主は自らの痛みと苦しみ、その死を通して私達を一方的に赦し、救い、贖って下さったのである。

 このように主イエスの十字架の赦しは無償であり、何の条件もないのである。

 ただ十字架を見上げ、その赦しと贖いの恵みに目を向けていく時、

 その時私達もまた、人を赦していかなければならないという事を深く知るようになっていくのである。

 そして主イエスに倣って、一方的に罪の赦しをしていく時、

 そこに驚くべき主の御業が起こってくるのである。


赦しに秘められたカリスマ的力(5)

 その典型的な実例はステパノの赦しと、その死において、あますところなく報告されている

 (使途行伝七章参照)。

 ステパノは信仰と聖霊に満ちあふれ、

 めざましい奇蹟としるしを行った初代教会の執事の一人であった。

 彼は捕らえられ、議会に引き渡され、ついに石で打たれつつも、大胆に主を証し、祈ったのである。

 ステパノは御霊に満たされて、幻の内に、

 天におられる主イエスが立ち上がって来られるのを見たのである。

 主は立ち上がってどうされたのだろうか。

 然り、ステパノの愛と赦しの殉教の故に、主は立ち上がってサウロ(パウロ)を救い出し、

 彼をして異邦人のための使徒として立てるべく、天上においてその行動を開始されたのである。

 そしてパウロが立てられる事によって、キリスト教はヨーロッパに渡り、そして全世界に広がっていった。

 ステパノの赦しの祈り、赦しの愛が、実に世界の歴史をひっくり返していったのである。


  何と素晴らしく、偉大な事であろうか。

 一方的に赦すという事は、このように偉大なる神の力を解放していくことなのである。

 あの人が謝ってきたら、あの人が詫びてきたら、そうしたら赦そう、ではない。

 本当は赦し難いが、何とか我慢して赦そうというのでもないのである。

 そうではなく、その人がどうあろうとも、私がイエス様の十字架を見上げ、その赦しの愛に触れる時、

 「主よ彼をお赦し下さい。私も彼を赦します」という道が開かれてくるのである。



  二番目に必要なことは、自分の力によってではなく、聖霊に依り頼めという事である。

 私達は肉なる者であり、感情によっては決して人を赦すことの出来ない者である。

 感情というものは根深いものであって、感情を処理しコントロールすることは大変なことである。

 自分の感情に頼っていては、決して人を赦すことは出来ないのである。

 赦したと思っていても、実に赦していないのである。

 それ故、感情に頼らず、聖霊に依り頼み、祈るべきである。

 「主よ、私は赦すことができません。しかし聖霊さま、

 あなた様がわたしを通して赦させて下さい」と。

 赦しを感情の事柄としてではなく、

 神様の御旨に対する意志的な服従として行っていくという事である。

 主が赦しなさいと語られるから、あえて私の感情をそこに置いたまま、

 信仰と意志の力でその赦しに服従していく事である。言葉で告白する事である。

 「主よ彼を赦します」、「彼女を赦します」、と何度も告白し続ける時、

 意志が感情を抑えるまでに強められて、

 赦そうとする意志の力が感情を制覇していくのである。

 そして私達は感情的にも、憎しみや怨みから解放されて、

 更に主に在る自由な主体へと変えられていくのである。


  この意志的な、服従による罪の赦しを私達が実行していく時にも、

 神はそこに驚くべき御業を起こされる。

 私は最近、「先生は本当に寛容ですね」とよく言われる。

 しかし、元々の私はそうではない。なかなか人を赦すことのできない人間だったのである。

 けれども主は、このような私に一つの貴重な経験をさせて下さったのである。

 それは私達の高砂教会が分裂した時の経験である。

 その時教会員の半数近い人が去って行った。去るだけならまだいい。

 私は彼等から様々に苦しめられることになったのである。

 教区の「主だった人々」に様々なざん言がもたらされ、

 私は何度も呼び出されて釈明をしなければならなかったのである。

 また、私を非難する文書が活版で印刷されて、教会内外のいろんな所に配られ、

 私の牧師としての名誉は著しく損なわれていった。

 ただでさえ、この教会がこれからどうなるかと悩み、苦しみ、

 経済的にも追い詰められた状態であったにもかかわらず、

 その上に、これでもか、これでもかと彼らは攻撃してきたのである。

 今思えば、そこには彼らなりの理由とやむにやまれぬ思いがあったのであろうが、

 その頃の私には、彼等の立場を斟酌(しんしゃく)する余裕はなかった。


  私の怒り、憤りは頂点に達した。

 私は燃えたぎるような憎しみと怨みの思い、怒りを抑えることができないで、悶えた。

 けれども祈りの中で、主は「彼らを赦しなさい。

 そしてその証しとして、彼らに赦しと詫びの手紙を書きなさい」と命じられたのである。

 「冗談じゃない」と私は思った。

 「詫びの手紙を貰いたいのはこちらの方だ」と問い返した。

 私は「そんな事は出来ません。決して出来ません」と、何度も主と押し問答をしたのである。

 しかし主は一歩も退かれない。

 ついに私は降参して、不承不承ながらではあったが、

 彼ら一人ひとりに手紙を書くことにしたのである。

 だが、今度は教会の役員達が反対した。

 「牧師先生、私達は先生の辛さを知っています。そこまでされること、とても見るに忍びません。

 恐らく先生がそこまでされても、良い反応は返ってはこないでしょう。

 だから、やめて下さい」と。しかし主の命令であるから、あえて私はその事に服従したのである。

 その手紙の反応は、案の定、冷やかなものであった。

 けれども、その後、主は私達の教会の上にどのような御業を起こされただろうか。

 教勢は大きく衰退し、意気消沈していた教会が、この赦しへの服従を契機として、

 ぐんぐんと成長していったのである。
 そしてあっという間に、失った半分の人達を補ってあまりある人々が、

 私達の教会へ入ってきたのである。

 かくして、短期間のうちに、信仰的にも経済的にも、

 前以上の豊かな教会へと変貌していったのである。

 これは偏えに神の祝福の御業であった。


  かくのごとく、人を赦すというのは、一方的事柄である。

 相手がどうでてこようと無関係である。

 その時、全能なる神が、その御手を動かされるのである。

 私達は、私達の感情によらず、主の御心に向かって、意志的に、聖霊様の力に依り頼んで、

 赦していく者になろうではないか。

 赦すことはあなたの祝福である、赦すことはあなたの恵みである。

 赦すことは相手にとって以上に、あなたにとって良き事なのである。




いやしを体験する為の諸条件


いやしを体験する為の諸条件(1)

 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。そしてイエスを見つけて、

「みんなが、あなたを捜しています」と言った。イエスは彼らに言われた、

「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。

わたしはこのために出てきたのだから」。

そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。

ひとりの重い皮膚病にかかった人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、

「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは深くあわれみ、

手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。

すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった。

イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、

「何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、

それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」。

しかし、彼は出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめたので、

イエスはもはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた。

しかし、人々は方々から、イエスのところにぞくぞくと集まってきた。

                           (マルコによる福音書1:35-45)

 土曜日の晩になると、教会にはよく電話がかかってくる。子供が病気にかかり、

礼拝に出席ができないと言う。自分の体調がすぐれず、礼拝の奉仕の務めを果たすことができない、

などとも言う。これは悪魔の妨害である。悪魔がその教会に働き、務め、奉仕という業を

妨げてくるのである。特に土曜日の晩などには、礼拝妨げようとする悪魔の働きが強く、

普段余り病気にかからない子供などが急に熱を出すなどというように、足を引っぱることが多い。

私達はこのことをしっかりと認識し、イエス・キリストの名によって、この悪魔、悪霊、

病の霊を追い出さなくてはならない。そこで私は、聖書のマルコによる福音書の御言葉を示し、

助言を与えるのを常としている。すなわち、

「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、

新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。

病人に手をおけば、いやされる」(16・17~18)。

この御言葉のごとくに手を置いて祈ることを勧めるのである。そうすると、果たせるかな、

その翌朝、ほとんどの方は元気な顔を見せる。子供に手を置いて祈ったら、朝になると

いやされていたとか、自分自身の体調もすっかり良くなったとか、嬉しい報告を聞くのである。

 今日、教会において、病気ということに関して誤った信仰理解というものがある。

その一つは、信仰と祈りによって病を治そうとするのは邪道であるという考え方である。

病は医者や薬の力によって治すものであって、今日では信仰によって、または祈りによって、

病がいやされるということは有り得ない。それは科学あるいは医学というものが発達していなかった

昔の時代に行なわれた呪術的事柄であって、時代遅れ、時代錯誤であると、ある人々は言う。

 確かに医師の働き、薬の働きというものも大切なものである。このことを決して軽視したり、

無視するということがあってはならない。しかし聖書で見る通り、神が直接的に働きかけて

いやすということも事実である。言うならば、医師や薬によるいやしは神の間接的ないやしであり、

信仰、祈りによるいやしは神のなされるいやしなのである。もっと言うならば、医学や薬学という

ものは神の直接的ないやしの働きを補うというのがその基本的な務めなのであって、

病をいやすのは根源的に神なのである。このことが理解されていないために、医学や薬学という

ものが傲りに陥り、人間をいやすどころか、逆に破滅させていくということもしばしば起こるのである。

 聖書は霊的な救いのみを説いているのではない。同時に肉体的な救いをも説いている。

すなわち、全体的トータルに人間の救いを完成していくのである。教会で教えるのは霊的な救い

なのであって、肉体的な救いについては関係ない、それは医者や看護婦の仕事である、と言うならば、

それは間違いである。人間がトータルに神に在って恵を受ける、祝福を受けるということが聖書の説く

ところであり、神のみこころなのである。

 最近、心身医学という言葉を時々耳にする。これは、病気というものはその根本において、

人間の持っている精神、特に無意識というものと密接にかかわっているという主張であり、

今日の医学も、私達の深い無意識(霊)の部分が肉体的な病と深くかかわり、その無意識(霊)の

部分に対する治療ということが、肉体的ないやしにとっても必要であるということを認め、

取り入れるようになったというのである。


いやしを体験する為の諸条件(2)

 一九九〇年六月、第一回目の「『キリスト教の第三の波』著者を囲む会」なるものが、

東京早稲田奉仕園において開催された。その会の主催者の一人である長野県岡谷市の石神勇兄が

私共の教会の夏の修養会にも参加された。その時に、この兄弟の上に素晴らしい、

いやしの業が起こされたのである。石神兄は八十三歳を過ぎた高齢の方である。

修養会に参加しようと決心し、準備を進めている時、喉が痛み出し、

声を出すことができなくなってしまった。早速病院に行き診察を受けた結果、

喉の奥にポリープができていることが分かり、声帯の使用を禁止され、

また毎日通院して吸入器にかかるようにとの指示を受けた。

しかし修養会の日は迫り、参加したい思いは募り、一大決心の末に参加したのであった。

 少々の悪化は覚悟の上、無言の行の禁も破ることとし、悪化しても帰ってから改めて

治療すれば良いと、全てを神に委ねて参加したのである。修養会二日目にこの兄弟のいやしのために

祈ったところ、見事にいやされたのである。悪化してもおかしくない状態であったにもかかわらず、

ポリープは跡形もなく消えてしまった。

 主のいやしを初めて自分の肉体をもって体験したこの兄弟は大変に喜んで、

自分が発行しているアシュラムの機関紙にこのことを詳しく書いて同信の人々に送った。

すると意外なことに、反発の声が返ってきたというのである。祈りによっていやされるというような

ことは言うべきではない。それは危険だ。問題だ。いやしを信じないどころか、

いやしを口にすることさえキリスト教として邪道である、というのである。

これが今日のキリスト教界の大変に悲しい憂うべき現実である。今もなお主が生きて働かれて、

いやしの業を起こされるという事実を受け入れようとはしない。聖霊を崇め、聖霊を重んじると

言いながらも、救いを霊的、精神的な事柄にのみ限定してしまう多くの教会がある。

残念としか言いようがない。主は今もなお生きておられ、働いておられ、いやしの業を

なされていくのは事実であるのに。

 病気ということに関して誤った信仰理解の第二は、病気は祝福の事柄であると捕らえることである。

カリスマ刷新運動の端緒を開いた言われるデニス・ベネット司祭の所に、ある一人の婦人がやってきた。

その婦人は難病をもち、医者から見離されていた。婦人は言った。

「先生、私は悟りました。病気というものは神様から来るのです。神様がこの病気を与えられたのです。

ですから私はこの病気を喜んで受け入れようと思います」。

そこでデニス・ベネット司祭は婦人に言った。

「あなたは、今ここにイエス様がおいでになられたとしたら、あなたの病を見てどういう風に

されると思いますか」。

少し詰まってから婦人は答えた。「はい、きっと私の病をいやして下さると思います」

司祭は言った。「そうです。あなたの病をいやすのは主のみこころです。

ですから、今私はあなたの病のいやしのために祈ります。あなたも信仰をもって、

祈りに唱和して下さい」。

そして、その婦人の病はいやされていったのである(デニス・ベネット「聖霊とあなた」参照)。


いやしを体験する為の諸条件(3)

 よく、ある人々が反論して挙げるのは、パウロは自分の病がいやされるために三度祈ったけれども

いやされなかったという聖書の記述についてである(Ⅱコリント12・7~10)。

パウロの病とは、てんかんであったとも、激しい眼病であったとも言われているのであるが、

主なる神は「わたしの恵みはあなたに対して十分である」とパウロに語った。

かくて、そのことが引きあいに出され、病というものは祝福の事柄なのだと強調される場合が多くある。

しかしこれは正しくない。これは例外的な事柄なのである。

 確かに肉体的病というものを持ち続けることを通して、神様の栄光を現わすという場合があることは

ある。しかしこれは特異な事柄である。例外的特異な事柄を一般化してはならない。

むしろ聖書を公平に見ていくならば、主イエスはその公生涯の三分の二を病をいやすという業に

用いられていった。いやしを実行されなかった病というものは何ひとつなく、すべて直接的に

いやされていったのである。使徒達についても同じことが言える。従って、病がいやされることこそ

神様の意志であり、祝福の事柄なのである。病の中にいることが祝福の事柄なのではない。

主なる神は私達の病がいやされ健康になることを願っておられるのであって、

私達が病気になって苦しむことを願っておられるのではない。このことを決して間違ってはいけない。

 ではなぜ、主イエスはこんなにも、いやしのためにその力を注がれたのであろうか。

第一の理由は、神の慈しみの本質を示すためである。主は慈しみ深い方、愛の方である。

子供を愛する親が、病で苦しんでいる子供を見て、治らなくても良いと放っておくであろうか。

子供を愛するが故に、この病がいやされてほしい、元気になって欲しいと切に願って当然である。

 主イエスもまさにその通り、私達を子供のように愛し、憐れみ、心を注いで病をいやして下さる

のである。このように、いやすという具体的な手段を通して、主なる神は慈しみ深く、

愛なるお方であることを私達に示されているのである。当時のユダヤ人達は、神様に対して

恐ろしい方というイメージを持っていた。これは律法主義の結果生じたことであるが、それを打破し、

転換して、神は愛の方、慈しみ深い方、恵みの方であることを具体的に告げ知らせるために、

主イエスはいやしの業を行なっていかれたのである。

 カトリックのカリスマ運動の指導者として有名なフランシス・マクナット神父は次のように

語っている。

「病気を神の御旨ととらえる考え方から、健康といやしこそ神の意志ととらえる考え方に転換する

ことは、しばしば神に対する我々の態度を劇的に変化される」。

すなわち神は、峻厳な審きの神ではなくて、愛と慈しみの神であるということを、

いやすという現実を通して私達は体験していくというのである。

 主イエスがいやしの力を注がれる第二番目の理由は、自分がメシヤであるということを

示すためである。バプテスマのヨハネは牢の中からその弟子を遣わして、主イエスに

「あなたは私達の待っていた方ですか。あなたは救い主なのですか。待っていたキリストなのですか」

と問わせた。それに対して、主イエスは直接には答えずこう語った。

「盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳の聞こえない人は聞き、

死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである」

(ルカ7・22~23)。

 メシアであるというその証拠は、いやしが起こっているということによって分かるはずだ

というのである。なぜなら神の国というのは、いやしが満ちている国のことだからである。

ティリッヒもまた、次のごとく喝破してやまない。

「もちろん、イエス像からこの“いやし”の能力が消失したことについては、福音書に責任が

あるわけではありません。福音書はいやしの物語に満ちています。責任は私たち、

すなわち『救い主』とは『いやし主』を意味するのだということを忘れた牧師や平信徒や

神学者たちにあるのです。救い主とは、肉体的に精神的に破綻をきたし、異常になっている者を

健全にし、正常にする人をいうのです」(説教集「新しき存在」)。

初代の教会には洗礼式、聖餐式の他に、いやしの儀式もあったと言われている。

しかし今日、いやしの儀式は教会の中では行なわれなくなった。そこに今日の教会の問題があると

思われる。今日、多くの人々が病んだままでいる。それが、本来あるべき姿が失われている

現状である。教会は「いやし」を回復しなくてはならない。

それはもちろん、肉体的いやしにとどまるものではない。精神的にも霊的にも、

全体としての人間がいやされていかなければならないのである。


いやしを体験する為の諸条件(4)

私達クリスチャンは、主の十字架のその贖いの御力の故に、また聖霊の力の故に、

人々をいやすことができるのである。主イエスは自らがいやし主であっただけではなくて、

私達にも、いやすことを求めておられる。いやしを認めるだけでなく、私達は自分自身も

いやす者となり、そのことを通して神の愛と憐れみというものを目の前に具体的に人々に

示していきたい。同時に主イエスが確かにメシヤであることを現実に証していきたいと思う。

それでは、いかにしたら、いやす者となり得るのであろうか。このところで与えられている

聖書の御言葉は、そのことを私達に教えている。

その第一は、いやしこそ神の御旨であるとはっきり認識することである。重い皮膚病の病人が

主イエスの所へ願いに来て言った。「みこころでしたらきよめていただけるのですが」(40節)。

主イエスは「そうしてあげよう、きよくなれ」(41節)。

新改訳聖書によると「わたしの心だ、きよくなれ」と訳されているのであるが、この方が適訳である。

ドイツの神学者、エドワード・シュヴァツアーは、この箇所を更に強調して「わたしの意志だ、

きよくなれ」と訳している。いやされるということは神の意志であり、キリストの意志である、

というのである。キリストはこのために来られ、そしてこのために死なれたのである。

すなわち、イエス・キリストの十字架は私達を罪から贖い、呪いから贖い、悪魔に勝利するもの

であると共に、私達を病からいやし、解放するためのものなのである。「その打たれた傷によって

われわれはいやされたのだ」(イザヤ53・5)とイザヤは語った。いやしこそ神の御旨であり、

キリストの御意(みこころ)であることをしっかりと認識することが、まず第一に重要なことである。

御意か、御意でないか、御意だったらいやされ、御意でなかったらいやされない、

そのようなことではない。どんな病もいやされることが神の御意だという前提にまず

立たなければならないのである。

そして、いやされることが神の御意であるという信仰に堅く立ったならば、次に必要なことは

大胆に手を置いて祈ることである。「イエスは手を伸ばして彼にさわった」(41節)。

すなわち手を置いた、按手したということである。なぜ手を置くのであろうか。

それは、手というものが神のいやしの力を注ぎ込む媒体になるからである。

「手当て」という言葉の語源は、まさにこの意味である。古代の人達がその病をいやす時に、

自分の手を当てていやしていったというところから生み出されたのであろう。手を当てるのは、

その手の平を通して、いやしの力が流れ込んでくるからである。手の平というのは、

頭と同様に私達人間の霊の座なのである。頭の上と手の平のうちには特別な霊の座が与えられており、

この所から強力な霊的働きというものが伝播されてくると考えられる。それ故に手の平というのは、

いやしの力を解放する媒体となり、仲介となる役割を果たすことができるのである。

従って私達は病んでいる人の、その病める部分に手を置いて祈ることが大切である。

しかし、そのためにはまず祈る側自らが信仰に満たされ、聖霊に満たされていなければならない。

信仰と聖霊に満たされている時に、その手の平を通して私達の肉体の内に強くほとばしっている

いやしの霊が注ぎ込まれていくのである。いやしの素晴らしい力がそこから注ぎ込まれていくのである。

もし、祈る私達の方が信仰に満たされず、聖霊に満たされていないならば、気を付けなければならない。

何故ならば、そういう時に不用意に手を置いたならば、相手の側の病の霊がその手を通して私達の方に

入ってくることになるからである。確かに私自身の体験からもそのことは真実である。

病の人のために手を置いて祈り始めると、その置いた手が痛み出すことが時々ある。

それは、その人の持っている病の霊がその置いた手を通して私の方に入ってこようとして、

そこで霊的な戦いが起こっているというしるしなのである。

それ故に、むやみに手を置いてはならない。不用意に手を置いてはならない(Ⅰテモテ1・6)

しかし信仰に溢れ、聖霊に満たされている時には、私達は手を置いて大胆に祈っていかなければ

ならない。その時にこそ素晴らしい、いやしの業が起こされて、神様の栄光を現わすことが

できるのある。


いやしを体験する為の諸条件(5)

三番目に大切なことは、神の応答、神よりの確信を受け取るということである。

以前、私の所にある教会の婦人から電話がかかってきた。「先生、主人がくも膜下出血で倒れました。

もう死にそうです。すぐ来て下さい。意識がなく危険な状態です」と泣きながら

呼びかけてきたのである。私は急いで車を手配し、病院に向かった。道中、異言で激しく

祈っていったのであるが、祈っていくうちに熱いものが私の内側から湧き出てきて体中を

行き巡っていくのを覚えた。そしてひとつの言葉が私の内に語りかけてきた。

「この病気は死ぬほどのものではない」(ヨハネ11・4)と。

その時に、「ああいやされるのだ。いやされるのだ」、と強い確信が与えられたのであった。

病院に着いて、その方のために按手して祈ったのであるが、果たせるかな、その翌日から

その方は快方に向かっていった。このように神の応答を受け取ることが必要なのである。

按手して祈った時に、あるいはそれ以前にいやされるという思いが与えられたならば、

それは確信となって、即刻、あるいは時を経て、確実にいやされていくのである。

このように、神の応答がポイントである。応答がないならば、いやしを宣言することはできない。

ではどうすれば神の応答をいただくことができるのか。どうすれば確信をいただくことが

できるのか。その秘訣は祈りにある。すなわち、日々祈りの生活をしていることが大切なのである。

「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」

(36節)。主イエス御自身、早天の祈りを大切にされたのである。

それは、早天の祈りの絶大なる力を物語っている。他のいかなる時に祈る祈りにも優って、

早天の祈りは神の力を解放するものなのである。朝の早い時間を主に捧げて祈っていく時に、

私達自身も霊的な力に満たされた生活を持続していくことができる。

そして、神との強い関係がいつも保たれ、神からの応答をいただいていくという霊的感受性を

持つことができるのである。

次に、いやしを受ける側についてはどうであろうか。いやす側の条件は整っていても、

いやされる側の条件が整っていなければ、神のいやしの力を妨げられるのである。

それ故に、いやされる側の条件、姿勢というものも同様に大切なものである。

何よりも必要なことは、いやしへの熱望ということである。いやされたいという切なる願いを

持っているということである。いやされてもいやされなくてもどちらでも良い、いやされるなら、

いやして下さいというようないい加減な気持ちならば、いやしは中々起こらない。

四〇節のところに重い皮膚病の病人がいやされた記事がある。当時の重い皮膚病の病人は、

ゲヘナという谷で全く隔離されて生活しなければならず、公の場へ行くことを禁じられていた

のであるが、しかしその禁を破ってでも、何としてもいやされたいと、この重い皮膚病の病人は

願ったのであった。この熱意が重要である。

この点について「ツロ・フェニキヤの女」(マタイ15・21-28)の姿は私達の模範である。

拒絶されつつも尚、必死にすがってくる姿勢は、ついに主イエスの心を動かし、彼女の願い通り、

娘の不治の病はいやされていったのである。

二番目に罪を悔い改め、主の血潮を受けるということである。私達の内の罪、罪責感というものが

あると、神の働きを妨げることになる。人間は皆罪人である。人間である以上、罪がなくなる

ということは有り得ず、罪を犯さないということも有り得ない。

しかし私達は主の十字架の血潮によって、その罪のすべてを潔めていただくことができるのである。

ことごとく洗い潔めていただいて、主の前に出るということが大切なことなのである。

私自身、以前、腸の潰瘍に悩まされていた。カリスマ刷新の是否を巡って、教会内に紛争が起こり、

色々な攻撃が加えられ、神経性腸潰瘍となったのである。役員会に臨むと腸がキリキリと痛み苦しんだ。

その苦痛の中で、私はいやしの祈りをしたのであったが、熱心に祈り求めたにもかかわらず

いやされない。「なぜか」と私は問い続けた。ある時、私の心の内に一つの悔い改めが示された。

それは、私に攻撃を加える人々、まだ問題を提起してくる人々に対する怒りや憎しみが、

私自身の中にあるということであった。特に人を憎み赦さないところには、神の働きも十分には

起こされ得ない。そのことを示され、主の前にこの罪、悪しき思いを悔い改め祈っていったのである。

そうする中で、私の腸の潰瘍は完全にいやされていったのであった。

このように、主の前に自分自身の罪を悔い改める、それが、いやしの霊が働かれる大切な条件である。

三番目の条件として、創造の信仰を持つということである。救いの信仰、それは主イエスの

十字架を信じて救われることである。しかし、創造の信仰というのは、奇蹟を認め、求める信仰である。

まだ持っていないものを心に描いて、口で告白してそれが成ると信じる、そのような信仰である。

ヘブル書の「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」

(11章1節)という信仰、この創造の信仰が大切なのである。私達はいやしを受ける時、

自分が元気になっているその姿を思い浮かべなければならない。思い浮かべ、しっかりと心に描いて

祈っていただくのである。そうするならば、その祈りの力は激しく働き、そしていやしの力は

素晴らしく注ぎ込まれていくのである。

 いやす側、いやされる側についての条件、姿勢というものについて述べてきたが、さて、次に

いやされた後私達はどうすればよいのであろうか。二度と再発しないために、またいやしが

持続されるために、私達が気を付けなければならないことはどんなことなのであろうか。

 主イエスは「自分の体を祭司に見せなさい」と言われた。すなわち、本当にいやされているか

否かを医者の所へ行って確かめよということである。前述の喉のポリープがいやされた石神兄も、

修養会を終えて帰られる時、帰ったらすぐに病院の診療を受けるようにと勧めた。

「これで治っていたらすごいねー」と言いながら帰り、翌朝一番に受診したのであったが、

医者が首をかしげ、「いったいあなたは何かしたのですか。もうすっかりあなたはいやされています。

通院もお薬も必要ありません」と言ったという。ハレルヤ! 

このように医者の所へ行って確かめることが必要である。

 そして二番目、感謝の捧げ物をすることである。「モーセが命じた物をあなたのきよめのために

ささげなさい」(44節)と主イエスは勧めている。いやされたならば主に栄光を帰すために、

私達は捧げ物をしなければならないのである。主の前に心から喜んで献げることによって、

主がなして下さったいやしの業に感謝を表明し、すべての栄光を主に帰していくのである。

 三番目。その後の信仰生活において、従順であらねばならない。病や悪霊は油断するとすぐに

舞い戻って来るばかりでなく、往々にして前よりももっと悪い状態になってしまう場合がある。

これは決して脅しではなく真実である。私自身、実際にいくつもの例を見てきた。

それ故に、私達は油断せず、その後も信仰生活をきちんと守り続け、いやされたその体を主のために

用いていくという謙遜な姿勢が大切である。主に対する忠実さ、従順さを一層保持することが

大切なのである。そして、いやしを受けた者達は、今度は他の人々のためにいやしの祈りを

することを通して、主の素晴らしい御業を人々の前で証しをしていきたいものである。







内なるいやしを体験していく道程


内なるいやしを体験していく道程(1)


アブラハムはそこからネゲブの地に移って、カデシとシュルの間に住んだ。

彼がゲラルにとどまっていた時、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」

と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人をつかわしてサラを召し入れた。

ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた、

「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」。

アビメレクはまだ彼女に近づいていなかったので言った、

「主よ、あなたは正しい民でも殺されるのですか。彼はわたしに、これはわたしの妹です

と言ったではありませんか。また彼女も自分で、彼はわたしの兄ですと言いました。

わたしは心も清く、手もいさぎよく、このことをしました」。神はまた夢で彼に言われた、

「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、

わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。いま彼の妻を返しなさい。

彼は預言者ですから、あなたのために祈って、命を保たせるでしょう。

もし返さないなら、あなたも身内の者もみな必ず死ぬと知らなければなりません」。

そこでアビメレクは朝早く起き、しもべたちをことごとく召し集めて、これらの事を

みな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。そしてアビメレクはアブラハムを召して言った、

「あなたはわれわれに何をするのですか。あなたに対してわたしがどんな罪を犯したために、

あなたはわたしとわたしの国とに、大きな罪を負わせるのですか。あなたはしてはならぬことを

わたしにしたのです」。アビメレクはまたアブラハムに言った、「あなたはなんと思って、

この事をしたのですか」。アブラハムは言った、「この所には神を恐れるということが、

まったくないので、わたしの妻のゆえに人々がわたしを殺すと思ったからです。

また彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではありません。

そして、わたしの妻になったのです。神がわたしに父の家を離れて、行き巡らせた時、

わたしは彼女に、あなたはわたしたちの行くさきざきでわたしを兄であると言ってください。

これはあなたがわたしに施す恵みであると言いました」。そこでアビメレクは羊、

牛および男女の奴隷を取ってアブラハムに与え、その妻サラを彼に返した。

そしてアビメレクは言った、「わたしの地はあなたの前にあります。あなたの好きな所に住みなさい」。

またサラに言った、「わたしはあなたの兄に銀千シケルを与えました。これはあなたの身に起った

すべての事について、あなたに償いをするものです。こうしてすべての人にあなたは正しいと

認められます」。そこでアブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻および、はしためたちを

いやされたので、彼らは子を産むようになった。これは主がさきにアブラハムの妻サラのゆえに、

アビメレクの家のすべての者の胎を、かたく閉ざされたからである。

(創世記20:1-18)

一九八八年の夏、私は郷里の茨城県結城市に久し振りで帰った。この旅行はいわゆる休暇旅行

というのではなく、教会建設のため資金を集める「集金旅行」であった。私はかつての友人たちに

集まってもらって、高砂教会の新会堂建設のための資金の協力お願いしたのである。

彼らは郷里を離れて久しい私のために駆けつけ、その申し出に対しても快く応じて協力を

約束してくれたのであった。この事は私にとって望外の喜びであったので、私は感謝の祈りを

捧げたいと思って近くの城跡公園に足を運んだ。そこは私の田舎の家のすぐそばにあり、

子供のころはうっそうとした社であったが、今は整備されて美しい公園となっていた。

私は懐かしいこの地に入った瞬間、ふと不思議な感情に襲われたのである。喜びと感謝に溢れて

いたはずの私の心の中に、何か分からない深い悲しみの感情が押し寄せてきて、涙がとめどなく

溢れ出してきたのである。旅行中なので少し感傷的になったのかと一瞬思ったが、その時、私の瞼の

裏にはっきりと一つの光景が描き出されてきた。それは、私がまだ幼かったころの事であった。

私は嬉しいにつけ、悲しいにつけ一人でこの公園によく来たものだ。当時は杉がうっそうと

茂っている社であった。私は旧満州で二歳で母と死別し、父はその後関西で再婚していたので、

結城に住む父方の祖父母の世話になっていた。そこには父の弟もいて、この叔父は特攻隊の生き残りで

大変気持ちの荒んでいた人であった。今にして思えば無理もない事である。それまで正しいと思って

いたことが終戦と共に間違いだとされ、叔父も自分の気持ちのもって行き場がなかったのであろう。

よく私を殴ったり蹴ったりして乱暴を繰り返した。その他にも、両親がいないという事は、

何かにつけて惨めで辛く悲しい事も多くあった。

そんな時、私はじっと我慢して、この社へ走って行っては、いつもの大きな杉の木に顔を埋めて

怒りと悲しみをぶつけたものである。そう、何度杉の木めがけて一目散に走って行って

泣いた事であろう。久しぶりにこの社に立ったその時、長い間すっかり忘れていた幼いころの、

あの辛く悲しい思い出がありありと私の瞼の裏に浮んできたのである。この幼児期、そして少年期の

悲しい思い出が、私の深い部分で心の傷になっていたという事を、私はその時、はっきりと自覚した

のである。あの時受けた深い傷が、私の他者に対するある種の警戒心、怖れをもたらせていたという

事が、涙とともに分かったのである。人間は誰でも傷つけられたくないものである。私もこの幼児期、

少年期の深い心の傷のために、二度と傷つきたくないという警戒心を人々に対して強く持っていた

ようである。そのために、私は人と気楽に親しくなることができず、深い付き合いは苦手であった。

おそらくこの幼い日の辛く悲しい経験が傷となって、無意識的に人々を拒否していたのだという事が、

その時はっきり分かったのだった。

アメリカの心理学者、ミッシェル・ディーンの著書に『あなたの過去の内なる幼児』という本がある。

彼はこの著書で、結婚のベッドには本当は四人の人間が寝ていることを指摘している。

それは夫と妻と、そして小さい男の子と女の子である。夫と妻という愛し合っている男女の中に、

幼い日の傷ついた子供がいるというのである。この事は、換言するならば、意識的存在の男女と、

無意識的存在の男女といってもいいだろう。人間は意識の部分で生きているかに見えるが、

実は隠れた部分である無意識が、人間の生き方に深く、大きな影響を落としているのである。

これをミッシェル・ディーンは「内なる幼児」と名付けている。

結婚のベッドの中の意識的存在である男女は、愛したい、愛されたいと願っている。

しかし、内なる傷ついた幼児である無意識的存在である男女は、「どうせ、あなたはわたしを

愛してくれないでしょう。あなたも、あの人のようにわたしを傷つけ拒否するでしょう」と、

否定的な思いをもって、共にベッドに寝ているのである。

また、この過去の内なる幼児は、時として突如として暴れ出し、私たちの現実の人間関係をも

破壊していく。私は結婚して間もなく、妻から「あなたは女の人が嫌いですね」と言われた事がある。

私には、それは晴天の霹靂とも言うべき驚きであったが、私は深くその言葉をかみしめた。

そして、やがて祈りの中で、幼い日に母を失ったという経験が、私の内に途轍もない深い心の傷と

なっているということが分かったのである。それは、最愛の者から捨てられた、という幼児期の

強烈な感情の経験である。もちろん、母は私を捨てたわけではない。戦後の混乱渦巻く旧満州の地で

どんなにか忍び難く、悲痛な思いで枕下に私を遺して死んでいったのであろうか。母には何の責任も

ないのである。しかし、未だ二歳であった幼児の私からしてみれば、そんな事情は理解し得べくもなく、

いつの間にか突然最愛の者が姿を隠し、自分を放擲(ほうてき)したとしか感じられなかったに

違いないのである。

私が“母なるもの”から捨てられたという経験は、この時だけで終わったわけではない。

奇跡的に日本へ生還することのできた私は、田舎の祖父母の元に預けられ、そこで育くまれた。

そこには私の父の一番下の妹、すなわち叔母がまだ女学生として一緒に生活をしていた。

その叔母は、私の祖母と共に私をこよなくかわいがり、何くれとなく面倒を見てくれたのである。

その叔母は私にとっては母のごとき存在であった。

しかし、やがてその叔母も私から去って行く時が来たのである。叔母の嫁入りである。

確か小学生三年生の時であった。叔母が嫁いで行った後、私は二、三日間何をする気もなく、

ただボーッとしていたことを記憶している。その時、私は再び“母なるもの”から捨てられたという、

心の傷を負うことになったのであろう。更に悪いことに、私は十五歳の時にも“母なるもの”から

捨てられるという経験をしたのである。

そのころ、再婚をして家庭を営んでいた父と共に生活をすることになったのであるが、

義母が喜ばなかったため私は止む無く家を出て、独りで生活することになったのである。

それは、これまでの私の内側の心の傷を更に広げる出来事となったのである。かくして私の無意識、

内なる幼児は「もうたくさんだ」「もう結構だ」と叫んでいたのであろう。

そして、いつの間にか“母なるもの”、“女性なるもの”に対して堅いガードを作っていたのである。

では、私たちのこのような心の傷がいやされるためには、どうすればよいのであろうか。

まず第一は自分の内なる傷をはっきりと見極め、認める事である。そして、この傷をいやして

いただくように祈り求める事である。

「神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」

(新改訳 詩篇139・23-24)。

私自身“母なるもの”に深く傷ついていることを認め、そこからいやされることを切に求めた時、

大いなる「内なるいやし」(inner healing)を体験することができたのである。

ある真夜中に、激しい嗚咽(おえつ)と共に起こったあのいやしの出来事を、私は今でも鮮烈に

思い浮かべることができる。そして、あの夏の城址公園での体験は、私の内なるいやしの総仕上げ

ではなかったかと思われるのである。

内なるいやしは一度なされれば、それでよいというものではない。徐々に繰り返し起こされて、

遂にその傷口が完全にいやされていくのである。ちょうど玉ねぎの皮をむくように、一枚めくれば

次の傷口が発見され、そこにもまたいやしの必要がなされる。そして更にもう一枚と、心の内側の

沢山の傷の一つ一つが時間をかけて順次いやされ、解放されていくのである。

元アメリカ大統領のジミー・カーター氏の妹であるルース・カーター女史は、アメリカの

カリスマ運動の女性指導者の一人であったが、彼女はまた「内なるいやし」のエキスパートであり、

このルース女史こそが、兄ジミー・カーター氏を大統領に押し上げた陰の力であったといわれている。

カーター氏は、最初の選挙でもあったジョージア州の知事選挙で敗北し、挫折した。

彼は多くの借金をかかえた上、病に倒れてしまったのである。この時、妹のルースは兄を励まし、

生ける神へ信仰、すなはち、カリスマ的信仰を教えたと言われている。

そしてこれによりカーター氏は立ち直り、ジョージア州知事に見事当選を果たし、

やがてアメリカ大統領にまでなっていったのである。カーター氏は歴代大統領の中でも、

あの信仰の人として知られるアブラハム・リンカーン以上に敬虔な信仰者であったといわれている。

このジミー・カーター氏をボロボロの中から立ち直らせ、もう一度生きる勇気を与えた

ルース・カーターは、実は彼女自身が結婚生活の破局に悩み、ボロボロになったことのあった人で

あった。彼女は結婚して間もなくノイローゼになり、自殺志願者にさえなったが、やがて

ある友人を通してカリスマ刷新の集会に導かれていった。そして、彼女はそこで内なるいやしの

カウンセリングを受け、そして、いやされたのである。そのカウンセリングは、祈りが中心であった。

彼女の友人はルースのために祈り、その示された事を彼女に告げた。

「今私があなたのために祈っていた時、幼いあなたが出てきて、あなたは泣いています」。

その時ルースは一つの事を思い出した。それは彼女が少女のころの、ほんのささいな出来事である。

彼女は父親から溺愛されていた。父はルースに向かって、いつもお前は世界で一番かわいい娘だと

言っていたのである。ルースもまた、自分の父は世界中で一番素晴らしい父だと思っていたのであった。

ところがある日。ルースは新聞を読んでいた父の背後から「パパ」と呼んだ。しかし父親はおそらく

新聞に夢中で聞こえなかったのであろうか、返事をしなかった。彼女はもう一度「パパ」と

呼んでみたが、やはり返事をしてくれない。ルースには大変なショックであった。そしてこの時に、

心に深いダメージを受けてしまったのである。それ以来、彼女は自分はある時点まではかわいがられる

が、しかしそれを過ぎると大事にされなくなるに違いないと思い込んでしまったのである。

この事が彼女の対人関係に対する怖れとなった。二度と傷つきたくないという思いから、

何事に対しても防御的になり、その結婚生活も破局的なところまで追いやられてしまったのである。

しかし彼女は、カリスマ刷新の集会を通して救われ、自分の内側に、傷ついた幼児を発見し、

そして内なるいやしを体験したのである。その後彼女はアメリカのカリスマ運動の指導者の一人となり、

溢れんばかりの聖霊の満たしの中で、多くの人々に希望と慰めを与え、ついには絶望のどん底にいた

兄ジミー・カーターをも立ち直らせて、彼をして大統領の道へと導いていったのである。

それでは私たちの心の中には、どのような幼児がいるのだろうか。どのような根があるのだろうか。

そしてそれは良いものか、あるいは悪いものなのか。もし悪いものであるならば、それは私たちの

人生のために取り除かなければならない。聖霊の光によって内なる傷を探り、内なる幼児がどのように

傷ついているかを私たちは知らなければならないのである。そしてそこに神の愛と、いやしの御力を

注いでいただく事を求める必要がある。そうするならば、あなたの人生はもっと幸いな、豊かな実を

結ぶ人生へと大きく変えられていくことは疑いない。

創世記20章を通してこの問題について更に学んでみよう。この記事は信仰の父アブラハムの

内なる傷を扱った箇所であり、それ故の失敗の記事でもある。アブラハムはかつての名を“アブラム”と

いった。それは“高貴なる人”ということを意味した。そして彼の物語の中には、確かにその高貴なる

人格が随所にうかがえる。特に、甥であるロトとの関係においては、その土地のために分かれる場面で

アブラハムは自分の権利を一切主張せず、ロトに肥沃な土地を譲る人であった(13章)。

また同時に、勇敢な人でもある。ロトを助けるために、勇猛をもって知られるケダラオメルの軍隊に

対して、わずか三百名ほどの手勢で戦いを挑み、大軍を見事に打ち破っていったのである(14章)。

このように、高貴であり、かつ勇気ある人であったはずのアブラハムが、この箇所ではがらりと

変わってしまい、何とも卑怯な、卑劣な男として描かれているのである。それも一度ならず二度までも、

妻サラとの関係において彼はその醜い姿をさらけ出すのである。

なぜ、アブラハムは妻を二度に渡って売り飛ばすような、理解に苦しむ行為をしてしまったのだろうか。

彼の中に、いったい何があったのか。彼の心の奥深くにある内なる傷、内なる問題とは何であったので

あろうか。

11節以下のアビメイクに対するアブラハムの釈明の中に、私たちはその答えを見いだすことができる。

特に12節であるが、そこに「彼女はほんとうにわたしの妹なのです。わたしの父の娘ですが

母の娘ではありません。そして、わたしの妻となったのです」と語られている、つまり、アバラハムに

とって妻サラは異母妹だと言うことは、彼らの関係が、呪わるべき近親相姦であった事が明らかに

されていることになる。そして、これこそが、彼らの拭うことのできない大きな問題であった。

元の名をサライ(“美しい女”の意)といったサラは、おそらくその名のごとく、大変美しく魅力的な

女性であったろうと思われる。それ故、アブラハムは若気の過ちか、サライを妻とせねばならい

事情が出来てしまったと推察される。しかし、この事は当時の社会にとっても呪わるべきことであり、

現代社会においても、超えてはならないタブー事である。文化人類学者として有名な

レヴィ・ストロースは「近親相姦を犯すか、犯さないかは、動物社会と人間社会の決定的な

分岐点である」と言っている。つまり、これを超えるならばそれはもはや人間ではなく、

動物の中に入ってしまうという意味である。

ところが、今日この問題は世界的に深刻化しつつあるようである。驚くべきことには、

“紳士の国”イギリスにおいて特にこの問題は深刻であり、この問題専用のカウンセリング・ダイヤルが

公に設置されるほどひどい状況にあると言われている。ここから生じる社会的ダメージは、

いかに大きなものであろうか。これを越すならば人間でなく動物であると言われているように、

人間の根源的なあり方を問う問題を抱えているだけに、この傷たるや、非常に大きく、かつ深刻な

ものであることは疑い得ない。かくて、この深い心の傷が「信仰の父」と呼ばれていたアブラハムの内

に、ある大きな苦い根となっていたことは確かであろう。この大きな苦い根は、アブラハムをして

いかばかり苦しめていただろうか。それが何十年も前の若気の過ちあったとしても、

人間はそれによって知らずして影響を蒙っているのである。

私たち人間は、自分のあずかり知らないところでも傷つけられ、傷を負う以上に、

自分のあずかり知る、自分のした事によってなおさら傷つき、傷を負うのである。

そして、アブラハムはこの心の傷の故に、深いところでサラを忌避したかったのであり、

それが二度にわたるサラの売り渡しの行為となって現われてしまったのである。

だがこの物語をアブラハムの心の傷故の失敗の物語と読んではならない。否、むしろ、

主なる神ご自身が、選び、油を注がれたアブラハムの心の痛手をいったいどのように扱われたかをも

見事に描写していると共に、私たちの内なるいやしの可能性をも暗示する物語なのである。

そしてこの所を読む時、神のなさり方は私たちの常識では測ることができず、神の思いは

私たちの思いと異なり、はるかに高いことを知るのである。

ペリシテ人の王アビメレクは、アブラハムの言葉を信じてサラをもらい受け、自分の妃として

迎え入れたのであるから、アビメレクに罪はない。嘘をついたのはアブラハムであって、

道徳的にはアビメレクが悪いのではない。にもかかわらず、神はアビメレクに懲罰を降され、

アビメレクに償いを負わされているのである。神はその懲罰として、アビメレクの妻とそのはしため

から子を産む力をとりあげられ、又代償として、羊の群と牛の群及び男女の奴隷を求められ、

その上に銀千シケリをも償いとしてアブラハムに与えられたのである。これは何とも理解し難い

神のなさり方である。むしろ、賠償しなければならなかったのはアブラハムの方ではなかろうか。

アブラハムが不正をし、嘘をついたために起こった事件ではなかったか。むしろアビメレクは

知らずしてサラを妃に迎えたのであるから、アビメレクには何の罪もないはずだ、というより

彼は被害者ではなかろうか。しかるに被害者自身が多大の償いをしなければならないとは、

いったいどういうことなのであろうか。

この事に対しての第一の理由は、アブラハムは神によって特別に選ばれ、油注がれた人物だという

事である。彼は“預言者”であると記されているが、この“預言者”とは、イザヤとかエレミヤなどのよう

に、上からの神の言葉を語り、啓示を語る預言者とは少し異なる。この場合の預言者は、

神に油注がれた人物、カリスマ的人物という意味である。神はご自身が油注がれた人物に対して

えこひいきなさるのである。それ故に、神が油注いだ人物に対する攻撃は、それが私たちの目から見て

幾ら道理にかなってはいても神に対する攻撃となり、神の報復は免れないのである。

これは神のなさり方であって、聖書の中に繰り返し記されている神の法則である。

次の理由は霊的な代償の法則ということである。それはアビレメクの代償というのが、

実はキリストの十字架を予め表わしていたという事である。神はアビメレクの代償という事を通して、

やがて来るキリストの十字架のひな型を人類の前に提示されたのである。

アビメレクはこの事においては何の罪も犯さなかったにもかかわらず、その代償を払わなければ

ならなかった。まさにそれはイエス・キリストが、全く罪を犯さなかった方であるにもかかわらず、

人類全体の罪と呪いのために、又この世界を支配するサタンの力から人類を解放するために、

その代償となってご自身を捧げなければならなかったことを指し示している。

神の独り子なるイエスご自身がその身に鞭打たれ、釘を打たれ、そして最後の一滴に至るまで

その血を流して苦しみを受け、償いとなって下さったことにより、罪、呪い、悪魔から贖い出して

下さっただけではなく、病からも贖い出して下さったことを思い起こそう。

ところで、私たちは肉体の病を負っていると共に、それ以上に心の中に多くの病と傷をもっている

ものである。しかし、イエス・キリストは、その十字架の贖いを通して私たちの肉体ばかりでなく、

心の病をもいやして下さるお方なのである。主イエスは私たちをいやし、強めて、自由にし、

解放するために十字架にかかられ、復活されたお方である。それ故に私たちは、はばかる事なく

主の十字架の前に、その光の中に自らを運び行き、自分自身の心の内側にある問題を、

その悪しき根を、まず示されるよう願おうではないか。そしてそれが示されたならば、

いやしの第一歩が始まったという事である。

繰り返すが、私たちは自分のあずかり知らないところで傷を受けているように、

自分自身の罪によっても傷を負っているものである。そして、それらの傷は、私たちの知らない

無意識の領域で蓄えられ、呪いとして、否定の力として私たちをむしばみ、苦しめ、私たちの

知らないところでこの力が私たちの人間関係を破壊していくのである。この力が私たちの生活を歪め、

健康を歪めて、私たちをしてその内側から崩壊させていくのである。

私たちは肉体的に健全であると共に、精神的にも健全でありたいと思う。そのために神が遣わされた

救い主、イエス・キリストの十字架の贖いと、すべてに浸透して下さる主の血潮によって、

肉体の病と共に、その内なる傷を、霊の部分、無意識の部分に至るまで、いやしていただこう

ではないか。そして更に、豊かな健康的な生き方をしていきたいと思う。それには、主の光の中で、

恵みの光の中で、私たちの内なる幼児をしっかりと見せていただこう。私たちの内なる傷が

何であるかという事を、自分自身がはっきり認め、自覚して、「主よ、どうぞ、この幼い子を

いやして下さい。わが内なる幼児をいやして下さい。この傷ついている幼児をいやして下さい」

と祈り求めていこう。そしてその時に、主は一人ひとりの内側に臨まれ、内なるいやしの完成へと

導いて下さるのである。








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